3716 現場へ入ると、メンテナンスが、押出機のパネルに、穴を開けて温調器の追加をしていた。その場所に結束バンドが束になって置いてあった。今やどこでも見られる、テレビ画面でも毎日のように見る、どんな場面でしょうか。オレンジ色をした、背中にトゥルサンカtersangka (容疑者)と大きく書かれらオレンジいるの服を消せられている人たちの後ろ手に、しっかり、両腕を結束されている。手錠として使われている。日本では、まさか、そんな使われ方はしていないと思うが、インドネシアでは、隠されることなく、ばっちりテレビ画面に出ている。
そんな使われ方をするとは50年前には想像しなかった。私が当時の北川ゴム工業(今、北川工業)の北川弘二社長からエッジングとグロメットの成型依頼を受けたころ、射出成型の会社に、結束バンドと自在ブッシュという二種類の製品試作を頼んでいた。まったくの同時期である。自在ブッシュはグロメットなどと同じ6ナイロン製だったが、結束バンド、商品名、インシュロックは、66ナイロンだった。黄色が自然色だった。ザイテル(ヂュポン)やアミラン(東レ)が採用されていた。この成型が難しく、当時、私が見せてもらった金型は20本どり、背骨の両側にあばら骨のように10本ずつ付いていた。試作段階で、製品を見たが、あばら骨の間が,バリで繋がってしまっていて、大きな煎餅のようだった。金型製作技術の問題は大きかった。
今や100円ショップで大安売りだが、当時は、一本10円以上した。大卒初任給が、4~5万円のころだ。開発初期の商品は、大変儲かった。当時、品川商工という北川工業と同じ様は電材屋さんがあって、北川工業が売り出すとすぐその会社からも売り出された、潤工社という会社もあった。それらからからと、それらを退社して、自分で商売を始めた人たちからも頼まれた。
ほとんど同時に、スパイラルチューブ、タテワレチューブ、のノ字チューブ、三次元曲げ加工、フェレアー加工、ラッパ加工、蛇腹加工(ストローの一部分など)、そして、コイリングチューブ、とにかく、次々と、依頼が入って、物にしていった。
押出製品としては、そのすぐ後に、私は手を出さなかったが、硬質塩ビ製のグレーの今でも計器盤の中に見られる“配線ダクト”という製品、断面コの字で、プレスで窓が一杯ついていて、開いている一面に蓋をかぶせるようになっている。インドネシアの道端でも電材屋さん店頭で見ることができる。そんな商品が大量に作られ始めた。
私が25歳前後のころでした。エッジング、グロメットを日本で初めて作った時だ。そこで、自在ブッシュやグロメットや結束バンドなどの写真を検索してみた。あるはアルは、色も形状も多彩だった。そりゃ、50年も過ぎているのだから。そして、面白いことに、検索しただけで、私のブログ投稿画面に様々な通販のこれらの写真がたちどころに示された。私が買うわけではないのにね。通販会社に、これは,私が日本で初めて作ったんだよと言いたいくらいだ。インドネシアでも初めて22年前に作ったことは言うまでもない。
http://otaenplaext.net/newpage305.html
それらとは別に、私が手伝った北川工業は日東工業に、南部化成は日清紡に吸収されたね。時代は状態を変えますね。
Saiful Anam君 Semangat!!頑張ってSemoga suksesこの中にサイフール君がいる。私の会社に来ているDiki君もいる。ナンブの押出社員をパンガンダランに連れて行った時だ。
夕方の北の空、1時間後、どっと、雨が降ってきた。
結束バンド 自在ブッシュ インドネシア産
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