朝護孫子寺に入るとすぐに大寅が現れました。
皆さんやはりここで写真を
撮るのがおおはやりです。
よくわからんけどバズるんでしょうねえ。
でも写真もむつかしいねえ。
全体をうまく写そうとすると、
メリハリがなく、寅だけに
とらえようがないって感じです。
はは。
しばらく順番を待って、
doironも写真を撮りました。
観光バスで訪れて、
ここに来るまでお酒をたっぷり飲んで、
ああ人間も大トラやあ
なんて言われる参拝者もいるんやろなあ。
これを読んでいるそこのあなたも
そうではないですかあ。
ではなぜこういうのでしょうか。
酔うと体にまだら模様のような
発心がでてトラみたいやあ、
とか
「ガオー」と吠えるトラみたいな大声で
話すからとか言われますが、
じつはお酒は別名で竹葉とか
笹とか言われるそうです。
笹にいる動物のようで
トラなんて言われるというのが
一つの節なそうです。
少しなんとなくわかりにくいですね。
まあ大トラのようにいくら
言って聞かせても
乱暴に飲むやつってことに
しとくのがいいかもね。
doironはシャッターを丁寧に頼んで
撮影してもらいました。
その先で参道は本堂へ上がっていく道と
弁天さんの方に行く道と分かれていますが、
とりあえずは弁天さんの方に
立ち寄っていきましょう。
開山堂があって、その先に
大きな木がそびえています。
これがかやの木稲荷ですね。
樹齢はそこに書かれてあった説明では
なんと1500年。
聖徳太子がここに来た時には
もう生えていたんですねえ。
この木は成長は遅いけど
寿命は長いんだそうです。
でもねえ調べていたら、
日本の最大の榧は、
福島県の万正寺の榧で
樹齢は900年だそうです。
この信貴山の木も古くて大きいけどなあ。
なんか謙虚にそびえている
ってかんじですねえ。
それにしても人が多いです。
このコロナの時期には
かなり抵抗がありますねえ。
ここに来るまでにあった
朱印帳のところにも行列が
できていましたからねえ。
静かにマスクをして回りましょう。
信貴山はまだまだこの奥に
巨大な地蔵尊があったりするし、
断食道場、弁財天の滝があったり、
信貴山の頂上に上がっていく
道があったりするのですが、
こんなに人が多いのを見て
めげてしまいましたね。
また次の機会にそれらを
訪ねてみることにしましょう。
そのまま本尊の方に向かって行きます。
ここの本尊は大和平野が一望です。
これがやはりこの寺の売りですね。
そして本尊が聖徳太子が
感得したという毘沙門天です。
じつはここの毘沙門天は、
鎧兜を召されているそうです。
世の中の悪いものはすべて
退散してやるから、
何事にもしっかりと
絶えてやればよいということを
教えているそうです。
もうこの年になって、
耐えてやらねばならないことや
心願成就でさえあまりもう
強烈なものはありません。
このまま健康で楽しく長く
生きればいいなあと祈念するのみです。
さあこれで今回の信貴山参りは
ほぼ目標を達しました。
あとは元気に楽しく下っていくのみですね。
帰り道には少しならんで、
トラのまんじゅうを買いました。
このトラの箱が欲しくて
5個入りを一つ。
あとで店のメニューを計算してみたら、
このトラの箱そのものが
100円の値段でしたねえ。
展望台によって、持参してきた
おにぎりと湯を沸かして
味噌汁をいただきました。
遠くで鶯の声も聞こえてきますし、
山に吹く風も何となく
春のにおいがしましたねえ。
帰りは下り道で快適です。
またここには来るぞと思いながら
下山したdoironだったのでした。
近鉄信貴山下の駅前から
寅の寺に向かってアスファルト道、
山道を歩き、そうしてようやく
朝護孫子寺のバス停の
ところに登りつきました。
ここから、登り始めた信貴山下
の駅にまでバスは通っています。
でもまあ歩いて生きたというのは
関心ですね。
寺ができたころは、みんなこうして
歩いてきたんやもんね。
でもちょっと運動していないと
厳しいコースでした。
さすがに年寄りになると
歩いて寺にはいけませんねえ。
そのたどりついたバス停のところで、
パンフレット等を入手し、
さあではお寺へと進んでいきましょう。
お寺に向かって歩きはじめると、
バスが通っているくらいで
驚いてはいけませんね。
広い自動車道もありますし、
古い家も、もう全くの住宅街。
山の上にこれだけの町があるというのは、
意外に驚きでした。
お寺はこっちかなと思うのですが、
ここにきてふと思ったのですが、
今行こうとしている寅の寺
「朝護孫子寺」って何て読むのが
正しいのでしょうか。
下手に間違って道を聞くと、
「清水寺」を訪ねていくのに
「しみずでら」なんて言って
聞いてしまようで恥ずかしいもんね。
と思っていたら、
道案内にアルファベットが打ってあって
「ちょうごそんしじ」であると確認しました。
では、この言いにくい名前の
お寺はどんなお寺なんでしょうか。
このお寺は大和の国と河内の国の間に
そびえる生駒山麓に位置する神社。
創建は587年に聖徳太子によるもの。
四天王の一つである毘沙門天を
感得したことで作られました。
山は信ずべき貴ぶべき山ということで
「信貴山」と名付けたとされています。
言いにくいお寺の名前は
「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」
の祈願寺とされ、「朝護孫子寺」の
勅号を賜ったとされています。
信貴山真言宗の総本山です。
寅に絡んでいる創建で、
いま境内には大きな寅が
置かれていることで有名です。
近鉄の東信貴鋼索線の終点から、
約10分くらい歩けば寺の入り口です。
そんな参道をぶらぶら歩いてゆきます。
ところどころに旅館とかもありますねえ。
夏は涼しいのかなあ。
古いお店のようなものもありますし、
今風の新しいお店なんかも並んでいます。
あ、これが信貴山のある
奈良県生駒郡平群町の
マンホールですねえ。
菊と樫の実が刻まれています。
町の花、町の木ですね。
ゆるーい坂道を登って行くと、
途中山方向に大門ダムや展望台なんかの
案内もありました。
また別の機会に少し歩けそうな
感じがしますね。
でも今日はお参りですから
まっすぐ進んでいきましょう。
地蔵を眺めたり、
こういう玉垣が並んでいたり、
驚くほどたくさん並んでいる
千体地蔵を眺めながら
てくてくと進んでいきますと、
ようやく山門に差しかかります。
ここから駐車場が眺めれるのですが、
もう入庫を車が待つくらい混雑しています。
確かにこのあたりから
急激に人が増えてきました。
ここは神仏習合の名残で、
寺内にもたくさんの鳥居があります。
神社も多くあるようです。
この山門から朝護孫子寺の
境内に入ってゆきます。
よくもまあこんな山の中に
広大なお寺を設けたものです。
イノシシも出るようなところですが、
無視すれば襲ってこないそうです。
「かまってよー」とか言ってこないのですね。
昔六甲の公園で座っておにぎりを食べていて、
ふと後ろを見たらイノシシが
すぐそこにいたって感じに
なったことがあります。
あんな感じですね。
でも当たり前やけど寅は出ないので、
そこは安全ですね。
でもここは寅が絡んでいますので、
こんな寅人形の納め寅供養も
しているようです。
太子が寅の年、寅の月、寅の日、
寅の刻に四天王の一つである
毘沙門天を感得しているという寺ですからね。
こんなに鮮やかな黄色が
めちゃんこ並んでいます。
続く
信貴山下の駅から山の方に向かって
真っすぐ上ってゆく道を歩きはじめました。
ぐいっぐいっと登ってゆくその姿は、
見た目とっても迫力ありますねえ。
近所で言うと、池上から信太山の自衛隊正面に
登ってゆく道を10倍くらいした迫力の道です。
比較対象がめちゃローカルですみません。
傾斜もかなり急で、アキレス腱にこたえます。
歩いていると、一歩ずつ寅のお寺に
近づいているって感じがしますねえ、
ありがたやです。
ここの道路は少し形状が変わっています。
広い道路の横に、生活用の道路もある
という変則な形ですが、
上部の方に来ると生活道路は亡くなります。
右手は信貴ケ丘で左手は城山台という住宅地です。
生活用の道路というのはおもに
信貴ケ丘の人が移動に使う道のようですね。
何か都市計画的な意味を持たせたのかもしれません。
信貴ケ丘の住宅地が終わるころには、
信貴ケ丘児童遊園が現れ、
その先に大きな建物が現れますねえ。
これが「西和清陵高校」です。
この高校のところで、
下の駅からまっすぐ
上がってきたケーブル跡の道が
少し曲がっています。
どうも高校を立てるために、
ケーブル道跡が埋め立てられて
曲げられた感じです。
その先で道は広い道にドン付きとなり、
右に曲がって少し行ったところで、
また信貴山への真っすぐの
登山道として山方向に続いていきますから、
やっぱり高校建設時に、
少し曲げられた感じなんですね。
その曲げられて残っている
ケーブル跡道は。車が通れるような
道ではなくて、山道といった感じで
続いています。
道の入り口には、簡単な公園のように
なっていて、そこに案内が掲げられていました。
この道路は千本桜並木道と
名付けられています。
ハイキングコースとなったわけですね。
確かに桜の木とかも植えられていましたが、
とっても開けた感じではなくて、
簡単な家族連れハイキングコース
って感じですね。
階段を上がって、先を見上げると、
なるほどこれもすごい道です。
山の中に残っているケーブルというか
索道の跡ですが、まっすぐに山の中に
残っていて、ここもまた迫力です。
まっすぐすぎて、もう先の方は
どうなっているのかもわからないくらい
続いています。
アスファルト道を歩いて上がってきて、
疲れた足を休め休めしながら
進んでいきましょう。
傾斜もきつくて、心拍数も上がりますから
ちょっと休憩かなあと思ったところに、
こんないすが置かれていて助かりました。
チョー元気そうなおばちゃんも
ハアハア言いながら追い越してゆきはりました。
トラのお寺に参りに行くんですが、
普段は寅柄のチョッキを着て
ワイワイゆっているんでしょう
ってくらいお元気でした。
何回かタイミングよく作られている休憩所で
静かな山の景色を眺めながら
休憩して登ってゆきます。
大体この時点で30分くらい
歩いたことになりますが、
急傾斜の登りばかりだったので、
結構足に来ています。
あと10分くらいはのぼりがありそうです。
キノコ満載の倒木や
不気味なキノコを眺めながら、
頑張ってゆきます。
帰りは下りばっかりなんで
楽かもしれませんね。
この日は同じ道を上り下りする
往復歩きを予定していますので。
こんな索道が通っていたであろう
頑丈そうな橋もわたり、
ぼちぼち下からずっと見えていた
山道のてっぺんのところに登頂です。
時刻はこの時11時02分。
そうですねえハイキングコースの
終点までは、コースタイムは
約40分でした。
なかなかいい感じのハイキングかもしれません。
続く
昨年まで何回かに分けて
龍田古道を歩いてきました。
大阪の柏原から山を越えて
奈良の法隆寺に至る道でした。
途中、旧村あり山あり、神社ありと
いろいろと特徴のある道でしたが、
途中山の中に静かな公園に出会いました。
ここには桜もいっぱいあって、
春には花見にも行きましたねえ。
それから亀の背の亀石も見学しました。
役行者の修行と接する道でもありました。
そうして道は奈良の生駒山麓へと
進んでいきました。
ここでとてもその道に驚いたことがあります。
JRの三郷町から龍田大社を経て、
近鉄の信貴山下に差しかかった時です。
駅前から信貴山方面へと
道がまっすぐ登って行くのが
とっても迫力だったのです。
これはすごかったです。
直線でどんどん上っていくのが大迫力です。
なぜこんなすごい道がと思ったのですが、
すぐに理由がわかりました。
信貴山下の駅前に古いケーブルカーが
置かれています。
このケーブルが、かつてはグイっと
直線で昔信貴山に向かって
上っていたのです。
そのケーブルも時代の流れの中で
廃線となったわけですが、
そのケーブル線の跡がいまは
まっすぐな道になって残っているのです。
これは面白そうやなあ。
また次の機会に登ってみよう
と誓いを新たにしたdoironだったのですが、
ついにその日がやってきたのです。
今年は寅年やなあ、
その干支に関してどこかに
行こうかあと考えた時に、
ここを思い出したのです。
寺の中に寅の置物で有名な
「朝護孫子寺」という寺が
あったはずです。
だったらあの道も歩けるし
ちょうどいいぞということで、
喜んでいくことになったのです。
まずは駅近くまで車で行き、
その辺の駐車場に止めて
歩いていくという行き方です。
では出かけてゆきましょう。
車を走らせて西名阪の香芝から
北上してゆきます。
王子も過ぎて、大和川を渡り
信貴山下へと向かいます。
でもねえその駅前に来ましたが、
駐車場が見つかりません。
うわーどうしようと悩んだ挙句、
駅と大和川の間にある
三郷町の役場あたりに行き、
その公共施設横の駐車場に
止めさせていただくことにしました。
まあここのすばらしさを
ブログで伝えて、多くの人が
やってくれば町にとっても
いいことなので、一時の駐車は
許してくれるでしょう。
がらがらの駐車場の片隅に
停めてさっそく歩き始めることにしましょう。
今日はおにぎり持ちなので、
買い物の必要もありませんから
さっそく駅前のケーブル跡の道路へと
向かって行きましょう。
龍田古道歩きの時に渡った
踏切を越え歩いていくと、
ああ、あんな斜面の上に
駐車場があるじゃないですか。
車の中からだと見落として
しまっていたようです。
でもまあもう無料のところに
駐めたので次回来ることが
あればそちらを利用しましょう。
これが駅前に展示されている
ケーブルカーです。
内部も公開予定だったのに、
コロナで内部公開は中止に
なっているようです。
それにしてもこんなケーブルで
山の上まで上がっていたんですねえ。
駅前には図書館を含む大きな施設があり、
その横を道路はすごい迫力で登ってゆきます。
まっすぐですから、
道のてっぺんでリンゴをおとすと、
1キロ以上は転がりつつ続ける
でしょうねえ。
時刻は10時20分。
それでは頑張って登ってゆきましょう。
最初は住宅街の中をケーブルは
登っていたんでしょうねえ。
時おりシルバーカーを押した
高齢者おばさんが井戸端会議
をしていました。
気を付けないと、駅前まで転がっていきますよ~。
続く
今年の正月はいろいろと心配事があって
何となく落ち着かない感じでした。
というのも、孫が病気で入院し
やきもきしていたのです。
コロナのおかげで見舞いにも行けないしなあ
もう遠くから頑張ってくれ~と
念を送るばかりでした。
幸いひどいことにもならずに
ひと月入院で無事に治療も終わり
やっと家に帰宅しました。
3歳の身で大変だったと思います。
何はともあれ、家に帰れてよかったと
こちらもひと安心だったのですが
先日、孫の快気祝いが届いたのです。
これは朗報です。
こんなにうれしいことはありません。
早く活動できるようになって
お祝いに駆けつけてあげれたらなあと
思うばかりです。
そして朗報はもう一つありました。
先日、高野街道の難所を登っているときでした。
笹の生えている急こう配の坂道の途中で
携帯に電話がかかってきました。
携帯画面を見ると「東京」からです。
ん?東京からとなると
誰からだろうと一瞬不安です。
たぶん今は国会が忙しいから
岸田君でもないしなあ
誰だろうと思ったのですが
ふと思い立つことがあったのです。
歩きのしんどさを心配しつつ
電話にでると、
「こちらはS経新聞東京です」とのこと。
こ、これは絵の掲載のお知らせではないのかと
思ったらまさにその通り。
「来週木曜日に絵を掲載しますから」とのこと。
お~しっ、と
高野街道にdoironのおたけびが
響き渡りましたね。
気持ちを落ち着けて
電話ではそのあとも
確認事項をいろいろと話しました。
「無職と書いていますが
これでいいですか」というので
はい、いつもそう掲載してもらっています。
元公務員なんですがね、というと
じゃ、それで行きましょうといわれました。
なんかまわりで鶯が鳴いているような
山の中で声だけの会話だったので
元鉱務員と書かれるかもしれませんが
全然オッケーです。
掲載されるのは6枚目の絵になるのですが
初めて職業欄が「無職」でなくなるのですね。
いやあ、まあそんなことはどうでもいいのです。
年齢も、66になったばかりなんですが
見た目25歳でもいいのです。
この日ウクライナ色の服の取り合わせで
NO WAR を叫びながら歩いていたのですが
平和を心から唱える
髪の毛ふさふさのおっさんでもいいのです。
もう名前なんてdoironでもいいのです。
とにかく採用されてS経新聞の信頼性を
失わなければ絵の掲載をよろしくお願い
しときますって感じですね。
ありがたい高野への巡礼道でいただいた、
これもとてもありがたい朗報でした。