楕円と円 By I.SATO

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『 私の自転車旅物語 』-壱岐、対馬の旅- ⑥

2021年10月26日 | 『私の自転車旅物語』

 

「対馬」が「対島」でないのは古代中国の人が遠く海に浮かぶ二つの島影のようなものを見て、支配下に置こうと卑下する時に使う『馬』の字を充てたという説がある。邪『馬』台国も同じとか。

中心部が括れた細長い形が二つに見えたのだろう。

 

面積は東京23区よりも広く、島では沖縄本島、佐渡ヶ島、奄美大島に次ぐ。9割を占める森林が海に落ち込んで周辺は綺麗なリアス式海岸だ。

 

古代中国の文化や政治制度、仏教を持ち帰った遣隋使、遣唐使の中継地であり、稲作技術の通り道であり、唐・新羅連合軍に敗れた「白村江の戦い」、元寇の襲撃、秀吉の朝鮮出兵、和解の朝鮮通信使の接遇、近くは日露海戦など、古代からの歴史が詰まった島を3泊で巡った。

 

初日は2019年4月7日だった。

早朝のフェリーで厳原港に到着し、近くの民宿に荷物を置いて、早速、20Kmほど北の『金田城跡(カナタノキアト)』に向かった。

途中までは自転車、城山の「城戸跡」「城壁・防塁跡」は徒歩で2時間ほど巡った。

7世紀の倭国(日本)の頃に唐の侵攻を防ぐために“防人”が配置された山城の跡だ。防人は関東の若者が多かったという。

 

《金田城が築かれた城山の麓 2019.4.7》

 

《金田城跡から見た浅茅湾の入江》

 

《防塁跡》

《城壁  ここで朝食・昼食のサンドイッチを食べた》

《城門の跡》

 

歴史を紐解くと、

山城が築かれる前の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国だった。

645年、唐は朝鮮半島の北に位置している高句麗に侵攻する。高句麗と百済から攻められていた新羅は、利害関係の一致から唐と連合する。

その頃、南部の百済は大飢饉に襲われ国政も治安も悪化。そこに目を付けた唐は新羅を従えて660年に百済を滅ぼす。

百済の生存者らは復興を目指し、古くから交流のあった日本に援軍を求め、663年、朝鮮半島の南西部にある白村江(ハクスキエ)という場所で、日本(倭国)が支援する百済軍と、唐と新羅の連合軍が海戦が勃発。日本は当時大国だった唐の軍に敗れる。

668年には高句麗も新羅に滅ぼされ、朝鮮半島は新羅によって統一されて唐、新羅、日本(倭国)という国家が成立し、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになった。

遣唐使もこれを機にしばらく途絶え、日本は国防を強く意識するようになる。
661年に急死した斉明天皇の後を継いだ息子中大兄皇子は、国の守りの最前線として浅茅湾の南岸にそびえる城山に「金田城」を築き防人を置いた。

 

予断になるが、中大兄皇子は天智天皇として即位するが672年に死去。その息子・大友皇子と斉明天皇の弟・大海人皇子が、皇位継承をめぐって地方官や豪族たちを巻き込む日本古代最大の内乱である「壬申の乱」が起きている。

結果は国防など天智天皇の急激な改革に不満を持っていた地方豪族たちを味方につけた大海人皇子が天武天皇として即位した。

 

夕方、民宿に戻った。

 

カサゴの仲間の「ホシクイ」という魚の汁物が出た。工事で長期間泊まっている長崎の若者が仕事が休みだったので港で釣ってきたものだった。

「ホシクイ」は朝鮮海峡で口を一杯に開けている姿が星を食おうとしているのではないかと付けられた呼び名であることを3日目に泊まった島の北部の宿で知った。

 

《民宿の隣の家 春先は〝朝鮮風〟が強く、こうして石垣で囲われた民家が目についた》

(つづく)

 

 

 

 

 



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