日本語において「教会」と訳されているエクレーシア(εκκλησια)とは、
一体、いかなる意味があるのだろうか?
エクレーシアとは、神のプレーローマ(πληρωμα)だと書かれている。
(エペソ書1-23)
ならば、プレーローマとは何か?
プラトン曰く、「住民とは国家を満たすプレーローマ」だと。
(プラトン「国家」)
アリストテレス曰く、「船員とは船を満たすプレーローマ」だと。
(アリストテレス「形而上学」)
すなわちプレーローマとは、ある容器をある内容物が満たすことを意味する。
ならば、プレーローマの容器とは何か?
ローマ書にあるエクレーシア論(12章~15章)がアダム論に挟まれていることを考えれば、
(5章のアダム論と16章のアダム論)
プレーローマの容器とは、人類が楽園追放された
「神の国(η βασιλεια του θεου)」であることを意味する。
さらにパウロの言う神の国とは、現在あるものであり(εστιν:ローマ14-17)、
目には見えないがこの世に存在している神の支配であることを意味する。
その容器が「神の国」であるならば、その内容物とは何か?
ローマ書にあるエクレーシア論(12章~15章)が、誰を対象として述べられたものなのかに依る。
エクレーシア論の前後において対象とされているのは、「全ての人」である。
全ての人はキリストにおいて裁かれ(1-18)、全ての人はキリストにおいて義とされ(3-23)、
全ての人は将来新しき体を与えられ(8-22)、全ての人の主はイエス・キリストである(10-12)。
全ての人を憐れむために神は全ての人を閉じ込めたと言い(11-32)、
全ての人はイエスに造られ、イエスに生かされ、イエスに救われると言う(11-36)。
以上のパウロの論述より判断すれば、プレーローマの内容物とは、全人類である。
すなわち、エクレーシアとは、神の国に入れられた全人類、その罪の故に楽園を追われたが、
イエス・キリストによって楽園を回復する全人類を意味している。
ただその違いは、キリスト者はかかる恩恵を自覚し、非キリスト者はそれを知らぬだけ。
キリスト者は非キリスト者にかかる恩恵を知らせる存在として(16-1~16-16)、
非キリスト者は将来のキリスト者として前提されているだけである。
結論
エクレーシア(εκκλησια)の意味とは、
第一に、神の恵みの対象である「全人類」である。
第二に、神の恵みを自覚した「キリスト者」である。
第三に、キリスト者の集まりである「教会」である。
神の目標はエクレーシア(εκκλησια)だという時、
人は神の恵みの対象が「全人類」であることを十分に自覚せねば、
パウロの弟子の書簡(エペソ・コロサイ・テサロニケⅡ・ペテロⅠ)や、
ヨハネ文書(ヨハネ福音書・ヨハネⅠ)を正当に理解することはできないのだと思う。
一体、いかなる意味があるのだろうか?
エクレーシアとは、神のプレーローマ(πληρωμα)だと書かれている。
(エペソ書1-23)
ならば、プレーローマとは何か?
プラトン曰く、「住民とは国家を満たすプレーローマ」だと。
(プラトン「国家」)
アリストテレス曰く、「船員とは船を満たすプレーローマ」だと。
(アリストテレス「形而上学」)
すなわちプレーローマとは、ある容器をある内容物が満たすことを意味する。
ならば、プレーローマの容器とは何か?
ローマ書にあるエクレーシア論(12章~15章)がアダム論に挟まれていることを考えれば、
(5章のアダム論と16章のアダム論)
プレーローマの容器とは、人類が楽園追放された
「神の国(η βασιλεια του θεου)」であることを意味する。
さらにパウロの言う神の国とは、現在あるものであり(εστιν:ローマ14-17)、
目には見えないがこの世に存在している神の支配であることを意味する。
その容器が「神の国」であるならば、その内容物とは何か?
ローマ書にあるエクレーシア論(12章~15章)が、誰を対象として述べられたものなのかに依る。
エクレーシア論の前後において対象とされているのは、「全ての人」である。
全ての人はキリストにおいて裁かれ(1-18)、全ての人はキリストにおいて義とされ(3-23)、
全ての人は将来新しき体を与えられ(8-22)、全ての人の主はイエス・キリストである(10-12)。
全ての人を憐れむために神は全ての人を閉じ込めたと言い(11-32)、
全ての人はイエスに造られ、イエスに生かされ、イエスに救われると言う(11-36)。
以上のパウロの論述より判断すれば、プレーローマの内容物とは、全人類である。
すなわち、エクレーシアとは、神の国に入れられた全人類、その罪の故に楽園を追われたが、
イエス・キリストによって楽園を回復する全人類を意味している。
ただその違いは、キリスト者はかかる恩恵を自覚し、非キリスト者はそれを知らぬだけ。
キリスト者は非キリスト者にかかる恩恵を知らせる存在として(16-1~16-16)、
非キリスト者は将来のキリスト者として前提されているだけである。
結論
エクレーシア(εκκλησια)の意味とは、
第一に、神の恵みの対象である「全人類」である。
第二に、神の恵みを自覚した「キリスト者」である。
第三に、キリスト者の集まりである「教会」である。
神の目標はエクレーシア(εκκλησια)だという時、
人は神の恵みの対象が「全人類」であることを十分に自覚せねば、
パウロの弟子の書簡(エペソ・コロサイ・テサロニケⅡ・ペテロⅠ)や、
ヨハネ文書(ヨハネ福音書・ヨハネⅠ)を正当に理解することはできないのだと思う。
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