主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記Ⅰ19-11・12)
エリヤの今までの人生は、疾風怒濤の生涯だった。
父祖の名も知られていない卑賤の者が、神に選ばれて一人立ち、
旱魃を預言して王に敵対し、王に追われ、異邦に逃れ、
カルメル山にて四百五十人のバアルの預言者と戦い、
天から火を降し、信仰復興の実をあげた。
戦闘、戦闘、戦闘の生涯。
メンデルスゾーンの楽曲の如く、彼の生涯は激しく波乱に満ちたものだった。
しかし神は、激情の中にはおられない。
もちろん神は全知全能の神であれば、必要があれば、
山を裂き、地を揺さぶり、火を巻き起こすことができる。
だが神の本質は、十字架に上るまでに人を愛した贖いの愛にある。
エリヤは正しい人だった。
神に忠実で、義に峻烈で、神の御用を務めるのに最も適した人物だった。
しかしエリヤは、神を完全無欠に知ったわけではない。
さすがのエリヤとて、その生涯の失敗と苦悩によって、
(列王記Ⅰ19-3~7)
神観の進歩を経験しなければならない。
神は永遠に変わらない実在者である。
しかし人間は不完全であるが故に、神観は常に進歩発展していかねばならない。
そして面白いことに、聖書の伝える神は一つであっても、
それを受納する人間の神観は常に進歩している。
士師の時代の神は、奇跡によって人間を救う全能の神だった。
ソロモンの時代に至っては、人に真理を知らしめる全知の神だった。
アモス以後の預言者の登場によって、神観は急速に倫理的発展を遂げ、
最後にイエス・キリストの十字架によって絶頂に至る。
イエス・キリストをどれだけ深く知ることができたか、
イエス以後の神観の進歩は、一重にイエスとの距離にかかっている。
激しい感情の変化の中に、主はおられない。
主は、悔い改めた貧しい心の中に、
静かにささやく声(the soft whisper of a voice)として、我らに語りかけられる。
人は、罪を犯し、主の御前でそれを悔い、主の静かな声を聞いて、
主をより一層知ることができる。
いわば主とは、黙示録の白馬の章にあるように、
誰も解くことのできない神の言(ホ ロゴス)である。
いわば主とは、解いてみて初めて理解できる方程式中の未知数Xであって、
解は一つであっても、我らは漸近的に主を知ることしかできない。
聖書を学び、多くの苦悩と失敗と慰めによって心が謙り、
自分の外(神)から発せられた霊妙なる声を、自分の内より聞くことによって、
徐々に徐々に神観を真の神に近づけることができる。
そして、この完き解答が与えられるのは、
まさしく、その解(キリスト)を目の前に見た時である。
エリヤが偉大であるのは、あの激しき疾風怒濤の生涯の中で、
静かにささやく声を聞けたことにある。
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しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記Ⅰ19-11・12)
エリヤの今までの人生は、疾風怒濤の生涯だった。
父祖の名も知られていない卑賤の者が、神に選ばれて一人立ち、
旱魃を預言して王に敵対し、王に追われ、異邦に逃れ、
カルメル山にて四百五十人のバアルの預言者と戦い、
天から火を降し、信仰復興の実をあげた。
戦闘、戦闘、戦闘の生涯。
メンデルスゾーンの楽曲の如く、彼の生涯は激しく波乱に満ちたものだった。
しかし神は、激情の中にはおられない。
もちろん神は全知全能の神であれば、必要があれば、
山を裂き、地を揺さぶり、火を巻き起こすことができる。
だが神の本質は、十字架に上るまでに人を愛した贖いの愛にある。
エリヤは正しい人だった。
神に忠実で、義に峻烈で、神の御用を務めるのに最も適した人物だった。
しかしエリヤは、神を完全無欠に知ったわけではない。
さすがのエリヤとて、その生涯の失敗と苦悩によって、
(列王記Ⅰ19-3~7)
神観の進歩を経験しなければならない。
神は永遠に変わらない実在者である。
しかし人間は不完全であるが故に、神観は常に進歩発展していかねばならない。
そして面白いことに、聖書の伝える神は一つであっても、
それを受納する人間の神観は常に進歩している。
士師の時代の神は、奇跡によって人間を救う全能の神だった。
ソロモンの時代に至っては、人に真理を知らしめる全知の神だった。
アモス以後の預言者の登場によって、神観は急速に倫理的発展を遂げ、
最後にイエス・キリストの十字架によって絶頂に至る。
イエス・キリストをどれだけ深く知ることができたか、
イエス以後の神観の進歩は、一重にイエスとの距離にかかっている。
激しい感情の変化の中に、主はおられない。
主は、悔い改めた貧しい心の中に、
静かにささやく声(the soft whisper of a voice)として、我らに語りかけられる。
人は、罪を犯し、主の御前でそれを悔い、主の静かな声を聞いて、
主をより一層知ることができる。
いわば主とは、黙示録の白馬の章にあるように、
誰も解くことのできない神の言(ホ ロゴス)である。
いわば主とは、解いてみて初めて理解できる方程式中の未知数Xであって、
解は一つであっても、我らは漸近的に主を知ることしかできない。
聖書を学び、多くの苦悩と失敗と慰めによって心が謙り、
自分の外(神)から発せられた霊妙なる声を、自分の内より聞くことによって、
徐々に徐々に神観を真の神に近づけることができる。
そして、この完き解答が与えられるのは、
まさしく、その解(キリスト)を目の前に見た時である。
エリヤが偉大であるのは、あの激しき疾風怒濤の生涯の中で、
静かにささやく声を聞けたことにある。
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