どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

旧由良隧道について

2018-08-21 20:14:25 | 日記

由良洞隧道(由良町側)

前回、旧由良隧道について調べてみたい…と書きましたが、
和歌山県立図書館で資料を閲覧したところ、由良町誌にも記載がありましたが、
完成したのは、明治22年のようです。一部、別の資料には、明治23年ともありましたが、
いずれにせよ、かなり古いトンネルである事は、間違いありません。
また名称も由良洞隧道(ゆらどうずいどう)のようです。


由良町誌より抜粋

明治も中ごろになると、由良地方にやっと主要道と言える道路が完成される。
明治十二年ごろ県道として認定された熊野街道は、有田、日高の郡境に横たわる
鹿ヶ瀬山の急勾配にはばまれ、人と牛馬の往来が困難であったことは前にも述べたとおりであるが、
この街道を鹿ヶ瀬周辺で根本的に付け替え、
由良回りの県道として完成されたのが明治二十二年のことであった。

三月十日の熊野街道鹿ヶ背転路開道式「答辞」(後藤和史家文書)の中に
「鹿ヶ背転路開修ノ工事タル有田郡殿原ヨリ、
本郡萩原村ニ至ル延長壱万千六百間余ニシテ最モ至難ナルハ、
本郡池田阿戸両村ニ跨ル字切貫峠ニ於テ、延長七拾弐間ノ隧道開鑿アルモ、
幸ニ工法其宜シキヲ得、遂ニ竣功ノ日ヲ見ルニ至リ」


と述べられているように、鹿ヶ瀬峠越えの熊野街道は、
この年から新設された由良回りの新道を本線とし、
その経路は、有田郡殿村から井関、河瀬を経て水越峠を越え畑の北側の山腹を徐々に下り、
畑、中、門前、里、阿戸と由良村の中央部を通り、
阿戸からは古道と別れて東側の山腹を蛇行しながら登っている。
峠(切貫峠)の手前で、工事中最も困難であったと述べられている
長さ七ニ間(一三八・四メートル)の「由良洞」隧道を抜け、
池田村を通過し萩原村東光寺で旧県道鹿ヶ瀬峠越えの道と合流している。

この道は延長二〇キロメートル余り(殿原、東光寺間)、道幅三・六メートル前後で、
当時の村内道路に比べて破格の規模を誇り、
その開通は由良地方の交通体系に大きな影響を与えたと思われる。


こうした由良地方の喜びと期待を担った県道熊野街道由良回り新道も、
その経路内に水越峠と由良洞隧道周辺の山腹二か所で長距離にわたる急傾斜を有することから、
地元民はともかく、通過する人々にとっては厳しい遠回りの道となり、
その新道の効果を十分に発揮することなく、わずか二〇年余りの後、明治四十三年に、
原坂峠を貫通した鹿ヶ瀬隧道を通る津木回りの県道に取って替わられた。



由良洞隧道 トンネル内

由良町誌より

○由良洞隧道
現在の県道「御坊由良湯浅線」にあり、
当町阿戸から日高町池田に抜ける全長一三八・四メートルの隧道。
明治の県道「熊野街道」を由良回りに誘致したとき貫通したもので完成は明治二十一年・
工事には囚人なども動員されたと言われ、当時は郡内でも類を見ない早期の設置であった。
トンネル内の路面は石畳で舗装(現在は完全舗装)され、
近年まで御坊方面に通行するための重要な役割を担っていたが、
昭和四十年の国道開通により、通行量も激減し、現在ではほとんど人通りも絶えている。



由良洞隧道(日高町側)

「由良町誌こぼればなし」より引用
28 明治の熊野街道

由良の近代史の目玉は、石灰石の採掘と埋め立て、
そして由良に道(鉄道も)を通すことである。
古代からの熊野街道は、鹿ヶ瀬(ししがせ)峠を越え、八〇〇年の長い間由良をかすめて通った。
明治に入ると、囚人なども動員して大改修に努めているが、何せ難路のため、
新時代の新ルートとして、由良地区を通る道路が決定された。
しかし正確な時期や背景は明らかでない。

それは、南広村の殿から水越峠をこえ、畑・中・門前・里・阿戸を経て
由良洞(どう)(トンネル)を抜け、池田におりる県道であった。
(国道四ニ号線のため、水越峠の近くにかなりの旧道を遺しているが、畑地区の山道は寸断された)


『蓮専寺記録四』には「道修ノ義ハ廿年亥五月二十三日創(はじ)メ」とあり、
明治二十年(一八八七)に工事が始まった。
阿戸区の『御達留』によると、同年六月二日にこの道路が登場する。
「鹿ヶ瀬転換(てんかん)道路」と書かれており、
鹿ヶ瀬街道に換(か)わる道なんだという意義が強くこめられていた。

この日、里村外五ヶ村戸長湯森好助が「道路開修工事」について臨時連合村会を開くことを、
連合村会議員に通達したものであった。
その後十一月の通知によると、道路の開設に当り、
地域の人々の無料奉仕(労働人夫)、寄付金を募ることを申し合わせていたことがわかる。
資力のある者は金で、力のある者は人夫として参加しようと呼びかけていたようだが、
実態は明らかではない。


工事は一年半で完成した。
『蓮専寺記録』によると、「(明治)二十二年一月二出来致(できいたし)、
即(すなわち)阿戸坂ノ洞(どう)亦(また)然り、然ルニ開道式ハ同年三月十一日也、
是(これ)当地二テハ前代未曾有の介(かい)集ナリ」とあり、
由良小学校の「沿革誌」には、
三月中旬開道式のために、学校の机腰掛等が使用されたので、数日間休業したこと、
「サレド本郡西北二僻在セシ本村も、ソノ面目ヲ改ムルノ動機ヲ得タルモノトイフベシ」とある。
このような心境で工事を見守っていた人々も多かったろう。

阿戸坂のトンネルの、由良側の入口の上に掲げられた「由良洞」の文字は、
由良守応(もりまさ)の揮毫といわれる。
由良に熊野街道を通した背景に彼の尽力もあったように思う。


しかし、この県道の寿命は長くはなかった。
守応も明治二十七年に死去している。
「長い坂道が二ヶ所もあり、しかも迂廻(うかい)甚(はなは)だしい」という理由で、
明治四十二年(一九〇九)頃から鹿ヶ瀬トンネルを抜けて原谷に行く新道に換わられた。
かくて翌年、二十年の短い寿命で由良熊野街道は廃道となった。

しかし、大正末期紀勢西線の鉄道が南下してくると、
最南端の駅へ連絡する自動車(日の出自動車KK)がこの道を通り、箕島や湯浅へ走った。
また石灰石を満載した馬力(ばりき)車の通る産業道路として生き続けた。

(注)由良守応揮毫と伝えられる「由良洞」の石板が、トンネル改修工事の頃から、
行方知れずになっています。心当たりの方はどうか教えて下さい。

町誌編集委員 *〇〇〇〇 *個人名なので割愛


★文中に登場した由良守応について
「由良町誌こぼればなし」に掲載がありましたので引用させて頂きます。

神坂次郎氏“由良守応”を小説に

和歌山市在住の作家神坂(こうさか)次郎氏が『週刊朝日』の四月十五日発行分から、
由良町門前出身で明治初期、東京で二階建馬車を走らせた“由良守応(もりまさ)”の事を
「走れオムンボス=乗合馬車」として連載されます。

(中略)ここでは作家、神坂次郎の略歴が掲載されています

◎真説由良守応伝

由良守応(もりまさ)。文政十年(一八二七)十二月二十五日、門前村(由良町門前)に
由良弥三兵衛の長男として生れる。
始め弥太次のち源太郎、更に守応と改め、義渓と号した。
他に千里軒など数号を有する。

幼少より文武の志深く、体格もすぐれ六尺豊かな大男であった。
栖原(湯浅町)の郷士菊池海荘が父の弥三兵衛を監督として由良湾を埋め立てた所、
安政の大津波によって流されてしまった。海荘に急を知らせた事が気にいられた。
文武の道にはげみ、馬術が特に勝れていたが、剣術も北辰一刀流免許皆伝となる。


その後、京都にのぼり勤王の公家庭田権大納言重胤につかえ、隠密として活躍した。
そのため陸奥(むつ)宗光、伊藤博文らと親交をもち、明治維新後は新政府に仕え、
明治三年には大蔵省通商大佑になった。
時に四十四才、津田出が開いた友ヶ島の牧場で輸入牛馬の育成、酪農に従事した。

明治四年十一月、大蔵省勧農助の地位で、条約改正のために渡欧の岩倉具視の一行に随行した。
明治六年帰朝後、九月に御馬車掛の長となったが、
運悪く十一月、皇后陛下の馬車が東京芝高輪で転覆し、部下の責任をとって辞職した。
気の短いのと淡白な性格であったのであろう。


明治七年八月、東京浅草雷門~新橋間に
オムンバス(二階建馬車)を走らせ千里軒と称し、江戸っ子を驚かせた。
しかし道がせまいため人身事故を起し、二階建て馬車を禁止され普通の馬車になってしまった。

その後、東京~宇都宮間で営業し富を得たが、
鉄道馬車が盛んになるにつれて乗合馬車が落目となって来たため、
遂に明治十九年、東京の家屋敷を売って家族を由良に帰した。
守応は東京に残り深川東大工町に大日本発動機製造会社を設立したが、時期尚早、失敗し、
明治二十一年九月には由良へ帰って来た。


その後、妻・長男・長男の妻も亡くし、失意の内に明治二十七年三月、
和歌山市内で亡くなった。六十七才であった。

神坂氏は何回も来町され、守応の史料を調査され小説にされます。
由良町の名も高まる事と思います。

(公民館 *〇〇〇〇)*個人名なので割愛


和歌山県ふるさとアーカイブ 由良守応
https://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html


今回、旧由良隧道に関する資料を調べて思ったのは、
明治22年に完成したトンネルが、今も現役である事に驚かされます。
和歌山県内でもかなり古いものと思われますが、
先人の由良隧道への思いを知り、大切に残して欲しいと切に思います。

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