キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

赦しの愛-サムエル記Ⅱ11~20-

2008-11-10 01:38:47 | 聖書読解
ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯した」
ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる」
(サムエル記Ⅱ12-13)



イスラエルの王となり、周囲の敵を平定し、

今や並ぶべき者のいなくなったダビデ。

しかし成功の絶頂は、人をして良心の感覚を麻痺させ、

不遇の時代の純心を忘れさせ、遂には有徳な人物をして倫理的に躓かせる。

これ、人類史で何度も何度も繰り返されてきた、

人間の悲しき性(さが)である。

理想的な王と称されるダビデも、決して例外ではなかった。


部下の妻を犯し、それを隠蔽するために偽りを言い、

罪悪が明るみに出ぬために部下を殺したダビデ。

しかし神は預言者ナタンを遣わし、ダビデが犯した罪を糾弾せしめ、

罪悪に染まるダビデをして、罪を告白せしめた。

「私は主に罪を犯した」と。

この時のダビデが、どれほど良心を鑿で穿たれ、真剣に悔い改めたのかは、

詩篇の言葉を読めば理解できる。

身体を切り刻まれる以上の痛みを、ダビデはその心に負ったのだ。


ダビデは主に罪を犯した、しかしその同じ主が、

ダビデの罪を取り除き、罪を赦すことができる。

もちろん、ダビデの後半生は、自身の犯した罪の故に、

裏切りと悲しみに満ちたものだった。

愛息アブサロムの反乱と死などは、その最たるものである。(サムエル記Ⅱ19-1)

しかし、主に罪を赦されたダビデは、誰よりも多く罪を犯したが故に、

誰よりも多く人を赦すことができた。(サムエル記Ⅱ19-24)

そういう意味で、ダビデの後半生は、実に祝福に満ちたものだった。


政治学者ハンナ・アレントは、近代社会を健全に維持するためには、

人民の「赦しの愛」がなければならぬと言ったが、

人を赦すためには、自身が主に赦されねばならぬ。

人は、神に罪を赦された分だけ、それだけ、人を赦すことができる。

神に赦され、その愛を受納し、受納した愛が溢れ出て、

自然と人を赦すことができる。

コイネーグリークで愛(アガペー)が受身の女性名詞である所以である。



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