~ いるかしあわせ宅配便 ~

ばあちゃんのひとりごと

私の心は…何を求めているのか、本物か?

2016-05-29 08:42:56 | Saranyaのひとり言

私たちは何のために生まれてきたのか?そのために何を求めるか。

私たちの体は食べ物で支えられている肉体、そしてその肉体を動かしているエネルギー(気)が存在します。

そのエネルギーに方向を与えている想い、考え(想念)によって体は動きます。

その想念は過去の記憶や新たな情報(知識)によって支えられ、その情報をエネルギーに移行します。

私たちの動きの根本原因は楽しく幸せでありたい(福楽)という動機によって知識を支えています。

ひとりの人間には肉体、気、想念、知識、福楽と存在していると古来インドでは綿々と伝えられてきました。

例えば

赤ちゃんが欲しい…。お友達の赤ちゃんを見て私もあのような幸せを味わいたい。夫の子が産まれてきたら夫婦は今よりもっと幸せになる。赤ちゃんの存在が幸せををもたらすと信じる。そして妊娠するための情報を集める、より幸せは赤ちゃんが産まれることだと、どんどん執着していき、想いも膨らみ、赤ちゃんが産まれることが最大の幸せと思い込むようになる。その幸せを得るために努力していく、エネルギーはそのことに集中して消耗していきます。産まれなければ落胆し不幸になります。しかし、妊娠したとしても束の間の喜びとなります。

この繰り返しが人生です。常に目先の事柄に何かを求め、それが成就するかしないかで幸不幸を決定していきます。絶対的な幸せではないことに気づいていきます。それでも、私は幸せをそしてそれにまつわる何かを求め続けます。そのとき、その想いは絶対か、また永遠に続くか、本当の幸せ至福かを判断していくしか本当の幸せに辿り着くことはできないのです。

日頃感じている私は体を含め性格やその肉体に付属する諸々を漠然としたものを誰もが「私」と思っています。実は本当の私ではないのです。これらの事柄を知っている「もうひとりの私」が存在しますよね。これも誰もが感じていることです。その時の表舞台を演じているのが「私」だと勘違いをしています。本当はその様々の様子を知っているのが「本当の私」であることに気づくと…。何かにこだわり、何かを求めることの虚しさを感じます。それらは束の間の幸せであり、もう少しこの幸せを感じていたいと思っても、一瞬に水の泡のように消えていきます。

動き回る何かを見ている動いていない何かが在る、何かというより意識があるのです。日頃の心を知っている意識があります。このからくりを知っているのと知らないのとではこれからの人生で「私」という心の方向を見極めていく上で違ってきます。

心、性格というものはそれぞれが生まれてきて経験を重ねて来た結果で作られた不完全なものだということが理解できます。そこにいろいろな知識を持ち込み制御しようとしても切りがないのです。

私という心を知ることです。

この一週間、私という心が何を考え言葉にしようとしているか観察してみてください。

佳い一日をお過ごしください。