1949 1996年夏にインドネシアへ始めて仕事をしに来た。18年前です。それから、2年足らず、98年5月に大暴動を目の当たりに経験した。その一週間前ほどから、不穏な空気が膨らんでいった。トリサクティ大学(タマンアングレックの高速を挟んだ向かい側)の学生のデモへ水平射撃で数人の犠牲者がでたことを最大として、スハルト政権打倒のデモはインドネシア中に広がっていた。また、暴動2日前にガソリンの30%位の値上げが実施された。デモの弾圧に警察では手に負えず、軍も参加していた。その時の国防大臣がウイラント、軍の最高司令官がプラボーだった。二人とも、現在、ミニ政党の党首をしていているが、この暴動の黒幕だったという疑いは晴れていないが、当時、追及もされなかった。そして、帰らは、いまや大統領に立候補している。ミニ政党ではなくなっているから、違和感を感じるが、プラボーなどは、グリンドゥラ党を引いて、独立当時の副大統領の孫のハッタを副大統領に従えようとしている。
13日 昼前、会社にいて、ジャカルタ北部で暴動が始まったというニュースが入ってきた。キャンティーンのテレビを点けっぱなしにした。タンゲラン方面とブカシ方面東西に暴動が連鎖していった。MM2100へは来なかったが、国道沿い、ブカシティムール、タンブン、チビトゥン(MM2100の高速を挟んで北側)を通りコタ チカランに15:00ごろには達した。だんだんMM2100に近づいてきて、通過する模様が伝えられた。私が当時住んでいたルマーアバンの手前で終息した。
暴動、略奪、焼き討ち、暴行など、完全に理性がなくなった集団がやりたい放題のことをしてしまった。暴動が襲った付近の高速道路のゲートもすべて焼かれた。後で知ったが、中華系の人がターゲットにされ、残忍な暴行も各地であった。
ジャカルタに住んでいる多くの日本人は、夕方、会社から出て、あちこちが通行止めになっていたため、翌朝にやっと家に着いたという人が多かった。
日本人に対し、国外脱出勧告がだされ、翌日にはチャーター機も到着していたが、脱出希望の人数が多すぎて、さばききれない、ホテル日航集合、バスでスカルノハッタ空港に向かい、日本やシンガポールなどへ脱出する計画だが、処理しきれず、各場所で最長2日待機した人もいたという。実際には、その後、何も起きなかったのだから、私のように、休暇と思って、ゆっくりしていればよかったのですが。それぞれの会社の本社や日本政府にとっては何もしないわけにいかないから、脱出勧告を出したのですが、それにしても、危機管理というか、対策というか、手段というか、全てに、場当たり的で、計画性がなく、ただただ、慌てふためいて、うろうろしていたとしか思えなかった。私は、それに振り回されなくて正解だった。
迅速だったのはアメリカとオーストラリアだった。翌日の朝にはハリム空港(スホイ、デモ機が飛び立った空港、東南ジャカルタ)に本国からチャーター機が到着していて、その日のうちに脱出をしていった。場所も空軍の空港だから安全だ。
大暴動 記憶 残虐
多くの日本人の慌てふためきをよそに、帰宅も自分で運転して、MM2100から高速に乗りジャカルタと反対方向のチカランから、ジャバベカ1と2の間を通って、ルマーアバンのグラハチカランまで何の問題もなし、暴動はどこの話という雰囲気だった。しかし、高速道路はフリーパスだった。
次の日は、流石に、家にいた、そして、スハルトの退陣劇をテレビで見ていた。と、同時に、焼き討ち後の惨憺たる状態も見ていた。外へ出て行って、ゴレンガン(揚げ物)を買って、セキュリティーに渡し、近所の様子もチェックした。外国人に何か危害を加える気配があるかを確かめたかった。まったく問題なしだった。
軍のタンクが各交差点、重要建物の前で警護をしている様子も映し出されていた。家にじっとしていられなくて、2日後、チッポチカランまで行ってみた。当時はEJIPとMallに分かれる四つ角がロータリーになっていて、Mall側に戦車が侵入を止めていて、モールへは行けなくなっていた。そのまま、家に帰っても意味がないので、思い切ってジャカルタへ行くことにした。チカランバラットから高速に乗ったが、チケットを渡す人がいない、そのまま入った。高速道路は貸し切り状態、前後に一台も車が見えない。対向車線にはジャカルタまで数台とすれ違ったかどうか。ポンドック グデティムール当時は4500Rp払うが通過、チャワンで5500Rp払うがこれも人がいないので通過一旦、クニンガンで降りた。高速道路の下に戦車が二台警備していた。信号は働いていなかった。そのまま、ガトゥットゥスブロトを通ってスマンギの交差点まで行った。ジャラン スデイルマンに降りて北へ向かったが。ここでも戦車数台があった。ジャラン タムリン
へ入ったところの噴水の周りには多分、ざっと見て10台位に戦車、装甲車とともにNHKなど外国のTV局に中継車が数台あった。そこまでは、何も暴動の後はなかった。ジャラン タムリンからジャラン ガジャマダに入ったころから、道の両側のビルの窓ガラスが割られ、道にはタイヤなどを焼いたような跡が見えはじめた、グロドックの陸橋が見えてきたときには、すでに両側のビル全部のガラスが割れて、黒こげになっていた。陸橋は真っ黒に焼けていた。その左側に曲がる道沿いに様々な商店があるが、これらも全部破壊されて真っ黒だった。ただし、グロドックの中は無傷のようで、入口を装甲車が塞いでいた。もう、悲惨を超えていて、良くここまで、やってしまうものかと、集団が狂気になった時の恐ろしさを目の当たりに見た気がした。
ホテル バタビアやスタシューム コタ周辺は健在。結局、中華系の商店、ビル、人が対象だったのです。
焼き討ち 略奪 暴行
コタを過ぎて、高速のガードを潜り、パサールイカンやスンダ クラパ方面へ北上した。そこから、西に向かい、以前、押出しの連中とアイススケートやボーリングを楽しんだメガモール プルウィットを目指した。これがまた、途中のルコは、店の商品はなくなった状態で、ことごとく黒こげ。人っ子ひとりいない。こんなところまでやられているのかと思った。しかし、最終目的のメガモールは無傷だった。ここにも装甲車がガードしていた。モール全体はしまっていたが、右端のマタハリだけは開いていた。食料品を求めた中華系の人々で混雑していた。私も、食料品をかなり大量に買った。自分の為ではなく、当時から資金援助をしていた学生(UNAS)や従業員へ後で配るためでした。
帰りは、もと来た道をたどるように南へ向かった。スマンギを通りブロックMを横に過ぎ、ジャラン ファットマワティをなお南進して、ポンドック インダーまで行った。途中は荒らされている気配はなかった。ただし、そこかしこの施設や建物、店の前に、ここはスハルトとは関係なし、という、垂れ幕が張り付けてあった。ターゲットが中華系とスハルト系だったことの証拠である。アスファルトが溶けている場所は数え切れないほどだった。
ポンドック インダーには私が当時技術指導をしていた若者と家族が住んでいた、彼らは、翌日、帰国することになっていたので、撮ったばかりの写真のネガを託した。本社に現状を伝えるように頼んだ。そして、何事もなかったように、グラハチカランへ戻った。大暴動後のジャカルタ ツアーでした。言葉には、すでに自信がったし、軍がそこかしこでガードしていたし、何の不安も躊躇もなかった。デジカメの時代になっていなかったので、パソコンに写真が保存されていないのが残念です。
会社は一週間休みになり、何もすることがない、旅に出るというわけにもいかず、当時、ドライビング レンジは私が知る限りではリッポ チカランのホンピンパの側とハリム空港の手前とハリム ゴルフ第二にしかなかった。まったくゴルフをやったことがなかったが、暇なので、ハリムの打ちっぱなしで初めてレンタルのクラブを振った。その時がなかったら、ゴルフをいつから始めることになったか、わからない。ずっと後になっていたでしょう。
ハムラ党 ウイラント グリンドゥラ党 プラボー
後日、仕事で、さまざまな方面へ出かけて行ったが、そのたびに、暴動の跡を目撃することになった。
ブカシバラットはメトロポリタンモールの建物は無傷だったが、その向かいの今はサイバーパーク問い建物になっているが、当時はスーパーヘローだった。その他にもその並びや裏に沢山のルコがあった、全部、焼き討ち略奪にあっていた。今のジャイアンやブカシスクエアーの建物はなかった。
コタ チカランはラマヤナとその周辺がやられていた。
タンゲラン方面の国道沿いは惨憺たる状態で、高速から出たあたりのルコも全部焼かれていた。その次のインター、リッポカラワチのショッピングモールも略奪、放火に見舞われていた。
タマンアングレックのアパート、当時はその他のビルはなかった。その向かい側が、トリサクシ大学(日本でいえば早稲田大学に似ている)がある。国会議事堂、惨事の10日前ごろから、学生デモで完全に機能を失っていた。4人の学生の追悼集会が昨日、学内で行われていた。
バブルの初期に入ったインドネシア、あのような暴動は起きないでしょう。ジョコ ウイドド(ジョコウイ)さんが大統領になるでしょうが、燃料補助を無くすと云っているので、どうでしょうか、ジョコウイなら、仕方がないと思うような空気になればいいと思う。諸物価高騰、賃金高騰に繋がるので、日系企業は大変ですが、適応しなければならないと思う。20日の夕方、大統領候補者の受付期限です。ジョコウイさんはバクリかカラを副大統領候補にするでしょう。私はユスフ カラを選ぶと思う。
平和な今、昨日も我慢できずにドリアンを買ってしまった。車の中の匂いが継続している。ソッ ブントゥットゥの出汁のもとです。ブンブと云います。
悲惨 ショック 恐怖