今年の6月ぐらいからパウロ書簡を原語で読み始め、
(パウロ書簡:テサロニケⅠ、ガラテヤ、コリントⅠ・Ⅱ、ローマ、ピリピ、ピレモン)
今やっと最後のコリント書Ⅱを読んでいる。
初めに読んだパウロの遺作ともいうべきローマ書の内容が、
他の書簡を読むたびに豊かに内容を与えられ、
日々脱皮していくのを感じている。
私は今まで、ローマ書の絶頂は3章であって、
イエス・キリストの十字架上の贖罪こそ、
パウロの福音の中心点であると思っていた。
しかしそれは完全な間違いであって、
西方キリスト教が犯してきた誤解であることがわかった。
イエス・キリストは、その十字架の死によって、
我らの犯してきた(過去)罪の罰を免除された(παρεσiν)。
刑罰を免除されたのであって、罪がチャラになったのではない。
すなわち、イエス・キリストの十字架は、救いの入り口(πρoσαγω)なのである。
ここを間違うから、西洋のキリスト教的価値観は無用な背伸びをするのである。
過去の罪を見逃された我々に与えられた約束は、死人の復活である。
イエス・キリストが再び来たり給うその時、この死すべき人格を包み込むように、
霊の体が与えられ、キリストに似たものとなる。
「キリストに信頼する自分」と「未だ肉にある自分」、
この絶対的な矛盾の中に生きるキリスト者にとって、
完全なる救いは未来のことである(ローマ書7章)。
かかる望みによって、キリストに信頼する肉の人間は救われているのである。
(ローマ書8-17~27)
故に、肉体の死でさえも、キリストに信頼する者にとって何でもない。
この肉にある自分と共にいてくださるキリストは、
死後も自分と共にいてくださるに違いない(ローマ書8-28~39)。
人はローマ書にある「キリストにある(εν Xρiστω)」を、
あまり観想的に考えないほうがいいだろう。
これは「もはや救われた(過去)」と「その時救われる(未来)」との間にある、
極度の緊張感を伴った心境であることを考慮に入れなければならない。
パウロの福音は、さらに燃え上がる。
「私」がキリストにあって救われるとすれば、
同胞ユダヤ人はどうなるのか、と。
人はここで、パウロが旧約のエゼキエル書を念頭に置いていることに注目すべきである。
「見よ、非常に多くの骨があり、みな枯れ果てていた」(エゼキエル37-2)
キリストの恩恵を知っているパウロにとって、
イスラエルの現状は枯れ果てた骨である(ローマ書9-1~5)。
果たして神に不従順なイスラエルは救われるのか?
「主なる神よ、あなたがご存知です」(エゼキエル37-3)
人を救うのは、神である。あなた御自身が人を救い給う。
神は御自身の主権によって、人を救う(ローマ書9-6~29)。
人はここで、「神は人類を救う」とも「神は選んだ者だけを救う」とも、
断言することは許されていない。
全人類救済説に賛成することも反対することも、人間に許されていることではない。
どちらにせよ、かかる神学的見解を主張することによって、
神の予定を自分の予定に変えているからだ。
「神が」人を救い給う。人ではない。
全人類の現状は、パウロも含めて神の怒りの対象でしかない。
しかし神は、怒りの対象を愛し、救い難き人間を克服して人を救い給う。
これが全旧約聖書に記された事実である(エゼキエル37-4、ローマ9-30~10-21)。
故にパウロは、大いなる希望をもって言うことができた。
「不従順は従順になる!」と(ローマ11章)。
エゼキエルが死骨に神の霊が入り、生き返り、立ち上がったのを見たように、
パウロは今不従順である人類の状況を、希望をもって見ることができたのである。
人間の過去の罪を免除し(1章~4章)、将来必ず救い給う神の約束(5章~8章)、
しかも救い難きこの人類を救い給う神の約束(9章~11章)、
かかる福音の絶頂は8章でも11章でもない。
実に15章にあると私は思う。
パウロが語りたいのは、神の全能である(1-16)。
その全能は、人間を単に観想的に満足させて終わるだけのものではない。
人の生を現実的に動かす(12章以下)。
イエス・キリストに贖われる人間の生は、他人を贖う生に駆り立てる。
人はローマ書を、パウロの立場にたって読んだほうがよい。
パウロにとって聖書とは、旧約聖書である(未だ新約聖書はない)。
我々がパウロのローマ書を救いのテキストとして読むように、
パウロは旧約の預言書を救いのテキストとして読んでいる。
パウロは旧約の預言者の希望を所々に見つつ、
(3章にある第二イザヤの希望、8章にあるエレミヤの希望、
11章にあるエゼキエルの希望、15章にあるイザヤの希望、16章にあるモーゼの希望)
ヨブ記に沿って思考しているのである。
そのヨブ記の最後の呼応するように、パウロは言う。
イザヤの見た「神の国(イザヤ11-10)」とは、キリストに救われたあなた方が、
弱い者のために身を捧げることである。
「自分はキリストに救われ、神の奥義を知っているが、
周囲の愚かな人間達(この世)は、何とも可哀想な奴らだ」というような、
精神的高慢に反対しているのである。
我らが最終的に救われるのは未来のことであるが、
預言者イザヤの言った神の国とは、現在のことである。
それはキリストにある者が、キリストのように他人を受け入れる場である。
これが、パウロのメッセージなのである。
故に、ローマ書最後にあるパウロの伝道計画も、
人はビジネスマンの事業計画のように考えるべきではない。
パウロにとって異邦伝道とは、強制(アナグケー)である。
神の恵みに強いられて、パウロは伝道せざるを得ないのである。
それは喜びと強制と必然が混じったものであって、
いわば旧約の預言者が神に召された心境なのであろう。
自分を絶対的に救い給う神、人類を絶対的に救い給う神、
自分の今ある生を強制的に駆り立てる神、
その神の前にあってパウロが言うべき最後の言葉は、
「イエス・キリストの恵み」(ローマ16-24)である。
しかしそれは、自然的人間が連想するような安直な「愛」でないから、
再び最初に戻って自分を、
「キリスト・イエスの奴隷」(ローマ1-1)と言わざるを得ないのである。
(パウロ書簡:テサロニケⅠ、ガラテヤ、コリントⅠ・Ⅱ、ローマ、ピリピ、ピレモン)
今やっと最後のコリント書Ⅱを読んでいる。
初めに読んだパウロの遺作ともいうべきローマ書の内容が、
他の書簡を読むたびに豊かに内容を与えられ、
日々脱皮していくのを感じている。
私は今まで、ローマ書の絶頂は3章であって、
イエス・キリストの十字架上の贖罪こそ、
パウロの福音の中心点であると思っていた。
しかしそれは完全な間違いであって、
西方キリスト教が犯してきた誤解であることがわかった。
イエス・キリストは、その十字架の死によって、
我らの犯してきた(過去)罪の罰を免除された(παρεσiν)。
刑罰を免除されたのであって、罪がチャラになったのではない。
すなわち、イエス・キリストの十字架は、救いの入り口(πρoσαγω)なのである。
ここを間違うから、西洋のキリスト教的価値観は無用な背伸びをするのである。
過去の罪を見逃された我々に与えられた約束は、死人の復活である。
イエス・キリストが再び来たり給うその時、この死すべき人格を包み込むように、
霊の体が与えられ、キリストに似たものとなる。
「キリストに信頼する自分」と「未だ肉にある自分」、
この絶対的な矛盾の中に生きるキリスト者にとって、
完全なる救いは未来のことである(ローマ書7章)。
かかる望みによって、キリストに信頼する肉の人間は救われているのである。
(ローマ書8-17~27)
故に、肉体の死でさえも、キリストに信頼する者にとって何でもない。
この肉にある自分と共にいてくださるキリストは、
死後も自分と共にいてくださるに違いない(ローマ書8-28~39)。
人はローマ書にある「キリストにある(εν Xρiστω)」を、
あまり観想的に考えないほうがいいだろう。
これは「もはや救われた(過去)」と「その時救われる(未来)」との間にある、
極度の緊張感を伴った心境であることを考慮に入れなければならない。
パウロの福音は、さらに燃え上がる。
「私」がキリストにあって救われるとすれば、
同胞ユダヤ人はどうなるのか、と。
人はここで、パウロが旧約のエゼキエル書を念頭に置いていることに注目すべきである。
「見よ、非常に多くの骨があり、みな枯れ果てていた」(エゼキエル37-2)
キリストの恩恵を知っているパウロにとって、
イスラエルの現状は枯れ果てた骨である(ローマ書9-1~5)。
果たして神に不従順なイスラエルは救われるのか?
「主なる神よ、あなたがご存知です」(エゼキエル37-3)
人を救うのは、神である。あなた御自身が人を救い給う。
神は御自身の主権によって、人を救う(ローマ書9-6~29)。
人はここで、「神は人類を救う」とも「神は選んだ者だけを救う」とも、
断言することは許されていない。
全人類救済説に賛成することも反対することも、人間に許されていることではない。
どちらにせよ、かかる神学的見解を主張することによって、
神の予定を自分の予定に変えているからだ。
「神が」人を救い給う。人ではない。
全人類の現状は、パウロも含めて神の怒りの対象でしかない。
しかし神は、怒りの対象を愛し、救い難き人間を克服して人を救い給う。
これが全旧約聖書に記された事実である(エゼキエル37-4、ローマ9-30~10-21)。
故にパウロは、大いなる希望をもって言うことができた。
「不従順は従順になる!」と(ローマ11章)。
エゼキエルが死骨に神の霊が入り、生き返り、立ち上がったのを見たように、
パウロは今不従順である人類の状況を、希望をもって見ることができたのである。
人間の過去の罪を免除し(1章~4章)、将来必ず救い給う神の約束(5章~8章)、
しかも救い難きこの人類を救い給う神の約束(9章~11章)、
かかる福音の絶頂は8章でも11章でもない。
実に15章にあると私は思う。
パウロが語りたいのは、神の全能である(1-16)。
その全能は、人間を単に観想的に満足させて終わるだけのものではない。
人の生を現実的に動かす(12章以下)。
イエス・キリストに贖われる人間の生は、他人を贖う生に駆り立てる。
人はローマ書を、パウロの立場にたって読んだほうがよい。
パウロにとって聖書とは、旧約聖書である(未だ新約聖書はない)。
我々がパウロのローマ書を救いのテキストとして読むように、
パウロは旧約の預言書を救いのテキストとして読んでいる。
パウロは旧約の預言者の希望を所々に見つつ、
(3章にある第二イザヤの希望、8章にあるエレミヤの希望、
11章にあるエゼキエルの希望、15章にあるイザヤの希望、16章にあるモーゼの希望)
ヨブ記に沿って思考しているのである。
そのヨブ記の最後の呼応するように、パウロは言う。
イザヤの見た「神の国(イザヤ11-10)」とは、キリストに救われたあなた方が、
弱い者のために身を捧げることである。
「自分はキリストに救われ、神の奥義を知っているが、
周囲の愚かな人間達(この世)は、何とも可哀想な奴らだ」というような、
精神的高慢に反対しているのである。
我らが最終的に救われるのは未来のことであるが、
預言者イザヤの言った神の国とは、現在のことである。
それはキリストにある者が、キリストのように他人を受け入れる場である。
これが、パウロのメッセージなのである。
故に、ローマ書最後にあるパウロの伝道計画も、
人はビジネスマンの事業計画のように考えるべきではない。
パウロにとって異邦伝道とは、強制(アナグケー)である。
神の恵みに強いられて、パウロは伝道せざるを得ないのである。
それは喜びと強制と必然が混じったものであって、
いわば旧約の預言者が神に召された心境なのであろう。
自分を絶対的に救い給う神、人類を絶対的に救い給う神、
自分の今ある生を強制的に駆り立てる神、
その神の前にあってパウロが言うべき最後の言葉は、
「イエス・キリストの恵み」(ローマ16-24)である。
しかしそれは、自然的人間が連想するような安直な「愛」でないから、
再び最初に戻って自分を、
「キリスト・イエスの奴隷」(ローマ1-1)と言わざるを得ないのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます