どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

中之条町ナンバーの原付50㏄バイク

2021-03-31 12:46:41 | 日記
今日(3/31)日中は、ポカポカと暖かく桜もキレイに咲いています。
ここ最近、原付バイクでの遠出が出来ていませんが、
近所(白浜・田辺)へは、チョコチョコ乗っています。
そんな田辺市での買い物を終えて白浜への帰り道、前を走る
中之条町ナンバーの50㏄原付バイクを見掛けました。

中之条町?私には、全くピンと来なくて
「一体どこなんやろう?」とネットで調べてみると
群馬県吾妻郡中之条町と出てきたので
「えっ?群馬から原付で来たの??スゴイ!!」と一人で興奮していました。
あっ…声を掛けるべきだったかなぁ(^^ゞ

その方の原付の後ろに、お遍路さんが被る竹で編んだ笠が載っていたので
「どこかへお詣りされるのかなぁ?」
ただ遠出を楽しむツーリングとは、少し事情が違うなぁ?と
色々思いを巡らせましたが、それでも原付で群馬から和歌山まで来られたとは(;^ω^)
私自身、大いに刺激を受けました。
私は、まだ関東圏へは、原付で行った事はありませんが、
いつかは、全国47都道府県を原付バイクで走りたい!という願望はあります。

有田市初島町(旧:椒(はじかみ)村)の旧東亜燃料工業株式会社の石油施設

2021-03-16 13:00:06 | 日記
前回の続きになりますが、有田市初島町を走って来ました。


JR初島駅

初島観光案内図

大きな石油タンク



この中に椒(はじかみ)古墳があります

工場入口にあるENEOSの看板

工場全体を見ようと山道を登ります











こんな所にトンネルが

第二御殿山隧道 昭和31年秋

パイプがいっぱい

トンネルの向こうは、港と繋がっているのかなぁ?






有田市史より 東亜燃料工業株式会社について

昭和42年度和歌山県工業調査によると、有田市の石油出荷額は722億1084万円で、
有田市工業総出荷額の実に82%余りを占めている。
この出荷額は、東亜燃料工業株式会社和歌山工場1社によるものであるから、
歌山工場は、有田市工業生産における巨大さを如実に示している。

東亜燃料工業株式会社は、国際情勢の緊迫した昭和14年7月5日、
国家の要請によって、わが国石油業界大手10社の共同出資で創立された。
会社創立に先がけて行われた工場建設地選定は、
①京阪神に近く、
②下津港の良港に接していること、
③有田川から豊富な工業用水が得られるなどの
地理的条件によって有田市初島地区が選ばれたが、
33万平方メートル余りの工場用地買収は容易にまとまらず、
小学校講堂へ135名の地主を罐詰(かんづめ)にして、
憲兵が監視するなかで徹夜交渉が行われ、
ようやく3.3平方メートル(1坪)あたり平均7円77銭で買収交渉が成立した。

昭和14年8月より工場建設が始まり、
昭和16年5月頃より相次いで蒸留装置が完成し石油精製が開始された。
高オクタン価の航空揮発油並びに高級潤滑油の製造がこの工場の主なる目的であった。
太平洋戦争の激化とともに建設資材は意のごとく入手できなかったが、
軍部の強い要請で製油装置の増設が続けられた。

昭和19年の末ごろから原油が途絶し、製油装置が完成しても稼働できない状態が続くなど、
工場の全機能をあげて生産に入らないうちに、
昭和20年7月28日の空襲で壊滅的被害を受け、間もなく敗戦となった。

無条件降伏によって、我が国はあらゆる面において、大きな打撃を受けた事は言うまでもないが、
需給の一切を占領軍の支配下におかれた石油業界は、とりわけ苦しかった。
特に、全面的に操業を停止された(昭和21年9月)太平洋岸製油所は、深刻な危機に追い込まれた。
当然、会社は、従業員の人員整理を行うと共に製氷・電気製塩・農業用石灰・印刷インキ・消しゴム・石鹸・
はては鋤(すき)・鍬(くわ)などの農具の製作まで行って会社の維持存続を図った。

終戦後、連合軍は日本の軍事力を除去する政策を取り、
石油製造を極度に抑えようとして製油装置を賠償対象物としたり、
石油工場のスクラップ化を勧告したりして、
我が国石油業界の前途をすこぶる暗くしていたが、
中国における共産革命が成功し、共産主義勢力の攻勢に対応するため占領政策も、
我が国の経済復興と自立化を進める方向に転換した。

昭和24年7月4日、連合軍総司令官マッカーサーは「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明を発表し、
7月13日には、日本の太平洋岸製油所復旧と原油輸入、製油所再開を許可する覚書も発表された。
この覚書が発表されると、直ちに工場の整備が進められ、
昭和25年4月には、まず常圧蒸溜装置が操業を開始し、その他の製油装置も次々に完成された。
この工場が意外に早く復興を完成したのは、
いち早くアメリカの石油会社スタンダード・ヴァキュム・オイル・カンパニーと提携し、
資金と技術などを導入したからであろう。
現在172万平方メートル余りの工場面積を持ち、
更に海岸の埋立が続行中で、一大石油基地が近い将来出来るのではないかと観測されている。

有田市史より

東亜燃料工業株式会社は、現在のENEOS株式会社和歌山製油所にあたります。
有田市初島町(当時は、椒村(はじかみむら))に出来た経緯を知る事が出来ました。
紀勢本線で天王寺(大阪)方面に行く時、車窓から見えるこのコンビナートの光景に
「どうして、ここに、こんな大きな施設が出来たんだろう?」という疑問を持っていた事もあり、
県立図書館で調べてみました。

その原点になったのは、今から約100年前(昭和元年:1926年)に発生した
連続殺人事件「おりゅう・とらゑ事件」に関する資料との出会いでした。
この事から、当時の椒村(はじかみむら)を調べるにあたり、
東燃のコンビナートへと繋がって来ました。
今では、和歌山製油所構内にある椒古墳(はじかみこふん)だけが、
椒の歴史を語る数少ない遺構となっています。

また有田市史以外にも、初島町史も調べました。
初島町史には、下津港がなぜ良港なのかについて解説があります。
「下津港は、石油基地としての条件を備えた港であり、
大型タンカー接岸には欠く事の出来ない水深は、干潮時でも15mに及ぶもので、
奥深く入り込んだ湾型など日本屈指の天然良港の呼名が高い」との文面を読み
なるほどなぁ~と理解しました。

このような事から、石油基地が出来る前の椒村は、
農業と漁業の小さな村だったんだろうなぁ…という事が推測出来ます。
その土地を国家の命によって、計画を進め用地買収をしたのですが、
憲兵が監視するという、今では考えられない
当時の時代背景を物語っています。

また戦後の困難な状況下において、本業とは関係のない農機具の製造を行うなど
会社を維持しようと懸命な様子が伝わってきます。

実際に現地を見て、資料で当時の歴史を知るというのは、とても勉強になります。
さぁ今度は、どこへ行こうかなぁ(^^ゞ

由良町白崎海岸から広川町西広海岸、有田市宮原町から海南市下津町への山越えツーリング

2021-03-15 10:06:11 | 日記
2021年3月14日、今回は、和歌山県由良町の白崎海岸から、海沿いに広川町まで走り、
広川町の西広海岸から、たちばな支援学校前までの海沿いの道を初めて走りました。
広川町は、これまでに何度も来ていますが、由良町から来た場合、広川ビーチ駅前の
県道24号線を通っていたので、今回違う道を選んで良かったです。

再び国道42号に戻り、有田市宮原町から海南市下津町までの山越えルートを初めて走りました。
前回は、下津町の海岸線でしたが、今回は、熊野古道も通る山間部を走りました。
大昔の人は、この熊野古道を歩いていましたが、
原付バイクだと少々狭い道でも走れる上、坂道でも楽に?登れます。
ただ、昔の人は、このような山の峠道を、いくつもいくつも越えて行かなければ、
目的地へ行けなかったので、昔の旅って本当に大変だっただろうなぁ~と感じます。

主なルートは、国道42号→県道24号線→由良町 白崎海岸→県道24号線→
広川町 西広海岸→国道42号→有田市 紀伊宮原駅→県道164号線→下津町小畑→
県道165号線→長保寺→国道42号→白浜

表示のルート地図は、概略になります。
今回の走行距離は、約210㎞です。


由良町の白崎海岸

道の駅 白崎海洋公園は、観光客で混雑していたので、今回は、素通りしました。

広川町 西広海岸

とても遠浅な海岸です。

西広海岸から沖合の紀伊水道を望む

県道164号線 JR紀伊宮原駅周辺の商店、住宅地を抜けると、ひたすら山を登ります。
眼下には、有田川が流れ手前の住宅地は、JR紀伊宮原駅周辺

住宅地の中は、アスファルト舗装でしたが、山に登ると道も狭くなりセメント道に変わります。
農道といっても良いと思いますが、県道になります。
写真の右側から左下へ交差する道が、熊野古道になります。

熊野古道の案内標識

爪かき地蔵お堂

爪かき地蔵について説明書きがあります。

爪かき地蔵
この堂は、古く遍照山金剛寺と称し、境内周囲八〇間二間の堂のみ存すと『続風土記』に見られる。
四米余の自然石に阿弥陀と地蔵とを線刻する。
室町時代の作であろうか弘法大師が爪で描いたという説話が伝えられている。
熊野古道にあたる蕪坂(かぶらさか)の中腹にあり、旅人の疫病を癒すといわれた。
永禄六年(1563年)岩室城主畠山政能の堂宇修理料寄進の文書が伝わっている。

平成元年九月 有田市教育委員会

原文通りに書きましたが、読めない漢字もありますが、
何だか凄いんだなぁ~という事は、わかりました(^^ゞ
熊野古道の歴史の古さを感じると共に、
このような文化遺産が、比較的近い所に遺されている事に驚かされます。


爪書地蔵(つめかきじぞう)
幅四mあまりの自然石に阿弥陀仏と地蔵菩薩を線刻した彫像で、
今は、この方二間の堂内(金剛寺:こんごうじ)に安置されている。
いつ、だれが刻んだかは不明で俗に「弘法大師の爪書地蔵」と呼ばれている。
最も古い記録に現れるのは、永禄六(1563)年のことで、
地元畑村の人々が堂の修理を行った際、領主畠山(はたけやま)氏より
一反分の年貢を永代免除(えいたいめんじょ)とする書状が地元にのこされており、
少なくとも室町時代の中頃までには、すでに存在していたものと思われる。
古道沿いに位置する事から、旅人の病を癒し、
道中の安全を祈念するために、いつしか刻まれたことは容易に想像できるものである。
古くから多くの旅人を見つめてきたことであろう。






こんな山の上にも、人々の暮らしがある。
山間部を走っていると思う事ですが
「普段の買い物とかも大変なんちゃうかなぁ~」と思ってしまいます。余計なお世話かな?


太刀の宮(たちのみや)
平仮名だと「立ち飲み屋」と同じになってしまう事に、おかしかったです(失礼)

太刀の宮(たちのみや)縁起
この宮は、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祭る小社であるが、
その昔、元和(げんな)の始め(1615)大坂夏の陣の砌(みぎり)、
当有田市野(の)に在った宮崎城主 宮崎隠岐守定秋(みやざきおきのかみさだあき)の三男
宮崎三郎右衛門定直(さぶろううえもんさだなお)は泉州谷川(たがわ)に住していた処、
真田幸村(さなだゆきむら)の招きに応じ大坂城に入り秀頼(ひでより)の旗下に属していたが、
淀君(よどぎみ)の思召宜(よろ)しからず、依て夜陰に紛れて城を脱出、
宮原の荘に在る姉婿 則岡勘解由左衛門(のりおかかげゆざえもん)を頼って道を急ぐ。

この祠の前まで来ると日も暮れ、暫く休息しようと腰を下ろすと、
疲労の余り不覚にも寝入ってしまった。
夢現(ゆめうつつ)の中に追手迫り来り襲いかかる。
防ごうと思うが身体自由にならず、最早これまでと思う時、
腰の太刀自然と抜け出し、大勢の相手を切倒す。
夢は醒め辺りを見ると、死人数多く太刀は二ツに折れている。
不思議に思い、太刀を拾い上げると元の如く繋がった。

定直は今見た現実の正夢にあらたかな神明の加護と剣の威徳に恐れ畏(かしこ)み、
早速その刀を「折継丸(おれつぐまる)」と名付け、この祠に奉納した。
その後、里人等この祠を「太刀の宮」と称えるようになり、
病気平癒や災難除けの祈願をするたびに、木刀を奉納する習慣となり今日に至っている。

宮崎直定は泉州へ帰らず、則岡宅に閑居、元和五年36歳にて病没す。
墓碑は宮原町新町井山の中腹に現存している。

平成11年3月 有田市教育委員会

熊野古道は、歴史文化の宝庫だなぁ~と実感します。
ただ案内板からの文字起しするのが、大変やった(ノД`)・゜・。
最初、写真だけ載せて終わるつもりでしたが、なぜか?
何となく書いた方がええんちゃうん?という思いに駆られ文字起ししました。
もし何かのお役に立てば、光栄ですけどね。





ひたすら上り坂だった県道164号線(沓掛糸我線)も、いよいよ峠に差し掛かります。
ここで、有田市宮原畑地内と海南市下津町小畑地内との境界線になります。
軽トラ以上の大きな車では、走行が難しいと思います。
この先の斜面には、ガードレールが無い区間もあるので、
小さな軽自動車または、原付で走るのが良いかと思います。原付ええわぁ~(笑)





境界付近にあるお地蔵さま。
熊野古道だけに多くの旅人を見守って来たのかも知れませんね。
坂を上って、この峠を越えたら、今度は、下り坂。
しかし峠という漢字。山の上、下って上手く表しているなぁ~と今さらながら感心。


眼下には、海南市下津町の町並みが見えます。



またまた石碑が…





細いセメント道が続きましたが、ここからやっとアスファルト道。
しかも道幅が少し広くなって走りやすい

県道165号線

下津町小畑の集落

県道は、こっち!と主張しているようです(笑)

最近、この手の県道案内標識は、少なくなりました。

下津町小畑の集落。山の上に向かって家が建っています。



木製の電信柱。イヤぁ~懐かしい。まだ有るんですね。
しかも現役?私が子供の頃は、まだ木製の電柱がありましたが…

山から下りてくると大きなお寺 長保寺(ちょうほうじ)
名前は、国道42号の交差点名(長保寺入口交差点)にもなっているので、
知ってはいましたが、実際に来たのは初めてです。





えっ!この山門が国宝??



国宝?かなり驚きました。



国宝多いなぁ~
和歌山県内に7つの国宝建造物がある事を、このポスターを見て、初めて知りました。
そのうち3つが、ここ長保寺にあります。メチャびっくりΣ( ̄□ ̄|||)でした。
和歌山県内にある国宝建造物は、以下の通りです。

名称 種別1 時代 所在地
金剛三昧院多宝塔 国宝 鎌倉前期 和歌山県伊都郡高野町大字高野山
金剛峯寺不動堂 国宝 鎌倉前期 和歌山県伊都郡高野町大字高野山
根来寺多宝塔(大塔) 国宝 室町後期 和歌山県岩出市根来
善福院釈迦堂 国宝 鎌倉後期 和歌山県海南市下津町梅田
長保寺多宝塔 国宝 室町前期 和歌山県海南市下津町上
長保寺大門 国宝 室町前期 和歌山県海南市下津町上
長保寺本堂 国宝 鎌倉後期 和歌山県海南市下津町上

高野山にあるのは、何となく想像つきますが、
長保寺には、3つもあるなんて💦💦スゴイです。

長保寺パンフレットより

長保寺パンフレット裏面

長保寺について

う〜ん、何となくわかるなぁ(^^ゞ

本堂への階段



境内では、ミカンの無人販売が行われていました。

ミカンが販売されていますが、私は、これを見た瞬間「懐かしい~」と思いました。
多分、和歌山生まれ、和歌山育ちの40代以上の方なら、ご存知かも?
そうです。イズミヤパンです。
子供の頃、近くのお店でも売っていたので、とても懐かしく思い出されます。
残念ながらイズミヤパンは、1997(平成9)年に廃業したそうですが、懐かしい!
和歌山経済新聞にイズミヤパンについて記事があったので引用します。
ぼんやりとした記憶ですが、イズミヤパンのCMソングが思い出されます。
最後の部分の♪イズミヤパ~ン。
気になってYouTubeで探しましたが、昔の音源でのCMは、見当たりませんでした。残念

最後に長保寺駐車場から先程、山から下りてきた方向を写す

旅をすると色んな発見があります。
ちょっと回り道するだけで、違った風景、初めて見る景色に、心がワクワクします。
しかも原付バイクなら、ほぼどこでも止められるし、狭い道でも入っていけます。
原付バイクの旅は、これからも続けて行きたいです。

今回、長保寺に国宝が3つもある事は、驚きですが、
私の中での個人的な国宝は、やはり「イズミヤパン」との出会いですね。
イズミヤパン、ええわぁ(^^♪

次回は、このあと海南市下津町からの帰りに立ち寄った
有田市初島町を紹介出来ればと思っています。

海南市下津町へのツーリング

2021-03-09 20:29:03 | 日記
2021年3月9日、今回は、和歌山県北部の海南市下津町(大崎、塩津、戸坂の各地区)を訪ねました。
これまで下津町は、国道42号を走って通過するのみでした。
そのため初めて下津町の海岸線を走る事が出来たので、とても新鮮な気持ちでした。
まだまだ和歌山県内、行った事のない場所がたくさんありますので、
これからも可能な限り、各地を旅したいと思います。

主なルートは、国道42号→海南市下津町→県道167号線→国道42号→白浜

表示のルート地図は、概略になります。
今回の走行距離は、約220㎞です。


海南市下津町大崎地区

大崎地区は、入り江になっています

入り江から沖合を望む

入り江の奥側を望む

波が穏やかな感じで、素敵な良港ですね。

山側の斜面に住宅が建つ漁港の風景

南側に海が開けていますが、ここからは、北側の山を登ります。

北側の海の向こうには、和歌山市内が見えます

こんな所に、つり公園?

つり公園シモツピア―ランドを上から見る。
山の上を走る道路から、下の海岸まで降りて来ましたが、つり公園がある事を知りませんでした('_')
駐車場の車を見ると、ほとんど他府県ナンバーでしたが、
街の人は、色んなスポットを知っているなぁ~と感心しました。

下津町の町並み

細い道を通って塩津方面に走ります

塩津の集落

眼下の海は、和歌浦湾

塩津の漁港周辺

原付バイクは、こういう所には、馴染みやすい?

戸坂の集落

戸坂バス停横にて

漁港の雰囲気が感じられます

漁船が出漁しています。大漁祈願

塩津の集落から国道42号へ出る途中、眼下に紀勢本線(きのくに線)
紀勢本線は、複線ですが、このトンネルは、昭和40年代以前の単線時代の古いものになります。

今回は、海南市下津町にある海沿いの漁港集落(大崎、塩津、戸坂)を訪ねましたが、
どの集落も海のすぐそばまで、山が迫るため道路が狭く、車では、入っていけないような路地裏でも、
原付バイクなら入って行く事が出来るので、地元の人々の生活感を身近に感じる事が出来ます。
この距離感の近さも、原付バイクの魅力ですね。

遠方(県外)へのツーリングも楽しいですが、県内の近場だと時間に余裕が持てるので、
お昼ごろに出発しても、十分楽しむ事が出来ます。
今日も色んな発見があって楽しかったです。

名古屋市 熱田神宮へのツーリング

2021-03-07 20:48:02 | 日記
2021年3月3日、3月に入ったとはいえ、まだまだ朝晩は、冷え込みが厳しいですが、
この日、名古屋の熱田神宮に向けて走りました。
熱田神宮へ原付バイクでお詣りするのは、2回目になります。
ブログには、載せていませんが、2020年2月24日行って来ました。
この時は、同じ原付バイクでも50㏄だったので、
道中は、本当に大変でした(ノД`)・゜・。

主なルートは、国道311号→三重県熊野市→国道42号→松阪市→国道23号→
愛知県名古屋市→熱田神宮→国道1号→三重県鈴鹿市→国道23号→
松阪市→国道42号→熊野市→国道311号→白浜


表示のルート地図は、概略になります。
今回の走行距離は、約640㎞です。
途中の休憩を含めて、白浜から名古屋 熱田神宮まで約9時間掛かりました。


JR白浜駅です。
この日の月夜は、本当にきれいでした。ちなみに時刻は、午前3時前です。


国道311号を走っていても、2車線あると夜間でも少し安心します。


夜の国道311号。
国道311号は、和歌山県西牟婁郡(にしむろぐん)上富田町(かみとんだちょう)と
三重県尾鷲市(おわせし)を結ぶ国道ですが、殆どの区間で2車線への整備が進んでいますが、
和歌山県から少しだけ奈良県十津川村を通って、三重県に入りますが、この十津川村の一部区間は、
1.5車線程の狭い区間になります。
写真では、暗くて殆ど路面が見えませんが、実際走っていても怖いです。
夜間に、何らかの動物にでも遭遇するとドキドキものです。昼間は、遭遇したことありますが…


十津川村から峠道を越えると、再び和歌山県に入ります。



北山川に掛かる瀞(とろ)大橋を渡ると三重県に入ります。



ふり返ると和歌山県ですが、少しの間だけ、和歌山県とお別れ。

三重県熊野市に入りましたが、ここから熊野市の市街地までは、まだまだ暗い夜道を走ります。

やっと熊野市の国道42号へ来ました。
暗い夜道を走って、街の明かりが見えると何とも言えない安心感があります。
熊野市では、早速24時間営業のガソリンスタンドに寄って給油し、コンビニでホットコーヒーを購入

松阪まで123㎞。まだまだ名古屋は、とても遠いです。


熊野市までの山間部を走る国道311号が、第1難関とすれば、
熊野市から尾鷲市への矢ノ川(やのこ)峠は、第2難関になります。

さすが矢ノ川峠。気温マイナス3度。寒いと言うより痛いですね。


国道42号沿いにある道の駅 紀伊長島マンボー

道の駅にある時計は、午前6時前。夜明けが近くなってきました。


松阪市まで来ると、名古屋の表示が見えてきました。
ここからは、ひたすら国道23号を走ります。

三重県津市にある道の駅 津かわげ にて休憩。

道の駅 津かわげ外観

今度、機会があれば、国道306号を亀山方面に走りたいと思います。
何だか次回予告みたいだなぁ~( *´艸`)


名古屋市まで来ました。熱田神宮は、すぐ近くです。
長野まで270㎞。いつかは、信州方面に行って見たいですね。

約1年ぶりの参拝です。
白浜から名古屋市 熱田神宮まで、途中の休憩時間を含めて約9時間掛かりました。












この何とも言えない紫色の風合いが好きです。

お天気が良かったので、とても気持ちが良かったです。



ならずの梅。へぇ~('_')







大楠



ニワトリ

そろそろ、お腹が空いてきたなぁ~







国道1号。この先の高架には、新幹線が見えます。
さすが大都会 名古屋

ここからは、昨年2020年2月24日、同じく熱田神宮までの道中の写真になります。

津市。この時、原付バイク(しかも50㏄)で、ここまで走ったのは、初めてなので感動の連続でした(^^♪

四日市市

ついに愛知県入り 弥富市

長かった!名古屋市に到着。この時は、原付バイク50㏄でしたので、
名四国道(国道23号)の名古屋市内の一部区間は、50㏄では走れない高架橋があるので、
途中から国道302号を走り、国道1号で熱田神宮へ向かいました。
原付125㏄でも大変やったけど、50㏄で本当によく来たなぁ~と自分でも感心します。





熱田神宮での参拝を終えて、白浜まで帰るにあたり今回は、どうしても国道1号を通りたくて走りました。
というのも国道1号にある揖斐川、長良川に掛かる昭和9年(1934年)架橋の伊勢大橋を渡りたかったからです。
約90年前の橋が今でも現役なんて…考えただけでもドキドキします。
当時の土木技術の高さに敬服致します。
現在、新しい橋の架橋工事が進められていますが、
写真は、撮っていませんが、原付バイクで走れた事が嬉しかったです。

今回、熱田神宮へ2台の原付で参拝出来た事は、大きな達成感でした。
初めて原付バイク50㏄で、名古屋まで走った事は、
後々の行動範囲が広がっていく上で、大きな自信となりました。

これからも、様々な事情が許す限り、原付バイクに乗って
各地を旅したいと思います。
今は、原付50㏄で遠出する機会は減りましたが、近所への買い物に乗ったり、
フラッと乗ったりして、週1回程度は、一緒に走っています。

また今回の旅では、熊野市のガソリンスタンドで給油していると店員さんが、
私の原付のナンバープレートを見て「えっ!白浜からここまで来たんですか?」と聞かれ
そこから少し雑談をしました。
たまに見ず知らずの方から、ナンバープレートを見て話しかけられる事がありますが、
それもまた旅の魅力の一つですね。
さて今度は、相棒の原付バイクと一緒に、どこへ走りに行こうかなぁ~(^^ゞ