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どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

三重県多気町 神宮寺(丹生大師)と松阪市 松坂城跡、本居宣長記念館を訪ねる③

2021-12-12 22:44:35 | 日記



いよいよ今回の最終目的地である三重県松阪市に着きました。
本居宣長記念館は、*松坂城跡にあるので城跡も見学しました。
*「まつさか」の表記は、明治22年(1889)の町制施行時に
松坂から松阪になりました。

松阪市は、これまでも愛知、静岡方面に走る際、通過していましたが、
観光目的で立ち寄ったのは、初めてでした。
また本居宣長についてですが、私は、歴史の教科書に載っていた人で、
名前は知っていたけど、何をした人なのか知りませんでした(ノД`)・゜・。
今回、本居宣長記念館を訪ねて、とてもすごい方である事を知りました。


観光案内板

うわぁ~懐かしい(*´ω`)
子供の頃、実家にこのような手押しポンプの井戸がありました。

松坂城跡入口

入口にある松坂城跡の石柱

松坂城跡は平成二十三年三月に国指定史跡となった文化財で、
城の現状を保ちながら公園として利用していただいております。
そのため、高い石垣や縁石などには充分ご注意ください。
特に小学生以下のお子様につきましては、
必ず保護者同伴でのご利用をお願いします。
また公園内石垣の石を取り外したり、
樹木等の枝を折ることはぜったいに行なわないでください。

松阪市
『日本百名城』選定 平成十八年四月六日
日本の歴史公園百選 選定 平成十八年十月二十七日

見事な石垣です。







松坂城本丸跡





木の向こうには、ビルも見えます

松坂城からの眺め 大昔は、田畑が広がっていたんでしょうね

遠方に見える山の名前が書かれています
左から堀坂山757.4m、堀坂峠、観音岳606m、日川富士508m、鉢ヶ峰420m、阿坂城跡(白米城跡)312.6m 

https://youtu.be/v-tWTVItywQ
この場所から、ぐるっと360度の動画撮影をしました。

天守閣跡 ここに天守閣があったんですね

松坂城跡散策マップ

城内を歩いて本居宣長記念館に到着

本居宣長記念館 https://www.norinagakinenkan.com/

館内には、多数の資料が展示されていますが、私が一番驚いたのは、
1階から2階へ上がる階段の途中にある「大日本天下四海画図」です。

この「大日本天下四海画図」を17歳(1746年)の本居宣長が描いた。という事に衝撃を受けました。
大きさは、縦約1.2m、横約1.9mの大きな日本地図です。

日本地図といえば、歴史の授業で伊能忠敬が作ったという事しか知りませんでしたが、
調べてみると1821年、伊能忠敬が全国を歩いて測量して日本地図を作ったとの事ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC
しかしそれより以前の1746年に、おぼろげにも日本の地形図が知られていた事に
驚きと衝撃を受けたものです。
1821年の伊能地図完成からさかのぼる事、半世紀以上も前の本居宣長が地図を描いた。
という事に「どうやって日本地図を知ったのか?」「誰か別に地図を作っていた人がいたのか?」と
謎が膨らみます。今では、当たり前の地図。しかし、この時代に地図を・・・不思議です。

紀伊の部分を拡大
印南、切目、田ナベ、湯サキ、富田、市江といった白浜及び周辺の地名があります。
この頃から地名が変わっていない事もスゴイです。
中には、今の地名と違うというか読めない地名もあります。

和歌山
松坂は紀州藩領。歩いて4日の距離。
宣長は10代藩主徳川治宝に仕え、御前講釈を行う。
養子・大平は和歌山に移住した。

本居宣長が、和歌山と繋がりのある人であったことを、この時初めて知りました。

記念館を出たあとすぐ隣にある本居宣長の旧宅「鈴屋」を訪ねました。

旧宅外観

本居宣長 家のものがたり

鈴屋訪問



書斎 鈴屋について

旧宅内部



かまど












本居宣長が過ごした家が未だに保存されている事に驚きました。
しかも靴を脱いで畳にあがる事が出来たのも新鮮でした。
2階への階段もありましたが、私が印象に残ったのは
五右衛門風呂があった事です。
私がまだ小学生低学年の頃、五右衛門風呂で入浴した記憶が蘇りました。
今でも五右衛門風呂を使っている家もあるかと思いますが、
げす板を足で押さえながら湯船の底に沈めて入りました。
何だろう・・・懐かしい。その光景は、今でもハッキリ覚えています。
小さい頃に経験した事って意外と記憶に残っていますね。

さて記念館を出て少し周辺をブラブラと歩きます。



殿町武家屋敷界隈

御城番屋敷(ごじょうばんやしき)の1戸が公開されています。
しかも子孫の方が今も住んでいる事に驚きました。
今回の旅は、驚かされる事が多いです(^^ゞ










御城番屋敷の中にあった展示やパンフレットを見て驚きました。
田辺与力?って初めて知りました。





御城番武士の略歴

彼らの祖先は徳川家康の先鋒隊(せんぽうたい)として功名手柄(こうみょうてがら)を競った
横須賀党(よこすかとう)の面々であり、元和5年(1619)に家康の子頼宜の家臣として
紀州藩の要地である田辺に遣わされ、代々田辺に居住することになりました。
紀州藩では彼らは「田辺与力(たなべよりき)」と呼ばれ、事のある時は、
田辺城主である安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣でした。

以来、230年あまりの歳月は流れ、安政2年(1855)のある日突然、
17箇条の達しを受け安藤家の家臣と決めつけられました。
与力たちは直臣(じきしん:藩主直属の家臣)であることに誇りを持ち、
陪臣(ばいしん:藩主の家臣の家来)になることに不満を訴えていましたが主張は通らず、
遂に安政3年9月、暇願(いとまねが)いを出して藩士の身分を棄て放浪の身となりました。

浪人生活は6年余りつづきましたが、
この間も紀州藩への復帰の望みは捨てず帰藩の嘆願(たんがん)を続けます。
紀州徳川家の菩提寺である長保寺(ちょうほうじ)の
住職海弁僧正(かいべんそうじょう)の支援を受け、
文久3年(1863)に松坂城の御城番として迎えられ、
藩復帰の初志を貫き通しました。

やがて訪れる明治維新、そして廃藩置県や徴兵制の断行による
武士の存続基盤の消滅に対しても彼らは「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を創設し、
この激変の世を乗り越えます。
会社は明治11年(1878)に三重県知事より認可されますが、
その当時の資産は山林45町余、田畑5反余、荒地1町1反余、屋敷地1町6反余にのぼり、
御城番屋敷もそのなかに含まれています。
会社は大正15年(1926)に合資会社に改組、
平成28年(2016)に合同会社に変更され現在に至っており、
社員は直系の子孫で構成されています。

明治15年(1882)の会社内規には「わが党各家は永世変わらず、苦楽をともにし、
家門の繁栄を図ることを主眼とする」という設立の趣旨が記され、
明治35年の会社綱領では紀州藩祖徳川頼宜や
長保寺の住職海弁僧正の恩義を忘れてはならないことを誓っています。
そして、今も苗秀社の人たちは2人の祭祀を欠かしません。


田辺与力を訪ねて

浪人生活を続けていた与力たちが、最後まで復帰の望みを捨てず
帰藩の嘆願を続けることができたのは、紀州徳川家の菩提寺である
長保寺の海弁僧正の支援があったからでした。
彼の人脈を通じて彼らの嘆願の趣旨は、関係筋を通り、
最後には幕府の将軍後見職になっていた一橋慶喜に達しました。
長保寺(和歌山県海南市下津町)には、海弁和尚の墓所があり、
まわりを取り巻くように田辺与力22人の碑が建てられています。


松坂は、元和5年(1619)に紀州藩に属し、松坂城代役所をはじめとする出先機関が置かれました。
御城番屋敷は松坂城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として
文久3年(1863)に建てられました。
とパンフレットにありましたが、私は、松阪市に来て
「田辺」を見るとは思いもしませんでした。
紀州藩は、今の三重県紀北町(旧:紀伊長島町)までがあった。
という事は知っていましたが、松阪が紀州藩だった事も初めて知りました。

またこの屋敷を子孫の方々が維持管理している事。
明治時代には「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を創設し今でも存続する事。
苗秀社の人たちは、紀州藩祖徳川頼宜や長保寺の住職海弁僧正の恩義を
忘れてはならないと今も祭祀を続けている事。

今回の旅は、和歌山と三重の繋がりや歴史における関りの深さや恩義、
それは今でも遺され、そして脈々と受け継がれている事を知りました。
驚かされる事が多い旅でしたが、また機会を見て相棒の原付バイクと一緒に
和歌山、奈良、三重の紀伊半島をもっと知りたい!という
気持ちも感じるようになりました( *´艸`)
次回は、どこへ行こうかなぁ(^^♪

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