悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

ちづる

2012-01-19 23:42:11 | 言葉

大学の卒業制作で撮った映画。自閉症の妹、母、時々監督である兄が登場する。
今朝、監督の赤崎氏がNHKラジオに出演していた。
その中で紹介された話。映画を見ての感想で、監督自身が、
良いなと思った言葉がある。

「主人公の特異な行動を見て、母親のような気分になり、
以後特別な目で見なくなった。」

この言葉を聞いて、知ってもらうことの大切さを再確認したとのこと。
監督は兄として、妹の障害を理解してもらうことの難しさから、
周囲に伝えないという行動をとってきたそうだ。
卒業制作にあたり、指導教官から妹を撮ることを提案され、
触れられたくないテーマを与えられたと感じたとのこと。

ひとは、自分の属している集団のルールは、すべてのひとが守るべきと、考える。
所属している集団。いろいろな属性によって区分できるが、学校であったり、
職業であったり、母親であったり、何らかの障害を持っていたり。
ルールは、所属している集団によって少しずつ違う。特異な集団であれば、
ルールも大きく違う場合がある。それぞれのルールには、それぞれの理由がある。
なぜそのようなルールを採用したのか、理解されにくいと、容易に差別に結びつく。

言葉によるコミュニケーションができないと、理解できない部分が発生しやすい。
なぜそのような行動をするのか、理解する道筋がつかみにくいからだ。
障害者の問題を美談に仕上げてドラマ化すると、真の理解に結びつかない。
可愛く、我慢して、一生懸命な障害者には共感しても、
主張し、要求する障害者は理解されにくい。なぜ主張し、要求するのか、
理解しようとすることはまれで、簡単に切って捨てられることが多い。

それでも、自閉症を扱った映画が共感を持って見られるようになったことは、
人間の大きな進歩だと思う。人口比からすれば圧倒的多数ではないかもしれないが、
1961(昭和36)年に公開された「名もなく貧しく美しく」の時代と比べれば、
確実に進歩していると思う。

ただ、自閉症への理解も、科学的な理解が進んだことも一因だ。
昔は、母親の育て方に原因があるという捉え方が主流だった。
現在は、脳の器質的な障害であるということが理解されるようになっている。
自閉症に限らず、障害そのものへの理解が進むことで、
障害を持ったひとへの理解も進む。

障害に限らず、隠さずおおっぴらに自分を表現できる社会になれば、
より住みやすい社会になるのだろう。

<本日の歩行:10.4㎞>~59日目
①自宅~宮戸橋往復10.4㎞(20:38~22:19)
※昨日と同じ道を歩く。足指先の痺れは同じようにあるが、
爪周囲を痛めることはなかったようだ。休憩なしで、時速は6㎞。
多少の疲れは出たが、腰のだるさも軽度。終始同じ速度で歩く。