楕円と円 By I.SATO

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「文学国語」と「論理国語」

2022年04月03日 | 日記

2023年度から高校の国語が変わるというニュース。

何でも「文学国語」と「論理国語」に分かれるのだという。

 

60年近く前の記憶を手繰ると現代国語と古文、漢文だった世代にしてみれば、そもそも古文と漢文の行く末を知る由も無いし、ましてや小説は「文学国語」、評論は「論理国語」に入るという二者択一的な分類にはついてゆけない。

教える先生も大変だろうし、教科書会社も基準が分かりづらくて混乱しているという。

 

日本の生徒の読解力の低下が背景にあるという。大学入試では国語ばかりでなく、数学も出題文が長くなるとそれを理解するのに時間が取られるらしい。

以前に大学の運営の仕事に少し関わっていた時に、「考える力」に力点を置いた大学入試制度の改革が叫ばれていた。

入試だけが先行して、後追いで現場の教育プログラムを変えるということか。

読解力の低下の原因はいろいろあるのだろうし、「論理国語」なるもので身に付くものでもないだろう。設問を動画にしたら・・・と冗談半分で思うくらい活字を取り巻く環境は変わっている。

 

これで思い出すのは、高校時代の国語の時間だ。中学の頃は「国語」は「国語」だけ。担当の担任の先生は、小説にしろ、評論にしろ、詩にしろ、理解と解釈にかなり自由度を持たせていたように思う。

とろが高校に行くとたまたまだったのかしれないが、「現代国語」の試験は授業中の先生の解釈がそのまま正解という暗記科目のような何とも型にはまった息苦しいもので、反発を覚えたものだった。

 

「文学国語」と「論理国語」の分化が、感性やものの考え方を画一的にし、指導要領に名を借りた恣意的な論理を忍び込ませることにならければよいがと思うニュースだ。

文科省が教育改革を言い出すとろくな事が無いというのが経験則である。