「襲来 上・下」 帚木篷生 講談社 2018.7.30
下総の小湊(片海)の岩場で泣いていた赤子は、
見つけた貫爺さんに見助と名付けられ、漁師として育てられる。
その貫爺が亡くなり、気落ちしている見助に蓮長様が言う。
「実の親子、同胞は、神仏が決めるもので、もはや人の手は及ばない。しかし魂の親子、同胞は本人の手にかかっている。だからみなし子でも、魂の親、同胞は見つけられる」
蓮長はやがて日蓮と名を改め、鎌倉の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始める。
見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。
その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。
幕府がこのまま邪宗を放置し法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。
そして見助は日蓮の予言に伴い、九州の対馬に一人で赴くことになる。
日蓮の目となり耳となるために。
鎌倉から京の都までは陸路、京から博多さらに壱岐・対馬までは海路だ。
遥か遠国の地への、見助の苦難の旅が始まった。
対馬に到着した見助は、島民に温かく迎えられる。
古くから島に住み着いている阿比留一族との交流を深め、蒙古の情報を見助は次々に入手していく。
他方、日蓮はこの間、幕府からの弾圧や浄土宗による法難に遭うが、対馬と東国の間で二人の手紙のやりとりは続いた。
そして見助が対馬に入って十余年、ついに蒙古が動いたとの情報が……。
カナの読み書きしかできない見助だから、
日蓮との手紙のやり取りはすべて平仮名。
一字一句、丁寧に読んだ。
素直な温もりが伝わってきた。
そういえば、蒙古襲来のとき、
命からがら逃げ出した対馬の人々が北に逃れ、青森まで流れ着いたという話を聞いたことがある。
だから青森に津島という姓が多いとか……。
この真偽を確認したことはないけど、
いかにも有りそうなことだ。