3199 私が一番、気に入らないことは、私が、総合的にみて、自分より能力が低いと思っているが、自分以外の人を責めることだ。勿論、そういう人に下にいれば、私が言って聞かせなければならないし、そういう人は、私の言うことなど聞く容量がない、だから、総合的に能力が低いと評価する。ここことは、ずっと、今も、行動の根幹にある。助けたいと思う人を助ける、援助する、自己満足のために。しかし、助けても自己満足できないような人に、援助や評価は与えない、極端に言えば、見放す、よく言えば、私に頼らない自立を進める。自分が従業員を選ぶなら、向いていると思う人を採用するが、その後も、向いていなかったと、判断すれば、別の仕事を探したほうが良いと、辞めてもらう。
15年ほど前です。マガジンケースという名前の、原料が透明のHIPSの製品です。この原料では、私が日本人で最初だ。その後、ICケースもこの原料に変えた。それ以前は、H-PVCだった。
50年以上前に、多分、日本で初めて作って、売り出したと思う。LDPEでが先だが、ナイロン6とナイロン66では、確実に、私が最初だ。スパイラルチューブ。
インドネシアでの話です。こんな設備で工場を立ち上げるのに、いくらかかるでしょうか。
そして、私がサラリーマンを辞めて、自分で会社を興したということは、居た会社を見放したということだ。見捨てたが、自分で、独立したかったのではなく、また、サラリーマンをしたのでは、同じようなことになるかも知れないと思い、自分で経営するしか道はないと思った。失敗すれば、また、勤めればいいやと思った。案外、気楽だった。
その後、社長を辞めるまで、仕事は順調、儲かった。客先や従業員の期待に応えるために、夢中で仕事をした。税金も、私にしてみれば、驚くほどの金額を収めた。
表現は難しく、適切ではないと思うが、それらで、私は、手助け、援助をしているにもかかわらず、それらから、感謝の気持ちは、伝わってこなかった。受け取って、当然だよ、まだ、足りないよ、といわれているように感じた。だから、自己満足はなかった。そして、仕事の中に道楽もなかった。経営が苦痛になった。会社を大きくしたくなかったから、大きくならない、大きくしなくても、ほどほど、やって行ける、エンプラの押出を選んだのだから。10年過ぎたころ、後10年、50歳で、辞めて、初心に帰って、海外、それも東南アジアで、技術指導をすることに決めた。その約束、宣言もした。約束通り、50で社長を止め、代表権のない顧問を二年やり、一応引継ぎを終えたとして、53で、インドネシアに、赴任した。
http://otaenplaext.net/newpage349.html
インドネシアの工業地帯に関して書いたブログを纏めて、ウェブサイトにアップした。これから進出を考えている会社,人、参考にしてください。個々の工業地帯のプロファイルはネットで検索をしてください。
援助 指導 実績
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