テレビの番組にAku jika Menjadi(アク ジカ ムンジャディ、もし、私がなったなら)というのがある。長寿番組である。若者が、田舎の貧しい家庭に何日か泊りこんで、その家の仕事を手伝う。若者は都会で育った人たちなので、その仕事の大変さと評価(価格)の低さと、住まいの貧弱さに戸惑って涙を流す。その家の人たちも一緒に泣く。そして、家族で、一日出かけている間に、生活必需品や電化製品や場合によっては牛やうヤギ、バイク、そして、家の建て替えや小さな店の準備などをしておく、夕方帰ってきた家族が感激して泣きだす。そして、アラーに感謝する。
別の番組で、Minta Tolong (ミンタ トロン、お願い助けて)というのが在る。この番組の内容は貧しい家の子供が靴やサッカーボールが使えなくなってしまったので、お金をほしいとか、現物を買ってほしいとか、一見、貧しい人に路上で頼むのです。いかにも貧しそうな、道端で小物を売ったり、何かを修理したり、体の一部が不自由だったりする人に頼むのです。テレビ番組の制作者が子供をそういう人に仕向けるのでしょう。近づいていってしつこく頼むのです。進行上、最初のうちは、冷たく断れる状態を長し、そのうち、何とかしてやろうという人に出会うようになっているのです。
手助けしてくれた人に、番組のスタッフが、何故、自分の暮らしが大変なのに、あの子を助けたのか、という質問をし、そのご、多分、百万ルピアくらいだろうと思うが、さっと出して、その人に握らせ、立ち去るのです。それにびっくりしたと同時に、膝まづいて、お祈りを始めるのです。そこへ、カメラが真近に寄ってきて、再度その人の生活事情を質問し、その人の家庭まで押し掛けて、思いがけないお金が入ったことの家族での喜びを取材し、アラーへの感謝のお祈りを流すのです。
手伝ってもらった子供のことは、全く話題にしません番組のスタートの意味から、その子供がどうなったのか、触れなければならないと思うのですが、無視のまま終わってしまう。
子供が一見、金持ちに頼んでしまって、手伝ってもらったのでは番組にならない。もし、私に頼んできたら、直ぐ、手伝ってしまう。それではだめなのです。
もう、一つTokar nasib(トカール ナシブ、運命を交換)金持ちの家族と貧しい家族が一日24時間家を交代して住むのです。金持ちの家の子供は不満タラタラ、奥さんも大不満。貧乏人の家族も、その生活に馴染めない。どちらの父親も、その仕事に馴染めない。結局、どちらも、満足できずに元に戻ってほっとする。そして、金持ちの方から貧しい方に何らかのプレゼントをして、めでたし、めでたし、で終わる。これも、番組の進行上、貧しい家の人が金持ちの家の暮らしや仕事に満足してはならないはずである。いずれも、元に戻りたいという気持ちにならなければならないはずです。そのように仕向けるのです。
貧乏人をネタにする番組が宗教の宣伝に使われている印象があるが、インドネシアの大多数の人はこういう番組に心地が良いのだと思う。
葉っぱのような花、色違いだが同じ花です。それとも、葉の変色なのでしょうか、小さな花がやはり色違いで見える。
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