キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

1人 vs 国民全体-列王記Ⅰ17・18-

2008-11-17 02:00:48 | 聖書読解
エリヤは更に民に向かって言った。
「わたしはただ一人、主の預言者として残った。
バアルの預言者は四百五十人もいる」
(列王記Ⅰ18-22)



真の神を捨て、偶像崇拝に耽り、罪悪に染まる国・イスラエル。

このままイスラエルは、堕落の坂道を転げ落ちてしまうのか?

この時、一人の預言者が現われる。


ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」
(列王記Ⅰ17-1)


国王アハブに反抗の声をあげたのは、エリヤという人物である。

このエリヤとは誰かというと、出身地(ギレアドの住民)しかわからない。

聖書では普通、預言者の名を記すのに、その父祖の名をあげるものだが、
(アモスの子イザヤ、ブジの子エゼキエルなど)

父祖の名さえ記していない。

父祖の名を記す必要もないほどに、卑賤の出である可能性がある。

また、エゼキエルのように祭司だったのか、それとも、

アモスのようの農夫だったのか、職業さえわからない。

どこの馬の骨かわからない人間が一人立ち、国王アハブと全国民に抗して、

正義の声をあげたということである。

神の人に履歴書は不要である、彼がどんな職業でどんな実績があり、

学歴はどうで父祖がどうであるかなどというものは、

この世の人間が人物を暫定的にはかる物差に過ぎぬ。

正義の源は神にある、故に神に指名され、神の言葉を授けられた者は、

この世の職業・年齢・年収・学歴・性格によらず、

一人立って語らねばならない。


一人が必ずしも良いわけではない、大人数が必ずしも悪いわけではない。

しかし、神を忘れ、偶像を慕う社会にあっては、

人間の集合一致(組織?友情?)によって、神なき良心の孤独を埋めんとするものだ。

故に、かかる偶像崇拝に満ちた社会にあって、大樹につくことは、

偶像に加担することを意味する場合がある。

しかし、正義は多数決ではない、正義はただ神にある。

この時に、神は一人の人間を選び給い、

彼をもってこの世の偶像崇拝を攻撃し給う。


エリヤの生涯で我々が学ばねばならぬものは、

彼が本当の意味で身に何も帯びず、一人立ったということである。

社会が改革されるには、何も大人数の合同一致や世論の喚起は必要ない。

一人で充分である。

一人のエリヤさえいれば、この日本国の改革は実を結ぶ。

逆に言えば、日本にエリヤの如き一人の義人もいないから、

いつまでたっても改革はならない。

改革の責任を外部に求め、自分以外の人物に英雄を期待するところに、

現代日本人の精神的異常さがある。

日本はダメだ、周りはダメだ。

そう嘆くよりも、私も含めて、自分が一人のエリヤたらんと欲するべきである。



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