ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「襲来 上・下」

2018-09-22 23:57:47 | 

 

「襲来  上・下」 帚木篷生 講談社 2018.7.30

 

下総の小湊(片海)の岩場で泣いていた赤子は、

見つけた貫爺さんに見助と名付けられ、漁師として育てられる。

 

その貫爺が亡くなり、気落ちしている見助に蓮長様が言う。

「実の親子、同胞は、神仏が決めるもので、もはや人の手は及ばない。しかし魂の親子、同胞は本人の手にかかっている。だからみなし子でも、魂の親、同胞は見つけられる」


蓮長はやがて日蓮と名を改め、鎌倉の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始める。

見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。

その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。

幕府がこのまま邪宗を放置し法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。


そして見助は日蓮の予言に伴い、九州の対馬に一人で赴くことになる。

日蓮の目となり耳となるために。

鎌倉から京の都までは陸路、京から博多さらに壱岐・対馬までは海路だ。

遥か遠国の地への、見助の苦難の旅が始まった。


対馬に到着した見助は、島民に温かく迎えられる。

古くから島に住み着いている阿比留一族との交流を深め、蒙古の情報を見助は次々に入手していく。

他方、日蓮はこの間、幕府からの弾圧や浄土宗による法難に遭うが、対馬と東国の間で二人の手紙のやりとりは続いた。

そして見助が対馬に入って十余年、ついに蒙古が動いたとの情報が……。

 

カナの読み書きしかできない見助だから、

日蓮との手紙のやり取りはすべて平仮名。

一字一句、丁寧に読んだ。

素直な温もりが伝わってきた。


そういえば、蒙古襲来のとき、

命からがら逃げ出した対馬の人々が北に逃れ、青森まで流れ着いたという話を聞いたことがある。

だから青森に津島という姓が多いとか……。

この真偽を確認したことはないけど、

いかにも有りそうなことだ。

 

 

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