キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

信仰と知性-列王記Ⅰ1~5-

2008-11-12 01:54:39 | 聖書読解
主はギブオンでソロモンの夢の枕に立ち、
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。
ソロモンは答えた。「……どうか、あなたの民を正しく裁き、
善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」
(列王記Ⅰ3-5、9)



信仰と知性は両立しないという人がいる。

盲目的に信じる者に、健全な知性など宿る筈がない、と。

しかしそれは「宗教(reliegion)」を信じた者に言うべき言葉であって、

「神(God)」を信じる者に言うべき言葉ではない。

真の神を信ずるのか、それとも、何らかの神に関する人間的思想(宗教)を信ずるのか、

これ似ているようで、全く正反対の人生観である。

宗教は知性を曇らし、信仰は知性を研ぎ澄ます。

なぜなら、真の神は人をして、事物の原理原則を知らしめるのに、

宗教という人間的思想の結晶は、何らかの人間的欲望の代弁であるが故に、

事物の原理原則にフィルターをかけて、知性を混乱させるからである。

宗教と知性は両立しない、しかし信仰と知性は両立する、

いや、むしろ信仰なき知性は土台なき家屋に等しい。


巷の中途半端な知識人はいざしらず、古来より偉大な知性の人は、

みな信仰の人だった。

ノーベル賞を求める名誉心ではなく、神の御業を賛美したい信仰心により、

ニュートンの微積分学と古典物理学はできた。

思考を弄ぶ閑人の娯楽ではなく、神への信頼を取り戻すために、

カントの三大理性批判はでき、哲学の歴史を変えた。

有名作家になって印税を得たい利欲心ではなく、神の正義を明らかにするために、

ダンテ・ミルトンらの文学はでき、今なお人々の心を揺さぶっている。

彼らはみな、神を信じて、その神の御業を明らかにし、

より一層神を賛美するために、科学に哲学に歴史に文学に、

あらゆる学問領域に突入する。

実に「神を畏れることが智恵の始め」である。


歴史によって神の計画を学び、科学によって天然に対する神の御心を知り、

心理学・文学によって神の造り給うた人間の本質を探る。

いや、それだけではない。

道端の草花に神の嘉し給う美を知り、

人生の諸々の出会いと別れ、痛み・悲しみ・喜びを通して、

神の私に対する御心を探る。

神に信頼する者にとって、人生これ学校である。

この学校を卒業する時(死ぬ時)、私の頭脳に蓄積された知識は消失するだろう。

しかし今まで学んできた知識の奥の、「神は愛である!」という核の部分が、

死後のより高貴な生活に役立つのである。

これほど楽しく学びがいのある学校はない。



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