■千原騒動230年の節目を迎えるにあたって、シンポジュームを企画しました!
天明2(1782)年8月、まれにみる凶作にみまわれた泉州一橋領54ヶ村の農民たちは、年貢減免を要求して組織的なたたかいを展開していました。そのさなか、はかばかしい進展をみない交渉に業をいやした大鳥郡を中心とする200人ばかりの一揆集団が、年貢銀を集める下掛屋を兼ねる千原村庄屋川上左助宅を襲撃したのです。この一揆のことは、富木村土井忠兵衛の供養塔、新家村勘七の墓碑、土生村了意の五輪塔など中心的役割を果たした人物の墓碑や顕彰板とともに、千原騒動とよんで現在に伝えられています。
来年2012(平成24)年は、千原騒動から丁度230年になります。節目の年を迎えるにあたって、ここ泉州の地で闘われた百姓一揆「千原騒動」に学び、合わせて郷土史研究の楽しさを味わいたいと、シンポジュームを企画しました。
シンポジュームでは、映像と報告を通して“千原騒動の謎”にせまり、その真実に近づきます。事前に声かけ合って、ゆう・ゆうプラザにご参集ください。
日時:2011年12月11日(日) 午後1時30分~4時
場所:ゆう・ゆうプラザ(和泉市立人権文化センター)4F視聴覚教室
内容:
(1)視聴覚教材による報告「千原騒動フィールドワーク」
坪倉 宏夫さん/郷土史研究サークル
(2)研究報告「今あかされる千原騒動の新事実」
藤野 徳三さん/郷土史研究サークル
(3)研究報告「江戸時代の刑事裁判と千原騒動」
藤原 有和さん/関西大学
【司会・進行 北口 榮さん/郷土史研究サークル】
解き明かしたかった“千原騒動の謎”アラカルト
◆そのⅠ《堺奉行所は、なぜ最初に、南王子村の太郎兵衛らを名指しで召捕りにきたのか?》
◆そのⅡ《南王子村の無高93人を処罰したのは、はたして分裂支配のためだけなのか?》
◆そのⅢ《奉行所の捜索に動員された「番」は、日常どのような役割を果たしていたのか?》
◆そのⅣ《千原騒動は、一橋領の大庄屋制にどのような影響を与えたのか?》
◆そのⅤ《一揆の中心的役割を担った人物の墓碑は、忠兵衛のほかに現存していないのか?》
「たとえ江戸時代にあっても、南王子村に対する差別的な処罰は許せない!」という強い思いとともに「なんら根拠もなく、太郎兵衛らを名指しで召捕りにきたのだろうか?」との素朴な疑問が同時に芽生えてきたのです。研究会を重ねる毎に、こうした疑問は“千原騒動の謎”として広がりをもって膨らんでいきました。解き明かしたかった“千原騒動の謎”とは、私たち郷土史研究サークルの「千原騒動研究」の課題そのものでもあったのです。
■今あかされる千原騒動の新事実
南王子村の検束者18人を追っていくと、彼らは生業でつながり婚姻関係においても深く結びついていたのです。その中心にいたのが太郎兵衛です。まず、キーパーソンともいえる太郎兵衛とその一族に焦点をあて、生業にまつわる争論・訴訟との関連から、その謎にせまります。
千原騒動の裁許直前、奉行所と南王子村との間に「村方仕置」をめぐる息詰まる問答がありました。南王子村を下級警察機構に組み込もうとする動きを追いながら、南王子村の95人の「村方仕置」を通した支配者の思惑と、それに対する南王子村の闘いを考察していきます。
奉行所の捜査・検束に動員された「村方番」は、千原騒動後も支配領域を越えて日常的に「御用」をつとめ、逐一その情報を奉行所に報告しています。時間的にゆるせば、意見交流の場で事例を示してふれたいと思います。
千原騒動は、義人を輩出した一揆としても注目されてきました。通説では、忠兵衛と了意が義民として輩出された背景には、一揆中心人物にあって裁許が下された日まで牢内で生存していたのはこの2人だけだったという事情があったとされていたのです。シンポジュームにむけて、少人数で実施した千原騒動フィールドワークでは、市町村史でも紹介されて有名な富木村忠兵衛の供養塔のほか、土生村了意の五輪塔と新家村勘七の墓碑、そこに添えられた顕彰板に出会うことができました。千原騒動はこれまでの通説を越えて、忠兵衛と了意に勘七を加えた3人の義人を輩出し、それぞれの地域で顕彰・継承してきていたのです。「フィールドワークには、出会いと発見がある!」と実感した次第です。
■大坂町奉行所与力の『ゆいしょがき(ゆいしょがき力)』と寺社奉行による『ひゃくかじょうしらべがき(ひゃくかじょうしらべがき2)』
大坂東町奉行所与力八田五郎左衛門は『由緒書』に「…最初堺奉行所より多人数召捕られ…江戸表へ
おうかがい(おうかがい行)の上、当表においてごぎんみ(ごぎんみに)のごげち(ごげちみ)これありいっけん(いっけん))、堺御奉行所より御引渡しにて、右ごぎんみかかり(ごぎんみかかり御)りおおせつけ(おおせつけか)られ、泉州泉郡・大鳥郡等とて一橋領残らず、多人数の百姓共なお(なお泉)追々めしとり(めしとり泉)、或いはろうもん(ろうもん泉)等おおせつけ(おおせつけ))られ、牢屋敷へ日勤」と記す通り取調の中心的役割を担った人物です。続いて「右領地村々総人数口書・
印形そろえ(そろえ中)に付ては、泉州大鳥郡・泉郡等へとまりが(とまりが泉)けに出役御用あい勤メ」たと記述しています。「由緒書」の記述は、これまでの千原騒動の通説を一部修正するよう求めているようです。
大坂町奉行所の「申渡し」による処罰については、「…そのせつ(そのせつ行)おかか(おかかつ)りの (の か)与力衆ニ手筋これあり(これあり筋)、
うつしとりそうろう(うつしとりそうろう渡)こと(ことし)」と裏書きされた「さわぎたていっけんおしおきがき(さわぎたていっけんおしおきがき処)うつし(うつした)」〈川端家文書〉などの地元史料と、幕府の裁判判例記録『御仕置例類集』をもとに記述されてきました。『御仕置例類集』はその性格上、裁判記録が例類毎に4分割されていて全体像がつかみにくく、南王子村の無高93人に対する処罰など細部の記録が省略されていたのです。幸いなことに『百箇條調書』には、大坂町奉行所の「うかがい(うかがいな)」とそれに対する江戸勘定所の「評議」の全文が書き写されていたのです。こうして今、ここに千原騒動の判決申渡しの全容があかされます。
■これまでの研究をとら(とらで)え直し、千原騒動の再評価をする場に!
千原騒動をめぐる評価が大きく分かれていることは、周知の通りです。まず三浦圭一さんは、「牛神山で農民の集会がおこなわれていることを知った南王子村の庄屋は現地にゆき…諭して解散を促した」と牛神山の集会の段階から南王子村の人びとを登場させ、「身分的に差別されていた南王子村々民が他領農民とともに蜂起しともに弾圧されたことは、お互いの差別感をなくしていくうえで少なからざる影響を与えたことを忘れてはならない。」とのべています。
これに対して、森杉夫さんは、南王子村の検束者は18人、それがいざ処罰の段階になると、突如として一挙93人にふくれ上がったことを問題とし、「彼らが罰せられたのは左助宅へ行ったからではなく、彼らが被差別民であり、しかも無高者であったからである。」とし、「要するにこの大量処分は、被差別民、さらにそのうちでも特に無高層に向けてなされた分裂支配政策の露骨な現れということができる。」とのべています。
千原騒動関係の記録を検討する限り、「ともに蜂起し」たという三浦圭一さんの見解には史料的にも従うことはできません。南王子村の庄屋は、集会の現地牛神山に赴いて解散を促したのではなく、事実は、旦那寺西教寺に村人を集めて、役所からの触書を申渡したうえで「例え案内されても集会に出ないよう」諭していたのです。とはいえ、判決申渡しの全容があかされた今、森杉夫さんの評価もまた補足・修正を余儀なくされているといえるでしょう。このシンポジュームを、これまでの研究を捉え直し、千原騒動の再検討をはじめる場としたいものです。多数ご参加ください!
(文責:藤野徳三)