かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 417

2022-01-27 17:16:27 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究49(2017年5月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【睫はうごく】P164~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放


417 どの窓もどの窓も紅葉であるときに赤子のわれは抱かれていたり

     (当日意見)
★この歌、いいですね、好きです。(A・Y)
★愛されていた祝福されていたということ。(T・S)
★自分が抱かれていて家の中にいるんですね。窓から紅葉が見えている。こういう赤の根源の中に
 われはいたんだよと言っているような気がします。(慧子)
★私もどの窓からも紅葉が見えていると取ったのですが、それだと随分大邸宅という感じがします
 が。まあ、どの家の窓からも紅葉が見えていた、そういう集落を想像してもいいかもしれません
 ね。あんまり事実と照合したくはないのですが、松男さん5月生まれで紅葉の季節は生後半年く
 らいです、そういう時に赤ん坊の自分は抱かれていた。赤い紅葉はやっぱり生命の象徴なんでし
 ょうね。こういう記憶があるというのかもしれないし、写真で見て後付けされた記憶かもしれな
 いですけど。ある作家は産湯を使わされている盥に当たっている光りを記憶していると言ってい
 ますから。ただ、第1歌集の巻末の歌ですから、かなりの思い入れのある歌だと思うのですが、
 紅葉にはもっと大きな含みがあるのでしょう。もうひとつとりきれていない気がするのですが。
 前の歌(十月のひかるまひるま火というをみつめておれば火は走りだす)が「火」でこちらは
「紅葉」、生命の静的な部分よりも動的な部分、激しい部分を暗示しているのでしょうか。(鹿取)


       (レポート)
 紅葉の一葉一葉が、作者の心を開いてくれる窓なのではないか。齋藤茂吉の歌に「あかあかといつぽんの道とほりたりたまきはる我が命なりけり」とあるが、赤の生生とした生命力を紅葉に感じる。全体の中に抱かれるように我が在るというのか。氾濫し続けた作者のすべてが抱かれるようだ。この歌の「窓」を、灯をともす民家とは、私はとりづらかった。(真帆)

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