キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

無宗教の宗教-列王記Ⅰ6~10-

2008-11-13 01:45:18 | 聖書読解
あなたの民イスラエルに属さない異国人が、
御名を慕い、遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、
あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、
その異国人があなたに叫んで求めることをすべて叶えて下さい。
こうして、地上のすべての民は御名を知り、
あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、
わたしの建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。
(列王記Ⅰ8-41~43)



宗教には二種類ある。

神を信じる宗教と、神に関する人間の思想を信じる宗教と。

前者は神に直接的に頼り、後者は神に関する教義に頼る。

前者の知性は益々鋭敏になり、後者の知性は益々愚鈍になる。

前者は良き宗教であり、出会うことができれば幸いである。

後者は悪しき宗教であり、出会ってしまえば呪われる。

そして悲しいことに、この世には圧倒的に後者の宗教が多い。

日本人は宗教といえば、何でも同じものだと考えがちだが、

この二種類の宗教の態度は、天と地ほども違う。


聖書に一貫して流れているのは、

神に直接的に頼らんとする前者のそれである。

旧約の預言者もイエスも新約の使徒もみな、

形骸化した宗教というものには大反対で、

直に神に頼らんとした。

今でこそキリスト教の偉人と称して宗教家扱いするが、

彼らは今でいうところの無宗教の人間だった。

旧約の預言者エレミヤは、真の神を信じて、

時の腐った宗教家及び宗教権力に徹底的に抗した。

イエス御自身は当時の宗教家によって十字架につけられた。

使徒パウロは、神御自身に頼って、

形骸化したユダヤ教を破壊した。


聖書人物がそうであるから、聖書に感化された者もそうである。

ルターはキリストを信じて、当時のキリスト教(ローマ・カトリック)を破壊した。

内村鑑三はキリストを受け入れて、当時のキリスト教(プロテスタント)を破壊した。

何も破壊したくて、破壊したのではない。

当時の宗教がその外見は立派でも、あまりにも生命力に欠けていたから、

その溌剌とした生命力を束縛せんとする当時の宗教的システムに対して、

やむを得ず「否」を表明したに過ぎない。

キリストが言われたように、新しい葡萄酒が古い皮袋を破ったのである。


聖書は万人の書である。

しかし強いて言えば、宗教信者(キリスト教徒)の書ではなくして、

無宗教の者こそ読むべき書である。

神に関する人間の思想に対して懐疑の念を持ち、

できるならば宗教など持ちたくないと思う者こそ、

読むべき書である。

キリストは、誰が救われるべきか安易に判断してはならないと言った。

キリストに頼る者は救われるが、

キリストに関する人間の「思想」を信ずる宗教信徒は、救われるとは書いてない。

故に、キリスト教信者でも救われないことがある。

無宗教の者でも、直にキリストに頼って救われることがある。


日本人の霊魂の救いは、キリスト教とキリストが別物であることを知ったときに、

始めて実現していくのだと思う。



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