どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

旧由良隧道について

2018-08-21 20:14:25 | 日記

由良洞隧道(由良町側)

前回、旧由良隧道について調べてみたい…と書きましたが、
和歌山県立図書館で資料を閲覧したところ、由良町誌にも記載がありましたが、
完成したのは、明治22年のようです。一部、別の資料には、明治23年ともありましたが、
いずれにせよ、かなり古いトンネルである事は、間違いありません。
また名称も由良洞隧道(ゆらどうずいどう)のようです。


由良町誌より抜粋

明治も中ごろになると、由良地方にやっと主要道と言える道路が完成される。
明治十二年ごろ県道として認定された熊野街道は、有田、日高の郡境に横たわる
鹿ヶ瀬山の急勾配にはばまれ、人と牛馬の往来が困難であったことは前にも述べたとおりであるが、
この街道を鹿ヶ瀬周辺で根本的に付け替え、
由良回りの県道として完成されたのが明治二十二年のことであった。

三月十日の熊野街道鹿ヶ背転路開道式「答辞」(後藤和史家文書)の中に
「鹿ヶ背転路開修ノ工事タル有田郡殿原ヨリ、
本郡萩原村ニ至ル延長壱万千六百間余ニシテ最モ至難ナルハ、
本郡池田阿戸両村ニ跨ル字切貫峠ニ於テ、延長七拾弐間ノ隧道開鑿アルモ、
幸ニ工法其宜シキヲ得、遂ニ竣功ノ日ヲ見ルニ至リ」


と述べられているように、鹿ヶ瀬峠越えの熊野街道は、
この年から新設された由良回りの新道を本線とし、
その経路は、有田郡殿村から井関、河瀬を経て水越峠を越え畑の北側の山腹を徐々に下り、
畑、中、門前、里、阿戸と由良村の中央部を通り、
阿戸からは古道と別れて東側の山腹を蛇行しながら登っている。
峠(切貫峠)の手前で、工事中最も困難であったと述べられている
長さ七ニ間(一三八・四メートル)の「由良洞」隧道を抜け、
池田村を通過し萩原村東光寺で旧県道鹿ヶ瀬峠越えの道と合流している。

この道は延長二〇キロメートル余り(殿原、東光寺間)、道幅三・六メートル前後で、
当時の村内道路に比べて破格の規模を誇り、
その開通は由良地方の交通体系に大きな影響を与えたと思われる。


こうした由良地方の喜びと期待を担った県道熊野街道由良回り新道も、
その経路内に水越峠と由良洞隧道周辺の山腹二か所で長距離にわたる急傾斜を有することから、
地元民はともかく、通過する人々にとっては厳しい遠回りの道となり、
その新道の効果を十分に発揮することなく、わずか二〇年余りの後、明治四十三年に、
原坂峠を貫通した鹿ヶ瀬隧道を通る津木回りの県道に取って替わられた。



由良洞隧道 トンネル内

由良町誌より

○由良洞隧道
現在の県道「御坊由良湯浅線」にあり、
当町阿戸から日高町池田に抜ける全長一三八・四メートルの隧道。
明治の県道「熊野街道」を由良回りに誘致したとき貫通したもので完成は明治二十一年・
工事には囚人なども動員されたと言われ、当時は郡内でも類を見ない早期の設置であった。
トンネル内の路面は石畳で舗装(現在は完全舗装)され、
近年まで御坊方面に通行するための重要な役割を担っていたが、
昭和四十年の国道開通により、通行量も激減し、現在ではほとんど人通りも絶えている。



由良洞隧道(日高町側)

「由良町誌こぼればなし」より引用
28 明治の熊野街道

由良の近代史の目玉は、石灰石の採掘と埋め立て、
そして由良に道(鉄道も)を通すことである。
古代からの熊野街道は、鹿ヶ瀬(ししがせ)峠を越え、八〇〇年の長い間由良をかすめて通った。
明治に入ると、囚人なども動員して大改修に努めているが、何せ難路のため、
新時代の新ルートとして、由良地区を通る道路が決定された。
しかし正確な時期や背景は明らかでない。

それは、南広村の殿から水越峠をこえ、畑・中・門前・里・阿戸を経て
由良洞(どう)(トンネル)を抜け、池田におりる県道であった。
(国道四ニ号線のため、水越峠の近くにかなりの旧道を遺しているが、畑地区の山道は寸断された)


『蓮専寺記録四』には「道修ノ義ハ廿年亥五月二十三日創(はじ)メ」とあり、
明治二十年(一八八七)に工事が始まった。
阿戸区の『御達留』によると、同年六月二日にこの道路が登場する。
「鹿ヶ瀬転換(てんかん)道路」と書かれており、
鹿ヶ瀬街道に換(か)わる道なんだという意義が強くこめられていた。

この日、里村外五ヶ村戸長湯森好助が「道路開修工事」について臨時連合村会を開くことを、
連合村会議員に通達したものであった。
その後十一月の通知によると、道路の開設に当り、
地域の人々の無料奉仕(労働人夫)、寄付金を募ることを申し合わせていたことがわかる。
資力のある者は金で、力のある者は人夫として参加しようと呼びかけていたようだが、
実態は明らかではない。


工事は一年半で完成した。
『蓮専寺記録』によると、「(明治)二十二年一月二出来致(できいたし)、
即(すなわち)阿戸坂ノ洞(どう)亦(また)然り、然ルニ開道式ハ同年三月十一日也、
是(これ)当地二テハ前代未曾有の介(かい)集ナリ」とあり、
由良小学校の「沿革誌」には、
三月中旬開道式のために、学校の机腰掛等が使用されたので、数日間休業したこと、
「サレド本郡西北二僻在セシ本村も、ソノ面目ヲ改ムルノ動機ヲ得タルモノトイフベシ」とある。
このような心境で工事を見守っていた人々も多かったろう。

阿戸坂のトンネルの、由良側の入口の上に掲げられた「由良洞」の文字は、
由良守応(もりまさ)の揮毫といわれる。
由良に熊野街道を通した背景に彼の尽力もあったように思う。


しかし、この県道の寿命は長くはなかった。
守応も明治二十七年に死去している。
「長い坂道が二ヶ所もあり、しかも迂廻(うかい)甚(はなは)だしい」という理由で、
明治四十二年(一九〇九)頃から鹿ヶ瀬トンネルを抜けて原谷に行く新道に換わられた。
かくて翌年、二十年の短い寿命で由良熊野街道は廃道となった。

しかし、大正末期紀勢西線の鉄道が南下してくると、
最南端の駅へ連絡する自動車(日の出自動車KK)がこの道を通り、箕島や湯浅へ走った。
また石灰石を満載した馬力(ばりき)車の通る産業道路として生き続けた。

(注)由良守応揮毫と伝えられる「由良洞」の石板が、トンネル改修工事の頃から、
行方知れずになっています。心当たりの方はどうか教えて下さい。

町誌編集委員 *〇〇〇〇 *個人名なので割愛


★文中に登場した由良守応について
「由良町誌こぼればなし」に掲載がありましたので引用させて頂きます。

神坂次郎氏“由良守応”を小説に

和歌山市在住の作家神坂(こうさか)次郎氏が『週刊朝日』の四月十五日発行分から、
由良町門前出身で明治初期、東京で二階建馬車を走らせた“由良守応(もりまさ)”の事を
「走れオムンボス=乗合馬車」として連載されます。

(中略)ここでは作家、神坂次郎の略歴が掲載されています

◎真説由良守応伝

由良守応(もりまさ)。文政十年(一八二七)十二月二十五日、門前村(由良町門前)に
由良弥三兵衛の長男として生れる。
始め弥太次のち源太郎、更に守応と改め、義渓と号した。
他に千里軒など数号を有する。

幼少より文武の志深く、体格もすぐれ六尺豊かな大男であった。
栖原(湯浅町)の郷士菊池海荘が父の弥三兵衛を監督として由良湾を埋め立てた所、
安政の大津波によって流されてしまった。海荘に急を知らせた事が気にいられた。
文武の道にはげみ、馬術が特に勝れていたが、剣術も北辰一刀流免許皆伝となる。


その後、京都にのぼり勤王の公家庭田権大納言重胤につかえ、隠密として活躍した。
そのため陸奥(むつ)宗光、伊藤博文らと親交をもち、明治維新後は新政府に仕え、
明治三年には大蔵省通商大佑になった。
時に四十四才、津田出が開いた友ヶ島の牧場で輸入牛馬の育成、酪農に従事した。

明治四年十一月、大蔵省勧農助の地位で、条約改正のために渡欧の岩倉具視の一行に随行した。
明治六年帰朝後、九月に御馬車掛の長となったが、
運悪く十一月、皇后陛下の馬車が東京芝高輪で転覆し、部下の責任をとって辞職した。
気の短いのと淡白な性格であったのであろう。


明治七年八月、東京浅草雷門~新橋間に
オムンバス(二階建馬車)を走らせ千里軒と称し、江戸っ子を驚かせた。
しかし道がせまいため人身事故を起し、二階建て馬車を禁止され普通の馬車になってしまった。

その後、東京~宇都宮間で営業し富を得たが、
鉄道馬車が盛んになるにつれて乗合馬車が落目となって来たため、
遂に明治十九年、東京の家屋敷を売って家族を由良に帰した。
守応は東京に残り深川東大工町に大日本発動機製造会社を設立したが、時期尚早、失敗し、
明治二十一年九月には由良へ帰って来た。


その後、妻・長男・長男の妻も亡くし、失意の内に明治二十七年三月、
和歌山市内で亡くなった。六十七才であった。

神坂氏は何回も来町され、守応の史料を調査され小説にされます。
由良町の名も高まる事と思います。

(公民館 *〇〇〇〇)*個人名なので割愛


和歌山県ふるさとアーカイブ 由良守応
https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html


今回、旧由良隧道に関する資料を調べて思ったのは、
明治22年に完成したトンネルが、今も現役である事に驚かされます。
和歌山県内でもかなり古いものと思われますが、
先人の由良隧道への思いを知り、大切に残して欲しいと切に思います。

再び深谷隧道から小守地区へ

2018-08-18 21:05:13 | 日記
4/30 この日、天気は良かったのですが、出発時間がお昼過ぎになってしまい
小守まで行くには、厳しいかなぁ?と思ったのですが、思い切って出発しました。

まずは、田辺市鮎川地区から県道221号を合川方面に走りますが、
途中で旧道に逸れて旧深谷隧道を目指します。


旧深谷隧道 鮎川側からの上り坂から西側を写す。
見晴らしが良かったですが、路肩から下を覗き込むと、だいぶ坂を上って来たと感じます。


旧深谷隧道へ近付いています


カーブミラーも残っています


ここからは、あと少しです


旧深谷隧道(鮎川側)に到着


フェンスがあり中に入る事は出来ません


祖國再建と右書きです。


反対側の深谷側からの道です


深谷隧道の深谷側です


真砂久一氏の石碑と深谷隧道


ダムのある合川地区にて 小守地区までは、まだここから17㎞あります


大峯隧道を抜けた先に交差点があり、左折すれば、面川、熊野方面。
熊野から小守方面へ道路があるのですが、災害復旧工事の為、2018年8月現在、通行できません
右折すれば、国道371号を経由して小守方面。

今回は、面川から林道 大熊線を通って小守に行き、帰りは、国道371号を通って
再び大峯隧道に戻ってくるコースを走ります。


林道を上ると眼下に面川(めんがわ)の集落が見えます


山の尾根を通るような感じの林道です


山なみがきれいです


林道から市道に合流しますが、この大熊線を走っている時、初めてイノシシを見ました。
私の少し前を山の斜面から道路に下りてきて、そのまま道路を横断して路肩から
下の斜面に下りて行きました。この時は、かなり心臓がバクバクしました。
イノシシといっても体長1m半位?あったのかなぁ…割と大きなイノシシでしたが、
突然、突っ込んでこられたら…と思うと、携帯も通じない山の中で怖さも感じました。
これまで鹿やサルとは、何度か遭遇しましたが、イノシシは初めてでした。


林道 大熊線との交差点から熊野方面の道路を見ると「通行止め」と看板があります。


しばらく走ると小守の集落に到着。
山間部なので日が暮れるのが、早く感じました。


廃校になった小学校と記念石碑


石碑の裏面には、大塔村立三川第二小学校小守分校 
明治8年(1875年)頃 小守小学校開校社務所を仮校舎にと古老の話
昭和54年(1979年)学校統合のため廃校。と記されていました。


小守分校


この橋を渡った先が、小守集落になります。
ここからは、国道371号を合川方面に川沿いに下ります。


国道371号 五味(ごみ)地区


五味地区には、先程の小守分校の本校 三川第二小学校がありました


五味地区を走る国道371号

そのまま国道371号を合川方面に走り、県道221号から鮎川方面に走り
帰路につきました。今回の走行距離は、104.1㎞
小守地区は、旧大塔村で鮎川(旧大塔村の中心部)から最も遠い地区でしたが、
訪れる事が出来て良かったです。また出発が遅れたので時間も気になりましたが、
何とか日没までに帰って来られて、ホッとしました。



由良町を走る

2018-08-18 15:55:50 | 日記
4/28 GW初日の今日、これまでは、山間部を中心に走って来ましたが、
*紀中方面へ出掛けました。目的地は、海岸線のある由良町です。

*和歌山県は、2つに分けると和歌山県南部の紀南(きなん)と和歌山県北部の紀北(きほく)に
分かれますが、3つに分けると紀北、紀中、紀南になります。
紀中のエリアは、有田市、有田郡、御坊市、日高郡になり、北は紀北、南は紀南です。

まずは、国道42号 田辺西バイパス芳養(はや)ランプから県道199号を走り、
中芳養交差点で県道35号を みなべ町方面に走ります。
比較的、急な坂を上ると峠付近が、田辺市、みなべ町の境界になります。
ここからは、眼下に阪和道を見ながら下り坂になります。
そのまま道なりに進むと、阪和道高架下をくぐり、
国道424号と交差する気佐藤(きさと)交差点に着きます。
すぐ近くには、阪和道みなべICがあり、そこにあるファミマで休憩

ここから国道424号を少し走り、黒潮フルーツラインを走ります。
この道は、農業用道路ですが、1.5車線の走りやすい道ですが、
山の中を走るので坂道が多く、勾配のきつい上り坂の場合、
原付バイクでは、スピード出ません(^^ゞ

黒潮フルーツラインは、ずいぶん昔に一度だけ切目から、みなべまで車で走ったのですが、
今回走った みはらし峠のルートは、初めて走りました。


途中の「みはらし峠」からの眺め 風力発電の風車が見えます。


みはらし峠からの眺め。北側を望む


みはらし峠

みはらし峠からは、下り坂が続きますが、終点で県道30号と交差して
印南町古井で国道425号に合流します。しばらく425号を走り
印南町稲原で県道28号、県道27号、県道25号、再び県道27号から
湯浅御坊道路 御坊IC方面に走ります。
御坊市内からは、県道188号、県道24号と美浜町方面に走ります。


煙樹ヶ浜(えんじゅがはま)から関西電力 御坊火力発電所方面の眺め
煙樹ヶ浜 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%99%E6%A8%B9%E3%83%B6%E6%B5%9C


煙樹ヶ浜から紀伊水道を望む。水平線の向こうは、徳島県
このまま暫く海沿いを走りますが、山の中を走るのも良いですが、
海沿いの道を走るのも気持ちが良いです。
昔、日ノ御崎(日の岬)までは、車で来た事がありますが、
ここから先の日高町方面は、今回初めて走りました。


日高町の県道24号と県道188号の交差付近
セメント舗装の道が何とも味わいがあって良かったです。
また小さな案内標識が現役で活躍しているのも良いです。
ここから由良町までは、あと少しです。


由良町といえば、海上自衛隊の由良基地や大型船のドッグがあります。
この日は、サンフラワーが入港していました。


原付バイクと一緒に撮影
ここから由良町大引まで県道24号を走りましたが、
この先の白崎海岸や広川町、湯浅町方面は、またの機会にしたいと思います。
そして次の目的地である旧由良隧道を目指します。



この旧由良隧道(由良洞隧道)は、初めて通りましたが、トンネルの高さが思ったより低く、
写真では分かりにくいですが、車高の高い車では、恐らく通れないでしょうね(由良町側)


トンネル内は、昔の煉瓦造りの状態が残っていて、一部トンネル下部では、崩れている所や
素掘りの所もあります。また漏水もあり路面には、水たまりもありました。


旧由良隧道は、明治22年開通?ともネットには、ありますが、機会を見て調べてみたいと思います。
このトンネルの歴史的価値は高く、今も現役である事に驚かされます(日高町側)


旧由良隧道と県道23号標識、そして原付バイクを写す。
トンネルを抜け、日高町側を少し走ると眼下には、
国道42号 由良トンネル(現在の由良隧道)から出てきた車両が木々の間から見えますが、
国道側からは、こちらの県道側は木々に覆われ見えません。

そしてくねくねとした細い道を下りながら、熊野古道内原王子神社にて休憩。
この先の萩原交差点で国道42号に合流し御坊市内を走り、来た道を逆に走り
印南町古井まで国道425号を走り、県道30号から黒潮フルーツラインを通らず
そのまま県道30号を走りました。


県道30号は、鶴の湯温泉からみなべ町内に繋がっていますが、初めて通る道でした。


みなべ町で国道424号と合流し、そのまま川沿いに上流部を目指し
先月開通したばかりの面谷(おもだに)トンネルを走りました。

面谷トンネルについて
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/130500/kensetsu/omodani_tonnel_d/fil/omotani_siryoteikyo.pdf


立派な記念碑が建てられています




新トンネル開通後、旧トンネルは通行止めとなりました。


旧トンネルは、車両の対向も難しい狭いトンネルでしたが、
これからは、ひっそりと余生を過ごす事になります。

トンネルを抜けると田辺市上芳養になりますが、
ここから国道42号 田辺バイパス稲成(いなり)ランプを目指し走りました。
今回の走行距離は、173.7㎞。
結構走りましたが、これから機会を見て、海沿いの道も走ってみたいと思います。

田辺市中辺路町 高原熊野神社まで

2018-08-18 10:06:04 | 日記
4/14 この日は、曇り空の天気でしたが、雨の心配は無さそうなので、
お昼過ぎから高原神社を目指しましたが、普通に国道311号を走るのが最短コースですが、
前回行った*熊野下川トンネルの事も気になったので、大回りして行く事にしました。

*熊野下川トンネル坑口(下川側)に大きなハチの巣があったので、
発見した翌日、道路管理者に連絡をしました。

今回は、田辺市鮎川から県道221号から合川に入りました。
ほんの数日前に同じ所を走りましたが、前回は、熊野(いや)→面川(めんがわ)→合川(ごうがわ)と
川を下って来ましたが、今回は、逆のコースで合川から熊野に向けて走ります。


昔ながらの国道371号標識です(合川地区内にて)

熊野からは、トンネルまで林道の上り坂を走りますが、坂が急なので、
原付バイクの場合、あまりスピードが出ません(>_<)
やっとトンネルに到着、トンネルを抜けて下川側に到着。
トンネル坑口を見上げると


前回は、坑口にハチの巣がありましたが…


今回は、既に撤去されていました。おっ~対応が早い!

トンネルを抜けると下川上まで長い下り坂です。
途中、林業関係者の方が伐採した木を索道(さくどう)を使って運び、
林道上に止めたトラックに積み込んでいました。
車なら通れませんが、原付バイクなら横をすり抜けて通れます。
こんな急な斜面で、林業の仕事をされている事に凄いなぁと感心します。

そして下川上から平瀬、大内川を走り地蔵峠を越えて石船(いしぶり)の集落を走ります。


国道371号から見る林道竹ノ又坂又線の看板


林道竹ノ又坂又線の入口。ここから竹ノ又(下川下方面)に行けますが、
全線舗装路なら走って見たいとも思いますが…


林道政城線。この道は、地図の上では、逢坂峠方面まで行けるのですが、
ここも全線舗装路なら走って見ようかなぁ?と思っています。


地蔵峠近くにある国道371号標識

石船の集落から下谷トンネルを抜け、川沿いに進めば、国道311号と交差する
滝尻(たきじり)に出ますが、国道311号へは出ないで、下谷トンネルを抜けて、
すぐに右折して高原(たかはら)方面へ走ります。下谷トンネル手前で右折しても行けます。
細い上り坂の道を暫く走ると、高原の集落に着きます。


霧の里無料休憩所の駐車場から集落を写す。遠くの山々は、果無(はてなし)山脈。
何となく果無という名前が気に入っています(^^ゞ


駐車場のすぐ下には、水車があります


熊野古道の案内図があります。ここから近露方面に古道があります


駐車場の近くには、高原熊野神社があります


高原熊野神社の鳥居


神社の社殿


大きな楠の木が力強く感じます


ナギの木について紹介文があります。
熊野地方では、神木とされています。以前、白浜の熊野三所神社でも「ナギ」の木を見ました。

高原からの帰り道は、駐車場脇にある自動車は、通れないような細い道を原付バイクで下りました。
道は、セメント舗装されていますが、坂は急でしたが、
高原から栗栖川(くりすがわ)へは、最短のルートのようです。

今回の走行距離は、96.0km
帰り道、いつもお世話になっているバイクショップでオイル交換をしました。
この先、林道を走る事も考えてみたいのですが、舗装路なら走ってみたいです。

百間山(ひゃっけんざん)方面と西大谷を走る

2018-08-11 10:00:55 | 日記
4/10 田辺市鮎川から県道219号を経由して下川(しもかわ)下に入り、
下川上から熊野(いや)への道を初めて通りました。


下川上から熊野へは、小川沿いに林道熊野下川線を走りますが、長い上り坂が続きます。


以前、平瀬地区から見えた「乙女の寝顔」の現在地(喉元付近)にいる事がわかりました。


平瀬地区から見える「乙女の寝顔」


写真中央付近の山の中にいる事が、何となく分かりました。


半作嶺下にある熊野下川トンネルに到着


トンネル坑口に大きなハチの巣がありました。どうして?こんな所に?と思いましたが、
ハチが飛んでいる様子は、見えませんでした。ただ危ないので、後日、道路管理者に連絡しました。


熊野下川トンネル 1998年9月開通 延長430m


トンネルを抜けると熊野まで下り坂が続きます。


ここで百間山方面への道路と合流します


百間山渓谷の案内図があります。
ずいぶん昔、この近くにあった かもしか牧場へ来て以来となります。


ここから先は、小守方面への道が繋がっていたのですが、
平成23年9月の台風第12号による、大規模な山腹崩壊のため通行止めが続いています。

http://www.city.tanabe.lg.jp/kouhou/kankoubutsu/files/h23t12-w2-1.pdf


百間山入口の熊野(いや)地区から川を下ります。面川地区


面川(めんがわ)地区にある三豊(さんぽう)神社


神社へは、この吊り橋(宮前橋)を渡ります。


三豊神社の鳥居


大塔村指定文化財 三豊神社の大杉。立派な大きな杉の木があります。


面川地区を望む


おっ~。素掘りのトンネルだぁ


国道371号との交差点にある観光案内標識


同交差点にある標識。ここから合川(ごうがわ)方面に走ります。


ダム湖に架かる橋


2015年3月に閉校した田辺市立三川小学校


かつては、子供たちが走り回ったであろう校庭


ブランコの周りも寂しい限りです。


合川ダムのダム湖


ダム湖


三川橋を渡り左折すれば、鮎川方面、右折すれば、向山から下川下方面


三川橋のたもとには、日向金三郎頌徳碑が建っています。
この方は、昭和19年(1944年)5月、当時の三川村村長に就任され
昭和21年(1946年)12月、村長退任と古賀寛氏の著書「深谷隧道物語」に記載されています。


先程の三川橋を渡り、向山から西大谷に向けて走りました。
西大谷の集落の入口には、西大谷乳大師に関する看板があります。


乳大師さん?かなぁ…と思うのですが、近くに案内標識や名前を示すものが見当たりませんでした。


鳥居をくぐり境内へ


境内の脇には、小さな川が流れています。


ここからは、林道西大谷合川線を走ります。
この時は、合川まで繋がっているものと思っていました。


最初のうちは、舗装された林道でした。


やがてデコボコ道になりましたが、まだ比較的、走りやすかったです。


まさに林道です。


おっ~ 林業関係者?かなぁ…車が見えました


林道から集落が、眼下に見えます


材木の搬出作業をしていました。が、この先は、行き止まりになっていました(T_T)
えっ?ここまで上って来たのに…と思いましたが、事前の下調べを怠ったので仕方ありません。
ここから再び、下川下へ戻り、県道219号から鮎川から白浜へ走りました。
走行距離 98.9km 思ったよりも走ったなぁ~と感じました。

今回、普通の原付バイクで、デコボコの林道を走り大変疲れてしまいました。
これを機に、舗装されていない林道を走るのは、控えようと思い、
また出来るだけ事前の下調べの大切さを感じました。