Box of Days

~日々の雑念をつらつらと綴るもの也~ by MIYAI

Road to Big Pink

2006年11月08日 | diary
 ハッピー&アーティの合間を縫って、友人2人とかなり久しぶりの旅行へ行って来た。山形県鶴岡市。最近、ザ・バンドにはまっているひとりが、「都会にいてはいつまでたってもザ・バンドのような音は出せない」と強く思うに至り、「山形にビッグ・ピンクをさがしに行くぞ!」と移住覚悟で…というかなんというか、ま、僕が勝手にそう解釈して、えっと、くっついてったと。そんなとこ。

 鶴岡市は「荘内」と呼ばれる地域で、とにかく自然の恵みに溢れたところだった。荘内米、荘内柿、荘内菊、荘内蕎麦、麦きり(うどん)、芋煮、玉こんにゃく、赤かぶ、なめこ、ハタハタ、日本海の新鮮な幸、えとせとらえとせとら…。友人の実家に泊めてもらったんだけど、そこでご馳走になった地元料理の数々はどれも本当に美味しくて、しかもやたら体に良さそうで、僕はひたすら感心しまくっていた。もちろん温泉だってあるし、いやいや、いいところだったな。なんでも、ここは、かの名作映画『たそがれ清兵衛』の舞台なんだそうで、それもまたよかったりした。天気にも恵まれ、僕らは羽黒山(出羽三山のひとつ)の階段(2426段)を登り、お参りをした。その道中にあった五重塔はとても立派だった。

 けど、どこへ行ってもやることは同じというか、やっぱり地元の中古レコード屋へ。で、3人とも袋を抱えて店から出てきたわけでね。ブルース・コバーンの『High Winds White Sky』を買えたのが嬉しかった。夜は友人のご両親もまじえつつ、ザ・バンド、ドクター・ジョン、ロバート・ジョンソンなどのCDを小さく流しながら談笑したり、 ピアノを囲んで“Tears of Rage”や“Long Black Veil”や“Sea of Love”や“Bring It on Home to Me”を歌ったり。で、朝起きてラジオをつければ、偶然にもネヴィル・ブラザーズやアラン・トゥーサンなどのニューオーリンズ・クラシックスが流れてきたりしてね。ちゃんと音楽的にも充実してた。

 昨日はThe Whoの24年振りとなる新作『Endless Wire』を購入。帰りが遅かったこともあってまだ聴けてないけど、今日こそはじっくりと、24年の歳月を埋める気持ちで、向かい合うつもり。The Whoの新作を発売日に買う日が僕にも訪れるなんてね。まるで夢のようだ。

ハッピー&アーティがやって来た!

2006年11月07日 | diary
 ハッピー&アーティ・トラウムのライヴに行ってきた。横浜と下北沢で2回。で、今も余韻に浸ってたりする。

 そろそろ30歳になろうとしていた頃、僕は音楽ファンとして、いささか袋小路にはいりこんでいた。音楽は変わらず楽しいものだったけれど、なにを聴いても新鮮味に欠け、かつてのように心の中に深くはいってこない感覚があった。そんなもどかしい状態から抜け出すきっかけとなったのが、ハッピー&アーティ・トラウムの『Happy & Artie Traum』と、2人が中心となったマッド・エイカーズの『Music Among Friends』だった(あと、ジーン・パーソンズの 『Kindling』)。

 これらのレコードを初めて聴いたときのことは、今でも鮮明に思い出すことができる。まるで扉が大きく開かれたような気分だった。スピーカーから聴こえてきたのは、僕がそれまで聴いたことのなかった、穏やかで温かみのある、毎日の生活に根づいた音楽だった。ドラマティックな要素などひとつもなく、ただ、当たり前のように音楽がそこにある。うまく言えないのだけど、このとき僕は、「これで一生音楽を聴いて生きていけるぞ」と思えた。それほどに彼らの歌は、気安く、自然で、けっして飽きることのない必然性をもっていた。そして、このときの体験が、結果的に、その後の僕の音楽指向を決定付けることとなった。

 ハッピー&アーティの音楽を説明するとき、ハッピー自身がマッドエイカーズのライナーで書いている言葉を引用するのが一番ふさわしい気がする。「自分達のため、そしてそれを聴きたいと思う人達のため、例えばパーティなどで集まったとき、ただ楽しむだけのために演奏し歌うといった、そんな歌やインストゥルメンタルを収めたレコードを作りたいと思った」というもの。それは、コマーシャルな制約から開放された、本当の意味での自由で豊かな、本物の音楽のことを意味していたのだと思う。

 ハッピー&アーティのライヴが観れるなんて、想像すらしなかった。彼らはウッドストックで今も暮らし、豊かな自然に囲まれた環境で日常生活を送りながら、仲間と一緒に音楽をやっている。それだけで十分な気がしていた。

 でも、彼らはやってきた。昔と少しも変わらない笑顔と一緒に。2人がステージに出て来たとき、僕は胸がいっぱいになってしまった。だって、演奏する前から、あのハートウォームな音楽が聴こえてくるようだったから。そして、ライヴは僕の期待をはるかに上回る素晴らしいものだった。ハッピーとアーティは、それこそ、服を着たり、食事をしたり、話をしたりするのと同じことのように、ギターを弾き、歌を歌う。そこには大袈裟な気持ちなんてどこにも見当たらない。すべてがあまりに自然で、穏やかで、温かかった。

 『Happy & Artie Traum』のレコードを僕が差し出すと、2人はそれにサインをしてくれた。「このアルバムが僕の音楽人生を変えたんですよ」と伝えたかったけど、なんとなく照れくさくて言えなかった。でも、きっと伝わったんじゃないかな。そんな気がしている。

松子とロンセク

2006年11月01日 | diary
 予定通り、『嫌われ松子の一生(下巻)』を読み終えた。悲しいんだけど愛おしいというか、松子の一生は、やりきれないんだけど、まぶしかった。

 ちょっとしたきっかけで、人生が思わぬ方向へズレていくのは、僕のささやかな経験からもわかる。松子やこの小説に出てくる人達ほどではないにせよ、僕もそういう人達を何人か見てきたし、中には親しい人もいた。身近な人が希望をなくして、自らの人生を壊していくのをそばで見ているのはつらかった。それは、自分だっていつそうなるかわからないという不安の裏返しでもあったと思う。ちょっとでも気を抜いて、楽な方向に体を向けたら、すぐにでも転がり出すかもしれない。そんな闇のようなものの存在に気づいたときは、少し怖くなった。この本を読みながら、僕はそんなことを思い出したりした。

 ころころと転がっていった松子の一生。でも、その生き方には、どこか人をほっとさせる温かさがある。ひょっとすると、松子は身を落とすことで、純粋でありつづけることができたのかもしれない。そんな言い方は冷たいのかもしれないし、うまい言葉じゃない気もするけど、そういう人生もまたあるんだと、僕は思う。

 映画を観に行こうとして行けなくて、本を読もうと思いつつ読みそびれてたら、ドラマまではじまってしまい、「おっと、いけない」と手にとった本だけど、読んでよかったと思った。

 下巻の後半を読んでるときに、友達から「飲んでる?」というメールがはいったので、「読んでる」と返した。なにを読んでいるのかと訊かれ、嫌われ松子だと教えると、「ヘヴィーなの読んでるんだねー」と言われた(メールで)。確かにヘヴィーかもしれないけど、なんとなくそんな風に言いたくなくて「そうでもないよ」と答えた。ロン・セクスミスをかけながら読んでると伝えると、「松子と似合いそうだね」と彼女は言った。そうかもしれないと僕は答えた。