『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

江戸時代の桜の名木  いわき編

2007年03月23日 | 歴史
大須賀筠軒(おおすがいんけん 1841年~1912年)が
明治25年(1892)頃に書き記した『磐城誌料歳時民俗記』に、
次のような記述がある。
いわき地域の、江戸時代の桜(3本の枝垂れ桜)の名木についての記述だ。

百四十年許(ばかり)前ニ我郷ノ櫻花ヲ筆記セシモノニ、
諸士居處ノウチ、櫻甼(さくらまち)三株ノ線櫻アリ。
大廿四囲、高三丈ニ過ギズ。枝二重ニ垂レテ、行人ノ頭ヲ遮ル。
枝ノ覆フ處、南北六間餘、東西八間餘。
獨立端嚴、荘麗ニシテ神アルガ如シ。
花時、珠玉ヲ飾リテ、巧ニ作リナセルカト疑ハル。
斯ル櫻ハ諸國ニモ希ナルベシ。
神谷村(かべやむら)住善寺ノ庭中ニアル一株ノ垂櫻ハ、
高一丈四、五寸、枝四方ニ覆ヒ垂テ、地ニ曳ク。
覆フ所南北十四間餘、東西十間餘。
其東、一山寺(いっさんじ)ニモ垂櫻二株一所ニ並立シ、
枝ノ覆所南北十一間餘、東西八間餘。
花時、遊人、寺ヲ借リ、宴ヲ開キ、賞翫ス。
然モ端荘艶麗ナル、櫻甼ノ櫻ニ及バズトアリ。以上。
櫻甼、住善寺ノ櫻ハ、今朽ツル久シ。一山寺ノ櫻モ大ニ老タリ。
赤井蕐龍院ノ櫻ナドハ後勁ト称スベキカ。

漢字とカタカナで書かれた筠軒の文章は、やや難解だが、
現代的な表現に改めると、次のようになるかと思う。

今(明治25年 1892)から140年ぐらい前に、
いわき地域の桜について書き記されたものがある。
その中に平の桜町の3株の枝垂れ桜のことが書いてある。
枝が二重に垂れ、南北10メートル、東西15メートルほどに広がっている。
その見事さは独立端厳、壮麗にして、神が宿っているかのようだ。
そして、花も宝石を飾りつけたような美しさである。
このような素晴らしい桜は全国的にも稀であろう。
また、神谷村の住善寺の庭にも1株の見事な枝垂れ桜がある。
さらに、その近くの一山寺にも見事な枝垂れ桜がある。
花の季節になると、花見客が寺を借り、宴を開き、
その美しさを愛でるという。
しかし、これらは桜町の桜にはかなわないという。
桜町と住善寺の桜は、今は朽ち果ててしまった。
また、一山寺の桜も既に大変な老木となった。
赤井の華龍院にも見事な桜があるが、まだまだそれらには及ばない。

コメント
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