怒濤の一週間が火曜日で終わり、ちょっと一息ついてます。
怒濤が起こるのは、それ以前の凪が長いせいでもあり、平均すればそれほど働いているわけでもないと自嘲気味に
振り返るのですが、それでもやっぱりがんばりました・・・。
一週間で5種類の仕事、それぞれが二日とか三日とか連続だったので、ほぼ帰れば眠るだけ。
危惧してはいましたがやっぱり歯を食いしばって・・・でしたね。倒れず、頭が働いたのはほぼ奇跡。
終われば間髪入れず、リハビリ1時間、婦人科検診、眼科で視野検査。
あれから三日、いまだ楽しいご褒美は自らに与えていません。
そんななか、忙しいなかでも寝る前に少しずつ読み進めていたパトリシア・スミスの『キャロル』をようやく最後のクライマックス、一気にベッドで読み終えたのは幸せでした。 映画よりも、キャロルとテレーズの逃避行のようなロードムービーの場面に多くが割かれていて、スリルとサスペンス満載。若干21歳のテレーズのキャロルへの恋心は、今の私でも手に取るようによくわかる!
恋心は普遍ということか、私が成長してないってことか。言えるのは、不利な離婚寸前で、まだ小さな娘のことで気もそぞろのキャロルの側には、母になったことも妻になったこともないわたしにはどうしたって立てない。だから、いまだに二十歳そこそこそこの一途な生娘に共感してしまうのでした・・・。
『パトリシア・スミスに恋して』のドキュメンタリーで知ったのですが、パトリシア・スミス自身が恋愛体質だったようで、もちろんテレーズは彼女の分身。ゆえにテレーズの心理描写が繊細で秀逸で、結局、わたしはパトリシア・スミスに共感しているのでした。
映画はカタルシスの場とは、最近通訳を担当した『最悪の子どもたち/Les Pires 』の共同監督ロマーヌ・ゲレ監督の言葉ですが、
小説もカタルシスの場だな、と実感します。でも、どんな小説でもいいわけではない。
現実から逃避できればできるほど、カタルシスは大きい。やはり今の私は、パトリシアの心理スリラー小説に埋没するのが正解だな、と思うわけです。桜木紫乃の『家族じまい』は認知症の母親の話など、明日は我が身の生々しさが苦しい。
せめて21歳の乙女に気持ちだけでも戻りたいわけです。
覚悟すべきときがくれば現実から逃げるつもりもないし、今は執行猶予時期かなとも思う。
元気でいてくれる母には感謝しかない。
というわけで今は、うっとりテレーズとキャロルの逃避行を疑似体験し、脳内でアメリカを東から西へ車で旅をするのでした。しかも、女性同士の愛の”不品行”の証拠を握るべく、盗聴し尾行する探偵という敵の存在もまたそれはそれで二人の恋の試練でもあり媚薬でもあるのです。
しばし非現実的な読書に浸ります・・・。