エリヤは更に民に向かって言った。
「わたしはただ一人、主の預言者として残った。
バアルの預言者は四百五十人もいる」
(列王記Ⅰ18-22)
真の神を捨て、偶像崇拝に耽り、罪悪に染まる国・イスラエル。
このままイスラエルは、堕落の坂道を転げ落ちてしまうのか?
この時、一人の預言者が現われる。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」
(列王記Ⅰ17-1)
国王アハブに反抗の声をあげたのは、エリヤという人物である。
このエリヤとは誰かというと、出身地(ギレアドの住民)しかわからない。
聖書では普通、預言者の名を記すのに、その父祖の名をあげるものだが、
(アモスの子イザヤ、ブジの子エゼキエルなど)
父祖の名さえ記していない。
父祖の名を記す必要もないほどに、卑賤の出である可能性がある。
また、エゼキエルのように祭司だったのか、それとも、
アモスのようの農夫だったのか、職業さえわからない。
どこの馬の骨かわからない人間が一人立ち、国王アハブと全国民に抗して、
正義の声をあげたということである。
神の人に履歴書は不要である、彼がどんな職業でどんな実績があり、
学歴はどうで父祖がどうであるかなどというものは、
この世の人間が人物を暫定的にはかる物差に過ぎぬ。
正義の源は神にある、故に神に指名され、神の言葉を授けられた者は、
この世の職業・年齢・年収・学歴・性格によらず、
一人立って語らねばならない。
一人が必ずしも良いわけではない、大人数が必ずしも悪いわけではない。
しかし、神を忘れ、偶像を慕う社会にあっては、
人間の集合一致(組織?友情?)によって、神なき良心の孤独を埋めんとするものだ。
故に、かかる偶像崇拝に満ちた社会にあって、大樹につくことは、
偶像に加担することを意味する場合がある。
しかし、正義は多数決ではない、正義はただ神にある。
この時に、神は一人の人間を選び給い、
彼をもってこの世の偶像崇拝を攻撃し給う。
エリヤの生涯で我々が学ばねばならぬものは、
彼が本当の意味で身に何も帯びず、一人立ったということである。
社会が改革されるには、何も大人数の合同一致や世論の喚起は必要ない。
一人で充分である。
一人のエリヤさえいれば、この日本国の改革は実を結ぶ。
逆に言えば、日本にエリヤの如き一人の義人もいないから、
いつまでたっても改革はならない。
改革の責任を外部に求め、自分以外の人物に英雄を期待するところに、
現代日本人の精神的異常さがある。
日本はダメだ、周りはダメだ。
そう嘆くよりも、私も含めて、自分が一人のエリヤたらんと欲するべきである。
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「わたしはただ一人、主の預言者として残った。
バアルの預言者は四百五十人もいる」
(列王記Ⅰ18-22)
真の神を捨て、偶像崇拝に耽り、罪悪に染まる国・イスラエル。
このままイスラエルは、堕落の坂道を転げ落ちてしまうのか?
この時、一人の預言者が現われる。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。
わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」
(列王記Ⅰ17-1)
国王アハブに反抗の声をあげたのは、エリヤという人物である。
このエリヤとは誰かというと、出身地(ギレアドの住民)しかわからない。
聖書では普通、預言者の名を記すのに、その父祖の名をあげるものだが、
(アモスの子イザヤ、ブジの子エゼキエルなど)
父祖の名さえ記していない。
父祖の名を記す必要もないほどに、卑賤の出である可能性がある。
また、エゼキエルのように祭司だったのか、それとも、
アモスのようの農夫だったのか、職業さえわからない。
どこの馬の骨かわからない人間が一人立ち、国王アハブと全国民に抗して、
正義の声をあげたということである。
神の人に履歴書は不要である、彼がどんな職業でどんな実績があり、
学歴はどうで父祖がどうであるかなどというものは、
この世の人間が人物を暫定的にはかる物差に過ぎぬ。
正義の源は神にある、故に神に指名され、神の言葉を授けられた者は、
この世の職業・年齢・年収・学歴・性格によらず、
一人立って語らねばならない。
一人が必ずしも良いわけではない、大人数が必ずしも悪いわけではない。
しかし、神を忘れ、偶像を慕う社会にあっては、
人間の集合一致(組織?友情?)によって、神なき良心の孤独を埋めんとするものだ。
故に、かかる偶像崇拝に満ちた社会にあって、大樹につくことは、
偶像に加担することを意味する場合がある。
しかし、正義は多数決ではない、正義はただ神にある。
この時に、神は一人の人間を選び給い、
彼をもってこの世の偶像崇拝を攻撃し給う。
エリヤの生涯で我々が学ばねばならぬものは、
彼が本当の意味で身に何も帯びず、一人立ったということである。
社会が改革されるには、何も大人数の合同一致や世論の喚起は必要ない。
一人で充分である。
一人のエリヤさえいれば、この日本国の改革は実を結ぶ。
逆に言えば、日本にエリヤの如き一人の義人もいないから、
いつまでたっても改革はならない。
改革の責任を外部に求め、自分以外の人物に英雄を期待するところに、
現代日本人の精神的異常さがある。
日本はダメだ、周りはダメだ。
そう嘆くよりも、私も含めて、自分が一人のエリヤたらんと欲するべきである。
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