キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

聖なるもの-列王記Ⅱ1~10-

2008-11-27 02:15:01 | 聖書読解
エリシャはそこからベテルに上った。
彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、
「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。
エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、
森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。
(列王記Ⅱ2-23・24)



子供を子供のためにのみ愛し(愛していると信じ込み)、

現代のヒューマニズム的思想に洗脳された者にとっては、

随分とひどい記事に思えるかもしれない。

しかしこれ、聖書の言葉が悪いのではなくして、

読む側が人間中心主義という色眼鏡で見ているからである。

この記事の言わんとするところは、「何が一番聖であるか?」ということだ。


子供は決して、我らが一番に守るべき最も大切なものではない。

その証拠に、子供を子供のためにのみ愛して、

現代の教育的崩壊が起きているのである。

ある親は子供の将来のためと称して、いつまで経っても強制的な教育を施し、

遂には意思決定できない子供を育てている。

親が教育熱心であればあるほど、意志の薄弱さを助長するのであるから、

笑うに笑えない話である。

また、ある親は子供を伸び伸びと育てると称して、子供に何一つ干渉せず、

遂には自己中心的で我儘な子供を育てている。

自分(親)が受けた教育に対する反発と、黙っていれば育つという無責任な発想が、

親の内心を支配しているのである。

黙っていれば育つなら、子供を産むなよ。

そうやって躾の「し」の字もない子供を育てておいて、

学校や政治や自分以外の社会的構成員にその責任を委ねる愚かさよ。

人は子供を一番に愛すると称して、

自分の欲求や不満足を子供に押し付けているに過ぎない。


子供は大人が守るべき大切な存在である。

しかし、一番大切な存在ではない。

最も大切な存在、最も重要視しなければならぬ存在は、

神である。(この場合の神を正義と言い換えてもよい)

エリシャは自分が馬鹿にされたから、子供を呪ったのではない。

自分を通して神(正義)を馬鹿にしたから、子供であっても呪ったのである。

呪うことは倣うべきことではないが、

エリシャが子供よりも正義を愛したところに、我々は注目しなければならない。


子供が喜んでも正義は正義である、子供が悲しんだり怒っても正義は正義である。

子供が不幸になろうが幸福になろうが、子供が豊かになろうが貧しくなろうが、

将来が確かなものにあろうが不安定になろうが、

ましてや、受験に受かろうが落ちようが、正義は正義である。

そしてかかる厳格なる正義の観念が、

子供をして欲望を抑制せしめ、結果如何によらず努力することを学ばせ、

目前の順境・逆境に動揺しない不動心を身につけさせる。

そして、結果的に子供を幸福にしていくのである。

「聖なるもの」を失った社会の顛末は、

倒錯した愛情を持つ大人と弛緩した倫理観なき子供の大量生産である。



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