南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆その人が

2015-10-28 22:51:23 | 思い出

 2476 その人は、活動的な人だとは分かっていたが、ママさんバレーや水泳や卓球の大会に、良く出かけているそうで、その人の地区の、ママさん仲間ではリーダー的な存在だということが、話からわかる。なるほど、な、その人ならと思う。息子が、また、目だった存在らしく、陸上中長距離では、県で上位だという。その息子、それから二三年後に、高校の私の後輩になった。三千障害でインターハイにでた。ところが、二年の時に、中退して、アメリカのソルトレークシティへ行ってしまった。その人、息子を誇りに思っているが、かなり、拍子抜けで、寂しそうだった。その息子、日本に帰って来た時に二か月余り滞在し、資金稼ぎのために、私の会社でアルバイトをさせてやった。親からの援助は受けたくないというのだ。破格の時間給で、彼を使ってやった。母の中途半端な幼馴染だし、高校の大先輩の私の生き方について、興味があったようで、彼から、根掘り葉掘り質問を受けた覚えがある。その息子、アメリカ人と結婚して、アトランタに住みついてしまった。今はどうしているのか。

 

その人とは、何回かの同級会、そして、同級会をする幹事になる人がいなくて、同級会を開けないクラスの人から、同学年会をやってほしいという話があり、それではと、二人で、それを引き受けた。私達が、という理由は、1組と2組から、幹事役をしましょう、でした。11クラス、600人、名簿をかき集めて、静岡の中心地の会場を予約し、開催した。クラス平均、25人で約300人の出席、恩師は11人全員、見えられた。皆さんに、大変喜んでもらった。その後、もう一回、5年後に、本当は3,4組担当なのに、確か、結局、私たちも協力した。その後は、どうなったか聞いていない。同級会も5年毎ということで、インドネシアに来てしまってから、一度戻った時に開いた。その人と最後に会ったのは、その時で、2003年だったと思う。流れでカラオケに行った。その時に、インドネシアでよく歌っていた、広瀬香美“Dear-again”を歌った。

 

日本から離れる前、何年間か、その人とは、良く、スキーに出かけた。私はスキー仲間が何人かいて、毎年その人たちと数回、会社の連中とも二三回、出かけていた。その中に必ずその人が含まれるようになった。“私をスキーに連れて行って“の頃でした。八方、志賀には頻繁に行っていた。お気に入りはジャイアントだった。草津、湯沢、赤倉、斑尾などにも出かけていた。インドネシアに出発する年の春まで続いた。

 

その期間中、その人にアクシデントがあった。確か、乗鞍だったと思う。その人、スキー中に突然、胸が苦しい、と、座り込んでしまった。中間にある休憩所で休んだ。なかなか、苦しいのが直らなかった。大丈夫だから、あなた達は滑ってきて、というので、一時間ほど、その場を離れて滑って、戻った時には、もう、治ったという。しかし、気になるので、滑って車までもどって、その日は帰った。そういうことが、その次の時にもあった。病院へ行って検査をしてこいよ、と勧め、やっと本人その気なって、検査した。不整脈で、このままでは、スキーに行けなくなるどころか、危ない、直ぐに、ペースメーカーを入れた。直ぐに決心して良かったと思う。一級の身体障害者だそうだ。その後も、スキーは続けた。もう、気持ちが悪くなって坐り込むことは無くなったし、お陰で、その人が一緒だと、高速代が半額になった。変な制度だと思った。こんな元気で、どこも悪く見えない、心臓発作で亡くなる確率は、ゼロに近い。普通の人より強い心臓がより強固になったのだから。どこが、一級身体障害者だよ、と、思った。

 

それはそれとして、中途半端な幼馴染というか、気心が知れた友人の一人として、子離れの手伝いに一役かっていた感じだった。良い間柄だと思っていた。

 

Jalan tikus ジャラン ティクス、ネズミの道、近道、抜け道の事です。国道からチビトゥンのゲートに向かう大通りが大渋滞している時でも、ここは、空いている。大型は進入できない。コカコーラの西側にある。

 

軟質塩ビチューブ用の引取機とカッター、来週から稼働する。

不整脈 子離れ 活動的


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