初めて区議選に出馬した時からの後援会長が病のために急逝され、葬儀の打合せをしました。
ちょうど、後援会の世話人会を開催する日だったので、皆さんと黙祷を行いました。
3月10日と11日は多くの方が犠牲になった出来事が続いた二日間です。
東京大空襲と東日本大震災は、それぞれ戦災と災害と種類は異なりますが、記憶から消してはならない出来事だと考えています。
あれだけ大きく、甚大な被害が出ていますので、思うように復旧や復興が進まない中、何かを言えば「口だけではなく行動を」と言われるのは目に見えているのですが、自治体として応援出来ること、人として出来ることは継続していきたいと思います。
今朝は、家庭倫理の会の講演会、ライオンズクラブや地元町会による復興支援イベント、国際囲碁大会、慰霊祭と慌ただしい一日でした。
走り回れることの幸運を認識しながら、日常を取り戻せない方達へ、何を出来るか、改めて問い直したいと思います。
自分自身も多くの人に支えられながら生きています。今の状態は巡り合わせで、いつどうなるかは、何人たりとも予測することは出来ないと夜中に静かに考えながら床に就きました。
東京都商店会連合会・振興組合連合会の新春懇談会が開催されました。
東京都は商業都市として商店街の支援に力を入れています。地元に根をはった商店無くして、地域振興は成り立ちません。
「チェーン店や大規模店はお客がいなくなれば移転する動物だが、個人商店は地域に根をはった植物である」と、連合会長が仰っていらっしゃいましたが、言い得て妙だなと感じました。
地域の行事の際に協賛をしたり、ボランティアをするのは個人商店の皆さんです。
地域の商店街を支援する施策を増強していきます。
私の地元には自衛隊の駐屯地と防衛省があります。ヘリコプターの離発着など、基地特有の課題があり、地元との協議や交流をスムーズに行うために自衛隊友の会という団体が地域住民を主体にして作られています。
今日はその役員と顧問、相談役の合同会議が開催されました。年間予定を報告され、昨年度との違いを説明されました。
近隣諸国との摩擦もあることから、基地公開に対する負担も小さくなくなってきたとの防衛省側の説明はありませんでしたが、行事の省略はその辺に理由があると思われます。
ただ、地域住民に自衛隊活動への理解を求める役割を果たしてきた友の会の役員さんたちには、行事縮小の不満が向けられないように顧問として発言してきました。
新宿区内の神社の祭礼で一番早い時期に催されるのは東大久保の西向天神社です。今朝は、神酒所回りをしつつ、地域の行事や会議を回ってきました。
午後は北新宿地区で東京都が施工している再開発地域の公園を考える会にお邪魔し、多様なご意見をお聞きしました。
移動の途中、知り合いのたばこ屋さんに入って世間話をしたり、組合の総会に出席したり、都議会自民党の同期の都政報告会にお邪魔したりしながらあっという間の一日でした。
夕方はお通夜に参列し、地元に戻り、先月亡くなった町会長の後継人事を決める総会に出席し、役員会や部長会の選考結果を顧問として支持しました。
終了後、有志でささやかな就任祝いと前任者を偲ぶ会を開きました。早いもので来月には四十九日が来ます。
かつて西新宿に角筈都営アパートが建っていました。老朽化のために解体され、跡地には暫定利用ということで民間企業の協力を得て、環境型住宅展示場になっています。
今後、暫定利用の期間が終了した後にどの様に利用すべきかと地域の住民のみなさんが研究会を作り、一定の方向性を示したパンフレットを作成されました。
その説明会が角筈地域センターで開催され、説明と意見交換が行われました。地権者は東京都ですが、住民のアイデアを実行する開発主体がいない状態ですので、具体的に進めていくのは困難さが伴います。如何にしたら進んでいくのか思案のしどころです。
(雹の画像?~有り)
一年前の午後2時46分、私は都議会本会議で奇跡的な逆転劇で予算案が可決された余韻を感じながら、議事堂で備え付けのコーヒーメーカーから熱いコーヒーを注ぎ、報道陣から感想をコメントを求められている時でした。
揺れが始まり、徐々に周りが騒がしくなってきて、何を考えたのか入れたてのコーヒーを溢さないようにと、火傷しかけながら飲み干していました。飲み終わっても、止まらない揺れが歩いている人を飛ばし、書類棚からは分厚い資料が跳びだし、天井から下がる標識めいたものは、千切れんばかりに揺すられていた。
記録映像を見ているかのようなテレビ映像を見ながら、大変なことが起きたという気持ちと、目の前の出来事が大き過ぎて信じられないという感覚に囚われていました。
原発がどうなったのかということが気になっていたものの、テレビでもなかなか情報が入らず、大丈夫であることを願っていたことを覚えています。
あれから一年、現地支援で気が付いたことは提言したり、風評被害について嘆きを聞くと購入したり、仲間に広報したりと出来ることを続けてきましたが、いろいろ政策的にも、個人的にもやったつもりでも、復興にはほど遠いなというのが正直な思いです。
今日は、事務所が所在する原町三丁目町会のバス旅行で千葉県に行きました。神社の石燈籠がたくさん倒れていました。
午後2時46分に一旦バスを停車して全員で黙祷を捧げました。「残った者として、復興や減災社会を築いていきます」と、誓いを新た致しました。
今から67年前に米軍による無差別空襲攻撃が行われました。10日未明から東京を襲った爆撃隊は多くの民間人の命を奪いました。
今でこそ、無差別爆撃は戦闘状態でも国際的に批難される行為ですが、米軍内でも反対論があるなかで当時実行された大空襲でした。
今日は当日奇跡的に助かった門前仲町の方の体験談をお聞かせいただきました。
「10日の未明に空襲警報ではない警戒音が聞こえ、そのうち屋根の上を飛んでいく飛行機の爆音が聞こえたのでおかしいなと思っていたら、繰り返し聞こえてきたので外に出たら焼夷弾が落とされていて火災が発生し、騒ぎになっていた。自分の家は土建屋で頑丈な防空壕があったので近所の人たちも避難してきていた。そのうち、火勢が強まってきたので蒸し焼きになるということで、外に避難することにした。外に出ることを躊躇していた近所のおばちゃんと娘さんを自分も逃げるからと説得して外へ避難した。すでに町中が火に囲まれ、行き場を失い自宅の防空壕に戻った。木製の戸板の隙間からは火が漏れてきた。鍵穴からはバーナーの様に火が吹き出してきていた。徐々に酸欠状態になり、防空壕に運ばれていた布団に顔を埋めると思ったより酸素が含まれていて気持ちよくなった。気が付くと周りが静かになっていて、外を見ると焼け終わっていた。朝になると生きながらえた近所の人々が防空壕に戻ってきたが、説得して外へ避難したおばちゃんと娘さんは戻って来なかった。悪いことをしたと後悔し、空襲の話はしないで生きてきたが、地下鉄工事で防空壕が発掘され、蒸し焼きで亡くなった遺体が発見されたニュースを知り、まだ見つかっていない防空壕内の遺体があるのではと思い、体験談を伝えることにした。」
長い引用になりましたが、概要はこうした話でした。良かれと思ったこともその通りにはいかない場合もあると思いますが、長い生涯を、辛い思い出を背負って生きてきた先輩のお話を伺い、自分はこれから政治家として何をし、どんな結果を生み出すのか、熟慮と決断をして、その結果を背負っていかなくてはならないなと仕事の重大さを再認識させていただきました。