2021年3月14日、今回は、和歌山県由良町の白崎海岸から、海沿いに広川町まで走り、
広川町の西広海岸から、たちばな支援学校前までの海沿いの道を初めて走りました。
広川町は、これまでに何度も来ていますが、由良町から来た場合、広川ビーチ駅前の
県道24号線を通っていたので、今回違う道を選んで良かったです。
再び国道42号に戻り、有田市宮原町から海南市下津町までの山越えルートを初めて走りました。
前回は、下津町の海岸線でしたが、今回は、熊野古道も通る山間部を走りました。
大昔の人は、この熊野古道を歩いていましたが、
原付バイクだと少々狭い道でも走れる上、坂道でも楽に?登れます。
ただ、昔の人は、このような山の峠道を、いくつもいくつも越えて行かなければ、
目的地へ行けなかったので、昔の旅って本当に大変だっただろうなぁ~と感じます。
主なルートは、国道42号→県道24号線→由良町 白崎海岸→県道24号線→
広川町 西広海岸→国道42号→有田市 紀伊宮原駅→県道164号線→下津町小畑→
県道165号線→長保寺→国道42号→白浜
表示のルート地図は、概略になります。
今回の走行距離は、約210㎞です。
由良町の白崎海岸
道の駅 白崎海洋公園は、観光客で混雑していたので、今回は、素通りしました。
広川町 西広海岸
とても遠浅な海岸です。
西広海岸から沖合の紀伊水道を望む
県道164号線 JR紀伊宮原駅周辺の商店、住宅地を抜けると、ひたすら山を登ります。
眼下には、有田川が流れ手前の住宅地は、JR紀伊宮原駅周辺
住宅地の中は、アスファルト舗装でしたが、山に登ると道も狭くなりセメント道に変わります。
農道といっても良いと思いますが、県道になります。
写真の右側から左下へ交差する道が、熊野古道になります。
熊野古道の案内標識
爪かき地蔵お堂
爪かき地蔵について説明書きがあります。
爪かき地蔵
この堂は、古く遍照山金剛寺と称し、境内周囲八〇間二間の堂のみ存すと『続風土記』に見られる。
四米余の自然石に阿弥陀と地蔵とを線刻する。
室町時代の作であろうか弘法大師が爪で描いたという説話が伝えられている。
熊野古道にあたる蕪坂(かぶらさか)の中腹にあり、旅人の疫病を癒すといわれた。
永禄六年(1563年)岩室城主畠山政能の堂宇修理料寄進の文書が伝わっている。
平成元年九月 有田市教育委員会
原文通りに書きましたが、読めない漢字もありますが、
何だか凄いんだなぁ~という事は、わかりました(^^ゞ
熊野古道の歴史の古さを感じると共に、
このような文化遺産が、比較的近い所に遺されている事に驚かされます。
爪書地蔵(つめかきじぞう)
幅四mあまりの自然石に阿弥陀仏と地蔵菩薩を線刻した彫像で、
今は、この方二間の堂内(金剛寺:こんごうじ)に安置されている。
いつ、だれが刻んだかは不明で俗に「弘法大師の爪書地蔵」と呼ばれている。
最も古い記録に現れるのは、永禄六(1563)年のことで、
地元畑村の人々が堂の修理を行った際、領主畠山(はたけやま)氏より
一反分の年貢を永代免除(えいたいめんじょ)とする書状が地元にのこされており、
少なくとも室町時代の中頃までには、すでに存在していたものと思われる。
古道沿いに位置する事から、旅人の病を癒し、
道中の安全を祈念するために、いつしか刻まれたことは容易に想像できるものである。
古くから多くの旅人を見つめてきたことであろう。
こんな山の上にも、人々の暮らしがある。
山間部を走っていると思う事ですが
「普段の買い物とかも大変なんちゃうかなぁ~」と思ってしまいます。余計なお世話かな?
太刀の宮(たちのみや)
平仮名だと「立ち飲み屋」と同じになってしまう事に、おかしかったです(失礼)
太刀の宮(たちのみや)縁起
この宮は、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祭る小社であるが、
その昔、元和(げんな)の始め(1615)大坂夏の陣の砌(みぎり)、
当有田市野(の)に在った宮崎城主 宮崎隠岐守定秋(みやざきおきのかみさだあき)の三男
宮崎三郎右衛門定直(さぶろううえもんさだなお)は泉州谷川(たがわ)に住していた処、
真田幸村(さなだゆきむら)の招きに応じ大坂城に入り秀頼(ひでより)の旗下に属していたが、
淀君(よどぎみ)の思召宜(よろ)しからず、依て夜陰に紛れて城を脱出、
宮原の荘に在る姉婿 則岡勘解由左衛門(のりおかかげゆざえもん)を頼って道を急ぐ。
この祠の前まで来ると日も暮れ、暫く休息しようと腰を下ろすと、
疲労の余り不覚にも寝入ってしまった。
夢現(ゆめうつつ)の中に追手迫り来り襲いかかる。
防ごうと思うが身体自由にならず、最早これまでと思う時、
腰の太刀自然と抜け出し、大勢の相手を切倒す。
夢は醒め辺りを見ると、死人数多く太刀は二ツに折れている。
不思議に思い、太刀を拾い上げると元の如く繋がった。
定直は今見た現実の正夢にあらたかな神明の加護と剣の威徳に恐れ畏(かしこ)み、
早速その刀を「折継丸(おれつぐまる)」と名付け、この祠に奉納した。
その後、里人等この祠を「太刀の宮」と称えるようになり、
病気平癒や災難除けの祈願をするたびに、木刀を奉納する習慣となり今日に至っている。
宮崎直定は泉州へ帰らず、則岡宅に閑居、元和五年36歳にて病没す。
墓碑は宮原町新町井山の中腹に現存している。
平成11年3月 有田市教育委員会
熊野古道は、歴史文化の宝庫だなぁ~と実感します。
ただ案内板からの文字起しするのが、大変やった(ノД`)・゜・。
最初、写真だけ載せて終わるつもりでしたが、なぜか?
何となく書いた方がええんちゃうん?という思いに駆られ文字起ししました。
もし何かのお役に立てば、光栄ですけどね。
ひたすら上り坂だった県道164号線(沓掛糸我線)も、いよいよ峠に差し掛かります。
ここで、有田市宮原畑地内と海南市下津町小畑地内との境界線になります。
軽トラ以上の大きな車では、走行が難しいと思います。
この先の斜面には、ガードレールが無い区間もあるので、
小さな軽自動車または、原付で走るのが良いかと思います。原付ええわぁ~(笑)
境界付近にあるお地蔵さま。
熊野古道だけに多くの旅人を見守って来たのかも知れませんね。
坂を上って、この峠を越えたら、今度は、下り坂。
しかし峠という漢字。山の上、下って上手く表しているなぁ~と今さらながら感心。
眼下には、海南市下津町の町並みが見えます。
またまた石碑が…
細いセメント道が続きましたが、ここからやっとアスファルト道。
しかも道幅が少し広くなって走りやすい
県道165号線
下津町小畑の集落
県道は、こっち!と主張しているようです(笑)
最近、この手の県道案内標識は、少なくなりました。
下津町小畑の集落。山の上に向かって家が建っています。
木製の電信柱。イヤぁ~懐かしい。まだ有るんですね。
しかも現役?私が子供の頃は、まだ木製の電柱がありましたが…
山から下りてくると大きなお寺 長保寺(ちょうほうじ)
名前は、国道42号の交差点名(長保寺入口交差点)にもなっているので、
知ってはいましたが、実際に来たのは初めてです。
えっ!この山門が国宝??
国宝?かなり驚きました。
国宝多いなぁ~
和歌山県内に7つの国宝建造物がある事を、このポスターを見て、初めて知りました。
そのうち3つが、ここ長保寺にあります。メチャびっくりΣ( ̄□ ̄|||)でした。
和歌山県内にある国宝建造物は、以下の通りです。
名称 種別1 時代 所在地
金剛三昧院多宝塔 国宝 鎌倉前期 和歌山県伊都郡高野町大字高野山
金剛峯寺不動堂 国宝 鎌倉前期 和歌山県伊都郡高野町大字高野山
根来寺多宝塔(大塔) 国宝 室町後期 和歌山県岩出市根来
善福院釈迦堂 国宝 鎌倉後期 和歌山県海南市下津町梅田
長保寺多宝塔 国宝 室町前期 和歌山県海南市下津町上
長保寺大門 国宝 室町前期 和歌山県海南市下津町上
長保寺本堂 国宝 鎌倉後期 和歌山県海南市下津町上
高野山にあるのは、何となく想像つきますが、
長保寺には、3つもあるなんて💦💦スゴイです。
長保寺パンフレットより
長保寺パンフレット裏面
長保寺について
う〜ん、何となくわかるなぁ(^^ゞ
本堂への階段
境内では、ミカンの無人販売が行われていました。
ミカンが販売されていますが、私は、これを見た瞬間「懐かしい~」と思いました。
多分、和歌山生まれ、和歌山育ちの40代以上の方なら、ご存知かも?
そうです。イズミヤパンです。
子供の頃、近くのお店でも売っていたので、とても懐かしく思い出されます。
残念ながらイズミヤパンは、1997(平成9)年に廃業したそうですが、懐かしい!
和歌山経済新聞にイズミヤパンについて記事があったので引用します。
ぼんやりとした記憶ですが、イズミヤパンのCMソングが思い出されます。
最後の部分の♪イズミヤパ~ン。
気になってYouTubeで探しましたが、昔の音源でのCMは、見当たりませんでした。残念
最後に長保寺駐車場から先程、山から下りてきた方向を写す
旅をすると色んな発見があります。
ちょっと回り道するだけで、違った風景、初めて見る景色に、心がワクワクします。
しかも原付バイクなら、ほぼどこでも止められるし、狭い道でも入っていけます。
原付バイクの旅は、これからも続けて行きたいです。
今回、長保寺に国宝が3つもある事は、驚きですが、
私の中での個人的な国宝は、やはり「イズミヤパン」との出会いですね。
イズミヤパン、ええわぁ(^^♪
次回は、このあと海南市下津町からの帰りに立ち寄った
有田市初島町を紹介出来ればと思っています。