ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「オールド・テロリスト」

2015-08-26 21:13:20 | 
「オールド・テロリスト」 村上龍 文藝春秋 2015.6.30

帯にも引用されている著者あとがき

後期高齢者の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが
浮かんだのは、もうずいぶん前のことだ。その年代の人々は何らかの形で戦争を体験し、
食糧難の時代を生きている。だいたい、殺されもせず、病死も自殺もせず、寝たきりにもならず、
生き延びるということ自体、すごいと思う。彼らの中で、さらに経済的に成功し、社会的にも
リスペクトされ、極限状況も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、
持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか。どうやって戦いを挑み、展開するだろうか。

仕事を失い、妻が娘を連れて出ていった。
それから十年くらい経つのに失ったものに囚われているフリーライター・セキグチ。
異常なテロに遭遇し、得体の知れない人々と関わることになり、
その内の一人、不思議な若い女性・カツラギと行動を共にすることになる。

NHKテロ報道にセキグチは思う。

問題点や疑問点を示さず、犠牲者の葬儀や遺族のコメントなど情緒的な報道しかできない
日本のメディアの罪は大きい。なんて悪い人なんでしょうと、なんて可哀想な人たちなんでしょう
という二つのアプローチでしかニュースを作れない。何も対策をとらなかったら人間はどこまでも
堕落して、どんな悪いことでもするという前提がない。

心療内科医師・アキヅキは言う。

弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者の方が
圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての
若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、
人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、
実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、
どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは
何も教えることができない。したがって恵まれた数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなど
できるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。
そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は
病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。
同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。
(略)苦痛は耐えがたいから、新興宗教に逃げ込む者も多いし、死を意識し、死を望む者も後を絶たない。
やがて彼らは、苦痛しかない人生だったら、死んだほうがいいと、心からそう思うようになる。
死は、苦痛からの解放だから、彼らは自分を殺すのを何とも思わないし、他人を殺すことも善だと
考えるようになる。

元官僚・山方は言う。

テロの実行犯にあるのは、甘えと幼児的な怒り。甘えられる対象を常に探している。自分を
コントロールできない、また問題が何かもわかってないし、見ようとしないし、認めようとしない。
だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、
誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は
社会にあふれかえっているので、探しだして、洗脳というか、誘導するのは、そう難しいことではない。

セキグチは、マスメディアへの本音を吐く。

あの連中は、自分を否定したことがないし、疑うこともない。わからないことは何もないと
タカをくくっている。わかるという前提で報道し、記事を書く。だけど、たいていのこはわからないんだ。
わからないことはないというおごりがあるので、絶対に弱者に寄り添うことができないんだ。
もっとも頭にくるのは、マスコミの連中が、自分たちは本当に貧乏人や弱者を救うために記事を書き、
番組を作っているとタカをくくっていることだ。だが、当たり前のことだが、危機感がない人間に
危機感しかない人間のことはわからない。最大の問題は、連中が、わかる、理解してると思ってる
ことだった。高い年収のせいではない。プライドとか、傲慢だからとか、そんな問題でもない。
ひょっとしたら自分は何もわかってないのかもしれないという疑いは、不安と、ときに恐怖を生むので、
基本的に不安や恐怖と縁のない生活をしている連中には耐性がない。

いつの時代でも、またどの国でも、メディアは必ずポピュリズムによって屈服し、それを権力が利用する。

カツラギは言う。

楽しいこととか、うれしいことが過去にあったら、それをもう一度味わいたいとどこかで思うから、
誰かの犠牲になって死んでもいいなんて、わたしだったら、思わないな

たぶん愛情というのは、量で計れるもので、ゼロかマイナスになると、たいてい、その人は、いなくなる。
信頼は量では計れなくて、ラインというか、糸とか、ケーブルというか、そんな感じでしょう。
愛情の量がゼロになっても、信頼という、お互いをつなぐ、ラインとかケーブルが一本でも
残っていれば、コミュニケーションの可能性があるってことじゃないのかなぁ。

どんなに悲しいことを知ることになっても、コミュニケーションは取ったほうがいいんだと思った。
だって、こんなことは知らなければよかったというのは単に辛いだけだけど、相手が思ってることを
聞いてなかったら、いろいろ想像して一生考え続けないといけないじゃないですか。それって
辛いだけじゃなくて、後悔っていうか、それこそ地獄みたいなものじゃないですか。

元の妻と話したセキグチは、ようやく自分を直視する。

どうせダメな人間なんだ、ほっといてくれ、というのは最悪の態度だったのだと、今になってやっと
骨身に染みて理解した。それは、自己嫌悪とか、自分を卑下するとかではなく、単なる甘えだったのだ。
ときとして甘えは暴力よりもやっかいだ。暴力なら、立ち向かうとか、退避するとか、誰かに
支援してもらうとか、何らかの方法で対抗できるかも知れないが、甘えは、容認するか、
見放すしかない。しかも、甘えに応じることができなかったと自分を責めたりして、傷を負うこともある。

テロで日本を廃墟にもどそうとする老人たちに、セキグチたちはシンパシーも感じる。

連中は明確な目標を持ち、実行しようとしている。他の人間はみな、安全なところから批判したり、
ぐだぐだ不平不満を言ったり、もっと生活を楽にしてくれとか、景気を回復させてくれとか
陳情するだけだ。批判したり、陳情したりしても、この三十年あまり、まったく何も変わらなかった。
衰退は静かにはじまり、やがて加速して、常態になった。考え方も、システムも、現状にフィット
していないと、ほとんどすべての日本人が気づいてたのに、ただ不平不満を言うだけだった。
そのうち目に見えて衰退していき、出口が見えないどころか、誰も出口を探そうともしなくなり、
やがて出口のことを考えることさえ放棄した。ミツイシたちは、陳情したりしない。お願いなんか
してもムダだと骨の髄までわかっている。
しかし(一般人を巻き込むテロは)、目的がどんなに崇高でも、許されることではない。
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