視察から帰京後、急いで着替えて区商連の総会に駆けつけました。
石巻市の被災状況を事例に被災した商店街の施設に対する十分の十の補助率の支援制度のお話と、都内中小企業事業者への新たな金融支援策「災害緊急」というメニューについての提言をさせていただきました。
出来るだけ、有効且つスムーズに利用できる枠組みになるよう意見を活発にあげていきます。
視察から帰京後、急いで着替えて区商連の総会に駆けつけました。
石巻市の被災状況を事例に被災した商店街の施設に対する十分の十の補助率の支援制度のお話と、都内中小企業事業者への新たな金融支援策「災害緊急」というメニューについての提言をさせていただきました。
出来るだけ、有効且つスムーズに利用できる枠組みになるよう意見を活発にあげていきます。
現地に赴いて感じたことは、月並みながら津波の破壊力と復興に取りかかる迄の道のりの遠さでした。瓦礫は地上にも海底にも残されていますが、行方不明者の存在や被災者の想い出が埋もれている可能性があります。瓦礫の処理をしている警察の方が一つずつ手作業で、後片付けをしている姿を見かけました。
また、犠牲になった方の中で居住地やたまたま居た場所についての話を聞くと、これまでの津波の届く範囲の想像を超えた威力で内陸部の方も却って被災されたとのことでした。
仙台空港では折れ曲がった小型飛行機が転がっていたり、南三陸町では生死を分けた志津川中学校を下から臨んだり、海側を見たり、避難所ではなくなった志津川小学校に仮設住宅を見に行った後に山を下りながらここまでは波が来たのかと確認出来たり、遠くに見える小島が水没しかけたと聞いて驚いたり、いろいろありました。
この場所(防災庁舎付近)からは、被災した病院がよく見えました。二枚写真を掲載しますが、手前に車がある写真と角度を変えて撮った写真には二階に船が漂着しています。ちなみに、病院の向こう側が海なので数度に渡って襲ってきた津波が船を運んできたことがうかがわれます。
この、防災庁舎は命がけで津波の警報を発し、命を落とした市役所の女性職員が被災した場所です。
この視察を単なる見聞に終わらせずより良い復興(再生)支援策や、新たなる災害への対策づくりにいかさなくてはならないと思いました。
自宅のある地元の北新宿四丁目の高齢者クラブである北四柏寿会の寄り合いがありました。お正月、雛祭り、端午の節句、お盆の慰霊祭、敬老会と年に五回お招きをいただきます。
今年度からは、長年お世話役をいただいていた喜久雄おじいちゃんが、部長を退任されて慰労の為のセレモニーが行われました。
耳と片方の目が不自由でしたが、几帳面な方でこの方がいないと会場の準備やいろいろなことが進まない状態でした。幸い、後任者もマメな方で今日もスムーズに進行しました。
先頃区議会に当選した池田だいすけさんも参加し、賑やかな会になりました。
統一地方選挙終了後初めての執行部会を開催しました。同志の中で再選を果たした人もいれば、苦杯を舐めた人もいました。
東日本大震災が選挙戦全体に及ぼした影響 も小さくはなかったと思いますが、公選法によって限られた選挙活動の手段の中で、派手なことを自粛しながらの選挙戦で新人にとっては難しい戦いであったことは間違いありません。
手伝いをする立場の私も、選挙をやっている場合でもないよなという気持ちを抑えつつ、仲間のために出来ることをさせていただきました。
議題に上がったことは、新人議員と青年党員への研修をいかにして行うかというということがメインになりました。
自民党という政党の政治姿勢や矜持をもった青年党員を育成する場としての役割を果たしていく為に残り一年間の任期を全力で務めたいと思います。
肢体不自由児の方は文字通り身体に不自由があります。併発している障害を抱える人もいらっしゃいますし、保護者が高齢化している家庭もあります。
そうした方々の生活を支えるための施設やサービスを整えることが、行政や議員の議論で様々な行政需要の中での優先順位を付けながら進められていきます。
今回は弁天町にある国有地を区が購入し、入所施設を作る計画に対応して、肢体不自由児者の保護者アンケートを実施した結果を資料として配布されました。
新設されることには評価の声もありましたが、なかなか障害をお持ちので入所を希望する方が全員入れる水準には届きません。とはいえ、着実に受け入れ先は増えて来ています。
その他、区立の「あゆみの家」の指定管理者化についての意見がありました。
5月に入ると各団体の総会が始まります。今日は事務所の所在地の町会の総会と地元の親しい町会の役員会後の懇談会に招かれました。
多国籍問題については、地域としては関心が高いようでした。また、自治会の位置付けや、夏期の停電と地域行事の調整について意見交換をしました。
その後、先日解散した旧新宿区立戸山中学校同窓会の役員の反省会に出席しました。
解散したとはいえ、旧同窓会として戸山中学校が存在した記憶を所在地に遺していく目標が残されています。
急に日程に追加となった懇談会で大幅に遅刻したので、先輩たちの二次会に参加させていただき、現状での方法論やアプローチの仕方について侃々諤々の議論に翌日まで加わっていました。久々に日付が変わるまで飲みました。
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2012年9月9日以降の投稿記事は、私のフェイスブックの記事と、重複する場合が有りますのでご了承下さい。
2012.11.7 フェイスブックとツイッターボタンを表示しましたが、調整中です。
前日に、移動が間に合わないので自転車を預けて来てしまったので歩いて移動をしていました。自転車や自動車で動いていると、当たり前の風景と思っている場所も、そういえばあの時議論した地区計画や建設がこういう風になったのかと思わされるときがあります。
「新宿西戸山中学校」の新築にあたり、少しでも校庭を広く作ろうと議論する過程で地区計画の壁が立ち塞がりました。最終的に区の担当者の粘り強い交渉が功を奏して、外周に植え込み等を付けることを条件に学校の敷地を広く取ることが出来たのではと記憶しています。
都市計画審議会では環境学の見地から選ばれた学識委員から、緑を減らす計画に慎重論が出されて、生徒の運動場確保とどちらが大事かという議論や、現地の地形について説明を(わざわざ手を挙げて発言する程のことも無かったので)不規則発言でしたりといろいろありました。
完成した今は、緑が植わった通路や学校の風景を懐かしい感覚で眺めています。初めて見た風景なのに不思議な感覚です。
地方選挙が終わり、後継者の池田だいすけさんの選挙事務所の撤収作業を済ましました。 その後、暫くホッタラカシにしていた娘と散歩に出掛け(嫁は発熱でダウン)、近所のお蕎麦屋さんで昼食をとっていると実家の母親から慌てた様子で電話がかかってきました。
デモ隊が家の前で警察官と揉めているとのことで、そのうち怒声で母親の声が聞き取れなくなり、何で裏道の我が家に右翼の宣伝カーが来ているんだ?と意味が解りませんでしたが、取り急ぎ向かうことにしました。
娘と自転車を取りに自宅へ向かうと、住民相談の電話が入り、一旦娘だけ家に帰らせ外出の準備をするように言い付けておきました。
ようやく、実家に到着するとデモ隊は既に居ませんでしたが、幹線道路から抜け道に入り、繰り返し近辺を回っているようでした。
その後、火事特有の匂いがしてきたため、まさか放火かと思い、実家の周りを確認していると消防車のサイレンが聞こえてきたため、表通りに出ると煙が見えてきました。
近所の人と暫く様子を見た後、帰宅しました。夜は地元町会の青少年部の寄り合いで遅くまで町会会館に過ごしました。