楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -13 (花蓮 太魯閣渓谷)

2022年03月24日 | 環島

PS.昨日(3/23)のゼレンスキー演説は日本を研究し尽くし、答案の書けるような優しい問題を出す先生の優しさがあった。

「日本は休戦調停に積極的に動いて欲しい」と言われたら・・・雁首を揃えた国会議員センセイはホッと胸を撫で下ろしたことだろう。裏を返せばあまり期待はされていないということか。。。

今日、ウクライナ戦争は29日目を迎えた。アメリカの特殊部隊はどこにいるのだろう。

 

 

 

2018年4月13

 


前日、到着した花蓮のホテルでフロント男性が電話で話してきたことは、廊下に消毒液を噴霧したばかりなので、30分は室外に出ないで欲しいということであったらしい。後で別のフロント女性にゆっくり英語で話して貰って分かった。

 

朝食でバイキングの野菜をたっぷり食べる。旅行中のアメリカ人ご夫婦が一緒だった。世界旅行らしかった。

 

 

9:00   バスで日帰りの太魯閣(コロコ)渓谷観光に向かう。太魯閣渓谷は地震が多く、前年にも国際的なニュースになる巨大地震が発生して、市内の大きな建物が倒壊した。

渓谷は落石による人身事故も起きていたので自転車はやめて、バスで久々に休養することにした。

 

《観光Hpより》

 

 

太魯閣渓谷は花蓮県北部の国立公園で、2,000m級の険しい山々に囲まれた大理石の峡谷だ。川が削って出来た切り立つ断崖絶壁にへばりつくように道路が走っている。

人力だけの難工事は3年10カ月を要し、212名が殉職したという。 人間の底力は凄いものである。

 

《資料館》

「タロコ」とは台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」の意味という。台湾の中でも人気の観光地になっている。

かつては山中に79の集落があったそうだが、日本の統治下に置かれ、戦後になると彼らはこの地を離れていった歴史がある。

 

 

見物には徒歩の場合は 20km、5時間かかる。 危険箇所ではヘルメット着用が義務付けられていて、有料貸し出しがされていた。

    

 

トンネルにはノミ跡が残っている。

 

 

ヘルメット無し。

 

 

いたるところに岩ツバメの巣穴がある。

 

 

 

所々にお寺があって、郵便局に尼さんがいた。

 

 

走らないので昼食はこれのみ。牛シチューのようなものだった。

 

 

下流の方には浸食されていない中州に元の景色が残っていた。

 

 

昼が軽かったので、夕食はしっかりと摂った。台湾に来て初めて小籠包を食べた。肉の炒め物には常にほうれん草のような野菜が入っている。

 

桃園空港からの「環島」もゴールの台北まで残り160Kmほどになった。花蓮からウイスキーで有名な次の目的地・宣欄までの100Kmは落石の危険箇所があるため鉄道輪行した。


つづく)

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -12 (台東から東海岸を北上)

2022年03月22日 | 環島

PS.昨日は春分の日。ウクライナ戦争開始27日目。何か重苦しい日々だ。TVに軍事アナリストばかりが登場し、「プーチンしか止められない」とコメントする異常さ。バイデン大統領がヨーロッパに行く。何も出来なければ彼も歴史に汚点を残す。酷でも何でも無い。それがアメリカ大統領なのだと思う。

 

 

2018年4月11

 

 

台東から台湾島の東海岸をひたすら北上する。太平洋を見ていると、この先に日本があるのだとふと思う。山が海に落ちる風景は北海道の桧山の大成海岸、日高の海岸に良く似ている。

 

 

 

アイスコーヒーを飲む。晩飯の時の缶ビール以外は水しか飲まないので甘い。

 

 

 

所々に椰子ジュースを売っている店がある。椰子のココナッツは濃厚なクリーム。店の女性は3才の時に大阪にいたとのことだった。

「美味しい」は台湾語で「ホーチャ」と言うと教えてくれた。その後は、ホーチャ、ホーチャと活用した

 

 

「阿蘇のあか牛」のルーツか。台湾で牛が飼われているとは知らなかった。台北で食べた角切りの牛肉がたっぷり入ったうどんは旨かった。

 

台東から80kmほど走ってきて、長濱という街に着いた。"旅社"の看板が目に入ったので飛び込みで泊まることにした。

 

 

 

嘉義の旅社のおばちゃんは日本語が分かったが、ここは全くの身振り手振り。話しは通じた。おばちゃんに台湾バナナをひと房も貰った。

産湯に丁度良いくらいの小さなタイル張りのバスタブが付いていた。汚れを落とし、 夕食に出た。

 

 

 

お祝い事があったのか、親戚縁者らしき集まり。台湾は外食の文化だ。壁に日月潭の土産店にあった蓑笠が掛かっていた。

 

 

 

 

ずっと屋台のエスニックだったので入口の魚や野菜に期待して食堂に入った。何とイサキの刺身!炒飯も旨そう。 野菜炒めも身体に優しそうだ。 

食べ物屋では「ジャパニーズ」と断って人が食べている品を指差す。台湾の屋台、食堂に酒類は殆ど置かれていないが、この店は違った。 暫くぶりの台湾ビール。

隣のグループに「レモンの輪切りを入れて飲むと旨いよ」と勧められた。

若い店主がテーブルに来てくれて、身振り手振りで意気投合。

爆睡。

 

2018年4月12

 

6:30 コンビニで用意した朝昼兼用の オニギリ、牛乳、果物、そしておばさんのバナナを持って、太櫓閣(タロコ)渓谷のある花蓮を目指して出発。およそ90km。

 

 

 

飛び魚が獲れるようだ。

    - 石梯という海岸で飛び魚を裂く女の背に南国の汗 -

 

 

黒潮は泡立つのか?

 

 

 

北回帰線の標塔。大陸側を南下していた時に嘉義市で通過した。ここは太平側の花蓮県の豊浜にある標塔。台湾島をほぼ半分に分けている。

 

 

 

休憩。

 

 

16:00  花蓮(ファーレン)に到着。

台湾に来て、初めて通常の?ホテルに泊まった。

 

久し振りに部屋のTVを見ると、見たことの無い日本人がよく登場する。日本に戻って、当時の福田財務次官のセクハラ疑惑のニュースだったと分かった。

台湾は蔡英文総統はじめ、政治家らしき人物の地方視察などの映像がしきりに映る。

野球中継も多く、先住民族の歴史や活動を伝える専門チャンネルが興味深かった。

 

荷物を解いていると、フロントの台湾男性から殆ど聞き取れないかん高い英語の電話が入った。「ここには滞在できない!」と怒られているような・・・。

そんなこと言われても。

(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -11 (南端から台東へ)

2022年03月19日 | 環島

バイデン米大統領と習近平中国主席との電話会談は平行線。台湾も議題に。

 

 

 

2018年4月10

 

 

山の中の貸別荘に一人で寝るのはちよと気味が悪く心許なかったが、上り道で疲れていたのか、ぐっすり寝た。朝、明るくなって周りを見ると将に山の中のポツンと一軒家。笑

原住民のおばちゃんを待ったが現れないので、鍵を指定された場所に置いて7:00に出発した。

 

  

 ≪台湾のサイクリスト≫


引き続き上り道。頂点付近で太平洋がちらりと見えた。何人かの環島ツーリストに出会う。

 

 

 

山の終わり付近に警察署。前日に出会った地元の環島サイクリストによると山中でいよいよの時は泊めてくれるとのこと、さすが環島の盛んな台湾である。

やっと「台東」の道路標識が出て来た。

 

 

 

原住民の自立生活支援のためと思われる観光施設や文化伝承施設が多い。再び山の中に入ることになるのでパスした。

 

 

遠くに台東らしき街が見えてきた。

 

 

台東の街の手前に大きな川が流れていた。

 

15:00 頃に台東市街に到着。100Kmくらいあっただろうか。

台湾島は太平洋岸に軍事基地が多いと聞いていたが、山が海岸に落ちる北海道に似た風景の中に1カ所だけ軍事施設の入り口らしい標識に気付いただけだった。

 

TWDが無くなったので台東市街で為替銀行を探すことにした。

交差点で隣に止まったバイクの女性に訪ねると、Follow me !と銀行を2カ所案内してくれた。

営業時間を過ぎていて、結局、セブン・イレブンのキャッシュサービスを利用した。別れ際に尋ねると台東大学の学生だった。

ここでも親切な台湾の人にお世話になった。

 

 

 

台湾のコンビニには必ず茹でたアヒルの卵がある。おでんのような味付けで美味しい。

 

 

 

アパートのようなツーリストホテルに投宿することにして、前日はろくなものを食べていなかったので夕食はガッツリ食べて鋭気を養った。

 

 

(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -10 (南端から山中の宿へ)

2022年03月14日 | 環島

 

 

2018年4月9

 

台湾南端を出発し、山中で出会った台湾の二人連れ環島チャリダーが協力してくれて宿を捜すがなかなか見つからない。陽はだんだん陰ってくる。

途中でチャリダーさんが携帯で電話をしている。どうやら知人から情報を貰っているらしい。暫くするとミニバイクに乗った体格のいい原住民と思われるおばちゃんがやって来た。

 

夏の間だけ営業している近くの貸別荘に泊まっても良いということになった。食事無しの1,500元(7,500円)。

台湾の物価からすると相当高い。もう夕方だし、チャリダーさん二人は60Kmくらい先の台東まで行く予定なのでOKして別れた。

おばちゃんは鍵を開けると現地語で何かを喋った。朝、出発する時の鍵の置き場所の指示だった。1,500元を渡すと行ってしまった。

どうやら山の中の一軒家に一人で泊まることになった。

 

 

貸別荘の中に貼られていた古いマップを見ると、住所は東源社区。排彎(湾)族の文化が紹介されていたので、現れたおばちゃんはそうなのか。

 

 

台湾は人口の98パーセントが漢民族で、原住民が2パーセント(16民族)ほどが暮らしているという。

「排彎(湾)パイアン族」は台湾島の主に南部の民族だ。台湾では原住民の社会福祉政策として、観光地での文化伝承の仕事や土産物店、食事の店などの経営で生活の自立を図っているようだった。

 

 

 

周りは鬱蒼とした林に囲まれ、レストランが併設されていた。

 

 

 

室内の壁には小さな玉石がはめ込まれていたが、排彎族の文化なのだろうか。

 

 

 

昼食は午後3頃だったので、晩飯は非常食のパンと飲み物で凌いだ。別荘なのに・・・。笑

誰もいない山の中に〝ポツンと一人〟は正直、ちよっと不安ではあった。

早く朝になればいいなと思った。

 

次の日からは台湾島の残り半分、太平洋岸を北上した。

(つづく)


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -9 (台湾最南端へ)

2022年03月13日 | 環島

 

2018年4月9

 

晴れ。5:40に墾丁の宿を出発、台湾島の最南端を目指す。前夜、煌々とした灯りで満ちていた周りは眠っている。

Googlマップを見ると「鵝鑾鼻灯塔」があるようだ。何と読むのだろうか。前日、道路脇にあった石標に赤く刻まれていた文字だ。

 

 

 

日が昇って明るくなった頃、自転車、徒歩で「環島」をしている地元のサイクリストに出会った。

直ぐに「環島(ファンダオ)?」と聞かれる。

頷くと、「加油(ジャヨウ!」と励まされ、「加油(ジャヨウ!」と応えて別れる。


お遍路さんのような人にも。後ろ姿を見送った。

 

台湾はサイクリングに力を入れていて、環島のための国道の専用レーン、鉄道車輌への積み込みスペース、駅ホームの昇降施設などの整備が進んでいる。

世界的な自転車フレームメーカーのGIANTがあり、欧米の有名ブランドの受注生産も盛んだ。

 

 

 

南端に近くなり、道路の無くなる地点に自転車を置いて歩いて行くと、気象レーダーがあったが、軍事施設らしきものは無かった。

 

 

 

さらに歩くと、いよいよこの先は崖となっている辺りに「鵝鑾鼻灯塔」が立っていた。領海を示す海図が掲示されていた。

 

 

《2018.4.9  6:10》

そして、その近くに「台湾最南端の碑」。

4月1日に台湾に来て、9日目に到着した。

 

 

静かな波の朝の海だった。

この先およそ900Kmはフイリッピンのマニラ市になる。太古の時代に小さな船で渡ってきた民族がいたと思うと、人間の行動力は実はとても大きいことを知る。

台湾から与那国島へも渡っている。

 

 

最南端を後にして、この日の宿の太平洋側の台東へ向けて走り出す。距離100km。

これが無謀だった。

 

台湾島は脊梁山脈が走っていて、北と南はどうしても越えなくてはならない。予想外の長く細い 山道が続き進まない。4月、冬の北海道から来たので足が出来ていない。

 

途中、昼食を摂る所もなく、へとへとで 午後3時頃にやっと山の中で原住民(アミ族か)が 経営する食事処に辿り着いた。

炒めご飯と野菜炒めを 注文し、「近くに宿はありませんか。」と 若い娘さんに聞くと、英語で「この先3Kmくらいにゲストハウスがある。高いよ。1,600TWD(8,000円)」とのこと。

 

 

値段は高いけどやれやれ、落ち着いて食べ始めると二人の台湾人の環島チャリダーが やって来た。「一緒に台東まで行こう。2時間だ。」と言う。

有り難いけれど、あちらはスピードの出るロードレーサー、こちら10Kgの荷物を付けたマウンテンバイク。2倍の4時間は掛かる。

到着が遅くなって迷惑がかるからと遠慮すると、そのゲストハウスまでこちらのペースに合わせて案内してくれると言う。

自分たちの予定もあるのに。。。また、台湾の人の優しさに触れた。

 

16:00頃に店を出発。ところが、3Kmくらい先と娘さんが言っていたゲストハウスは山道を行けども行けども見当たらない。

(つづく)

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -8 (墾丁国家公園へ)

2022年03月11日 | 環島

 

  

2018年4月8

台湾島南部の墾丁国家公園へ。快晴。距離は90Km。

 

 

「環島1号線」をひたすら南下する。右側通行、二輪車専用レーンが広い!

台湾島は時計の逆回りが海が見えて、追い風になりやすい。

 

 

 

さすがに亜熱帯、実の付いた椰子の木が目に付く。道路にまで・・・。〝台湾バナナ〟がなっているところは見かけなかった。

 

 

 

椰子の実ジュースで喉を潤す。ほんのり甘く、思ったより量が多くてコップ2杯くらいあったのではないか。

直売コーナーの上段のピーマンのような形をしているのは蓮霧(リェンウー)。台湾のポピュラーな果物でリンゴと梨を足したような歯触りのサッパリした味がする。

下段は 芒果(マンゴー)。

 

 

 

台湾海峡を眺めて。暫くぶりのコーヒーが美味しかった。

 

 

石碑を見て、墾丁国家公園地区が近いらしいことを知りホッとする。

 

 

 

16:00 墾丁公園地区に到着。中心街のセブン・イレブンの階上にあるホテルを取って、夜市へ。世界各地からの観光客らしき人々で賑わっていた。

台湾は夜市が多く、日本のお祭り屋台のようだ。灯りが暖かい。

 

 

ずっと屋台で香辛料の効いた台湾料理だったので、この日はレストランで暫くぶりに御飯、鶏の揚げもの、野菜のお浸し、ワカメの味噌汁の和食でホッコリした。

 


イギリス人向けのホテル?

いよいよ台湾島南端へ。

(つづく)

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 -7 (高雄へ)

2022年03月10日 | 環島

2月24日に始まったプーチンのウクライナ侵略戦争が、中国の力による台湾の現状変更を誘発するのではないかとの懸念がメディアなどで囁かれている。

台湾の人達のあの優しい国民性と笑顔が失われることが起きないことを願うばかりだが、台湾有事となれば日本もアメリカに引きづられて巻き込まれる。

後ろからついて行くだけの日本外交で大丈夫なのだろうかと心配になる。

 

東工大の中島岳志教授は、〝「保守」とは単に「革新」の対義語ではなく、人は愚かであることを自覚するという深い考えに立った姿勢である〟と言う。

この機会にとばかりに憲法改正だ、敵基地攻撃だ、核の共有だ、と騒いでいる元総理大臣らがいる。

今更ながら愚か者であるとの思いを強くする。唯一の被爆国の政治家として恥ずかしい限りだ。

 

ウクライナの一日も早い事態好転を願いながら環島(台湾一周)の続きを綴る。

 

 

2018年4月7

 

台湾島の大陸側は古い建物の街が連なる。台南市に来て近代的な高層建築の街並みを見た。

郊外は水田、畑が広がっている。

台湾の農地開発には日本統治時代の総督府技師・八田與一が深く関わっていることを知った。戦争の犠牲となり、奥様が夫の設計した農業用ダムで後を追うという悲劇があった。

地元の人々は今も慰霊祭を営んでご労苦に感謝している。

(このことは後日再び台湾へ行った時のBlogで別途、綴った。)

 

 

 

台南市から高雄市に向かう国道沿いに、沼で採れる「菱の実」を売ってるおばちゃんがいた。嘉義の旅館のおばちゃんと同じく、日本統治時代に国民学校で習ったとかで日本語が分かった。

「大きな袋で買って行け。」と言うが自転車旅では無理。2~3個貰って食べた。子供の頃に食べた栗のほくほくした味がした。台湾でもおやつで食べるという。

 

 

 

高雄の近くになって、お祭りの行列に出会った。各家庭では日本の「お盆」を思わせる飾り付けの台を家の前に出して行列を出迎えていた。

 

快晴で30℃を超える熱さの中を50Kmほど走って昼前に高雄に着いた。台北に次ぐ人口190万人の大都市である。

〝東洋のベニス〟と言われる「愛河」を探したが見つからず、夕方になったので諦めてこの日の宿をBookingComアプリで捜すことにした。

 

カーナビで大凡の場所に近づいてから立派なホテルに飛び込んでフロントの女性に尋ねると、留学で京都にいたことがあるとのこと。日本語がペラペラで、丁寧に目的のツーリストホテルまでの道を教えてくれた。分かりにくい場所で助かった。

 

着いて先ずはサウナとプールのような大浴場で暫し開放感に浸った。

フロントのヨーロッパ系の若いお兄さんは玄関ドア解錠方法などの注意事項らしきことを話してくれたが、早くてサッパリ聞き取れず、暗くなってからホテルに入れなくなっも困るので、夕食は明るいうちに近くの屋台で餃子、ビールで簡単に済ませた。

 

この日のメモを見ると20:00就寝とある。日中、炎天下の下で「愛河」を捜したり、ホテルを捜したりで疲れていたのだろう。

高雄市内の写真が無いはずだ。笑

 

 

(つづく)


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 - 6 (台南へ)

2022年02月25日 | 環島

 

 

2018年4月6

前日に親切にして貰った黄さんは独身で、妹さんと暮らしていると話していた。

別れ際、昼食の七面鳥の炒め物を納めたケースをバイクの格納スペースに入れる時に、袋に入った沢山のバターロールパンが目に入った。

七面鳥は妹さんとの夕食に持ち帰ったのだろうか。いい女性に巡り会えることを祈って7:00に台湾南端へ向けてペダルを踏み始めた。

 

 

嘉義市街地。バイク、バイク、バイク。(前日撮影)

バイク軍団に付いていれば間違って自動車専用道路に入ることは無いので安心だ。

 

 

嘉義市内から南へ5Kmほどの所に〝北回帰線〟のアーチがある。(前日撮影)

北回帰線は北緯23度26分の緯度線であり、気候区分が温帯から亜熱帯に変わる。南半球には南回帰線がある。

 

日本から最も近くで北回帰線を体験出来るのは台湾島であり、島はほぼ南北に二分されている。

南部地域は雲間から太陽が出ると一気に30℃を超える。日焼けで手足の皮が二度剥けた。

「夏至」は太陽が北回帰線に到達する日であることを知った。台湾では太陽がほぼ真上に来るらしい。

 

 

 

国道は二輪車専用レーンがあり、対面通行になっている。道路脇で豪快に豚肉を売っている店があった。

冷凍・冷蔵庫らしきものはあるが亜熱帯の常温下でブロック肉から量り売りをしていた。

『環島1号線』を70km走り、 昼前に台南市に着いた。

 

 

≪史跡の「赤嵌樓」の入り口と全景≫


17世紀に台南を占拠していたオランダ人の砦だが、1653年に鄭成功が彼らを追放し、跡地に中国式の楼閣を建てた。鄭成功と降伏するオランダ人の像が建っていた。

 

 

 

台南は国内の北と南から 観光客と食べ物が集まるという。寿司屋もあった。昼食に食べてみたがネタは日本と同じ。統治していた時代の名残りかもしれない。

 

この日の宿は小径が入り組んだ住宅街にあった。民泊のような一戸建てで、なかなか見つけられずギブアップ。カーディーラー店に飛び込んだ。

翻訳アプリで事情を話すと宿に電話をしてくれて、奥さんが車で迎えに来てくれた。台湾の人は本当に親切な人ばかりだ。後ろをついて行き無事、宿に到着した。

 

 

シャワーを浴びてひと休みして隣の喫茶店に入った。

 

 

何と、そこで二人目の中年の〝黄さん〟に出会った。喫茶店の常連さんで、東海岸の花蓮にある「太魯閣(タロコ)渓谷」の岩石崩落の危険は無いか尋ねると、よく行くそうで、丁寧な地図で注意点を教えてくれた。

お互いにたどたどしい英語なので時間がかかった・・・(笑)。

 

 

 

喫茶店にもう一人いたお客さんが近所の食堂のオヤジさんで、夕食に出掛けると食事代は全て無料にしてくれた。ずっと香辛料の効いた内臓料理を食べていたので暫くぶりの煮魚が旨かった。

台湾の人々は嘉義の黄さんをはじめ、皆さん本当に親切な人ばかりだ。

自分は出来ているのだろうか。。。

 

 

翌日、気持ちの良い目覚めだった。素泊まり3,000円くらいだったと思う。

(つづく)


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 - 5 (阿里山へ)

2022年02月23日 | 環島

 

北海道は記録的な大雪が続いていますが。。。。

 

2018年4月4

 

 

台中市から嘉義市までの100Kmを台湾鉄道で輪行した。駅の窓口でメモ紙に〝台中→嘉義〟と書くと切符が買えた。

運賃は144元(TWD)、650円くらい。別に自転車が350円くらい。

 

  

 

自転車は各車輌に3台ほどをベルトで固定するエリアがあるが、学生はママチャリをそのまま持ち込んでいた。

特急以外は組み立てた状態でOKなのでバッグに入れる手間が省けて快適だ。

主要な駅はホーム階段に自転車を押して上れる専用レーンか、エレベーターが整備されていた。

自然豊かな北海道はトンネルばかりの 新幹線から頭を切り換えて、自転車ツーリングを売りにした別の投資をしてはどうかと改めて思った。今からでもローカル線を残すための方策として取り組んで欲しいものだ。

 

車中で日本との合弁会社を退職した同世代の 人にお会いした。中学のクラスメートと続けている 小旅行とか。日本語で楽しい2時間を過ごすことが出来た。

 

 

嘉義駅に着いた。駅前で予約した宿の場所をネットで調べていると、青年が日本語で話しかけてきた。

名前は黄さん。日本語を勉強していて富士山が観たいという。嘉義駅に勤務していて、この日は午前中で仕事が終わったところだった。

嘉義は七面鳥料理が美味しいからと近くの屋台でお昼をご馳走してくれた。親切に宿まで案内してくれて、台湾の人の親切さに触れる旅の始まりだった。

 

「旅店」と看板の上がった日本の旅館のような宿に着くと、フロアに経営者の母親と思しきおばぁさんがいて、カタコトの日本語で話しかけててくれた。

日本統治時代の「国民学校」で習ったという。

「台湾人を抑圧した蒋介石一派は嫌いだったけれど、港や道路を作ってくれた日本人には感謝しており、好きだ」と言ってくれた。旅で出会った人は大抵、同じ感想を持っていた。

 

 

夕方、近くの商店街を歩くと何かのお祭りをしていて、民族楽器の演奏を聴くことが出来た。胡弓、チャルメラ、ドラの音が旅情を掻き立てた。

 

2018年4月5

嘉義駅前からバスで阿里山国立公園へ日帰りで向かう。

台湾の最高峰「玉山」(3,982m)から延びる支脈の全体を『阿里山』と総称するという。黒岳、旭岳などの連なりを大雪山と呼ぶのと同じだ。

 

《阿里山駅から絶壁奇岩の「塔山(2,663m)」を望む》

 

阿里山の最高峰は海抜3,952mの玉山。真珠湾攻撃の時の暗号になった〝新高山ニイタカヤマ〟である。

その手前の「祝山」の日の出は美しいらしいが、1泊して早朝に専用の〝日の出列車〟(登山鉄道)に乗り換えなければならないので、諦めて阿里山駅より少し高い「神木駅」まで行って山々を眺めた。

 

 

《阿里山森林鉄道 「神木駅」》

 

神木駅は嘉義駅から2,000m以上の標高差がある。気温差は15℃くらいあったと思う。バスと森林鉄道を乗り継いで2時間半ほどかけて到着した。

 

 

台湾は亜熱帯だが、阿里山駅周辺には桜があった。

 

 

国立公園の中には巨大な紅檜、千歳檜の原生林が広がり、中でも「ご神木」は高さ50m、推定樹齢3,000年とあった。

太古 が眠るような森林を散策した。

 

嘉義の街に戻り、翌日からのツーリングに備えて、夕方の1時間ほど、道路走行の練習をした。

日本と違って左側通行(車輌は右)なので、交差点の曲がり方に慣れなくてはらない。

自転車は少ないがバイクが圧倒的に多い。走行車線は車と区分されているが幅が広く、湧くように現れるバイクに飲み込まれそうだが、皆さん運転が上手で巧みに交わしてくれる。

(つづく)

 

 

 

 


『 私の自転車旅物語 2018 』-台湾一周 - 4 (日月潭へ)

2022年02月17日 | 環島

 

2018年4月3日

 

 

台中市内からバスで2時間ほど山間部に入る『日月潭』に日帰り観光した。

 

 

周囲35Kmの淡水湖で洞爺湖のような印象である。

湖の北側が太陽、南側が月のように見えることからこの名前がついたという。早朝は霧に覆われ、日中はエメラルド色に輝き、黄昏時には赤く染まるいう。

右上が唯一の島である「拉魯島」。かつては大きかったが1999年の地震で沈んで今のような小島になってしまった。

 

 

台湾メーカーの〝GIANT〟のレンタサイクルで湖を半周した。

 

 

日月潭には先住民の小集落が再現された「九族文化村」があるが、あいにくの休館日だったのが残念だった。正面のロープウェイを登った先にある。

台湾は16の先住民族が認定されている。

太平洋戦争の時に日本軍の義勇兵となつて、フィリピン 、 ニューギニア など密林地で闘った高砂族は有名だ。戦後補償の対象外であり戦争悲劇のひとつだと思う。

 

《先住民族の居住エリア》

 

先住民族は大陸から来た漢民族によって島の中央部の脊梁山間地へ追いやられた歴史があるという。

日本統治初期の1930年(昭和5年)には、山間地の霧社(現在の仁愛)で日本の高圧的な同化・隔絶・封じ込め政策に抗してセデック族よる反日蜂起事件が起きている。

 

 

土産品店には先住民のカラフルな衣装とともに、日本の蓑笠のようなものが陳列されていた。発祥はこの辺りなのだろうか。

 

 

湖畔の移動式売店。野菜、肉製品ともに豚肉が常温で販売されていたのにはびっくりした。

 

 

帰りのバス。4月という時期のせいか、空いていた。

大学の看板あり。

 

(つづく)