goo blog サービス終了のお知らせ 

活動日記(特定非営利活動法人ダッシュ)

大阪和泉で活動するNPO法人ダッシュの活動日記です。

■ヨーロッパ少数民族差別を考える講演会

2010年10月03日 03時03分03秒 | ■人権運動アラカルト
いま、この日本で――
======================
ヨーロッパ少数民族差別を考える講演会
ルードウィク・ラーハ『スィンティ女性三代記』
======================
ナチス強制収容所を生き抜き、戦後も少数民族差別と闘う移動の民・スィンティ女性の活動を語る
2010年10月30日(土)午後2時より(開場1時30分)
大阪・弁天町市民学習センター (JR・地下鉄弁天町駅徒歩3分)
講師:ルードウィック・ラーハ氏 通訳:金子マーティン氏
(オーストリア在住著述家、『スィンティ女性三代記(上)私たちはこの世に存在すべきではなかった』編著者)
参加費:資料代1000円(学生500円) ※前売り券 800円
会場:弁天町市民学習センター(講堂)
〒552-0007 大阪市港区弁天1-2-2-700(オーク2番街7階) TEL 06-6577-1430 
地下鉄 中央線「弁天町駅」西口2A出口より徒歩3分/連絡通路を通り、中央エレベータで7階/JR 環状線「弁天町駅」北口より徒歩3分
主催:「ルードウィク・ラーハ講演会」実行委員会
事務局:〒635-0832奈良県北葛城郡広陵町馬見中4-2-2畿央大学渡辺研究室
連絡先:TEL0745-54-1601内5080
メール:y.watanabe【@】kio.ac.jp
坪倉宏夫メール:tubokura【@】ican.zaq.ne.jp
【@】を半角@にして送信してください。
――ナチスの迫害を受けたのはユダヤ民族だけではない。ジプシー、ツィゴイナーなどと呼ばれ、偏見と差別を受けてきた移動の民・ロマ、スィンティは強制収容所に入れられ、多くの人間が病死し、餓死し、虐殺された。スィンティの女性としてオーストリアに生まれたローザ・ウィンターは家族親族のほとんど全員をナチス時代に失った。
ルードウィク・ラーハ氏は、オーストリアのスィンティについて伝統的な暮らしや考え方を調べ、迫害・差別の歴史を記録している。強制収容所から生還したローザ、ケタニ協会を設立し人権活動を続ける娘のギッタ、そして祖母の体験、母の活動を引き継ぐ孫娘のニコル。『スィンティ女性三代記(上) 私たちはこの世に存在すべきではなかった』(日本語版は金子マーティン訳、2009年凱風社刊)はラーハ氏と3人のスィンティ女性の著作である。
私たちはラーハ氏の来日の機会を受け、関西の地においてヨーロッパの少数民族が受けた差別・迫害と闘いの歴史をうかがう講演会を企画した。現代に連なる戦争や差別、人の生き方に関する問題について考え、自殺、いじめ、差別、格差などさまざまな問題に直面しているこの日本社会を見直す機会にしたい。
●「もうローザは我慢の限界を超えていたので、逃亡を決心し、徒歩でサルツブルグにいる親族のところまで逃げることにした。ところが、たった三時間後に捕まり、手錠をかけられ、サボタージュのかどでサルツブルク刑務所に連行されてしまった。そこで一瞬だけ最愛の母との再会が許され、逃亡罪の罰として北部ドイツのラーヴェンスブリュックへ送り込まれた。ローザは不妊手術を承諾しさえすればさまざまな特権を享受できたにもかかわらず、収容所から解放される良き日の到来を固く信じて、最後の最後まで拒絶し続けた。」(金子マーティン訳『スィンティ女性三代記(上) 私たちはこの世に存在すべきではなかった』p36)
●「収容直後に髪の毛を刈られたときから、生きてこの収容所を出られるなど誰一人考えていません。腹がはちきれるほどパンを食い、そのあとに三日三晩熟睡してそのまま死ぬ――そうしたことを夢見ていました。一戸の居住バラックは二棟に分かれ、それぞれに四〇〇人、つまり合計で八〇〇人が詰め込まれていました。殴打と飢餓で多くの人が死んでいきました。」(同書p71)
●「みんな命を失いましたが、私は生き残ったのです。よく悩みます。なぜ私が生き残ったのだろうかと。身内の全員が殺されたというのに。母もきょうだいも、最期は毒ガスで殺されました。それ以前に死んでしまった人もいます。一度計算したら、殺された人は親族や母や兄弟姉妹など、三〇〇人を超えました。生き残ったのはたったの三人。二人のいとこと私だけ。」(同書p77)