日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

数学の認知科学

2019-12-27 16:25:11 | 日記
 段々と頭がスッキリして来た。何年か前に初めて取り組んだ時は記号論理学がさっぱり解らなかったが、今は苦労しながらも理解できるように為ってきた。長岡亮介の数学の二つの心からだな。

けれども相変わらず権威主義的な東大医学部学生と称する人が、正にこの本の表の心で語られている教え方をしていて、武田邦彦が語るサイエンス場面の東大教授式に合致もしている。昔の自分だったら、恐らく同じ轍を繰り返していただろうなと思う。言っておくが彼に罪はない、本人も認識していないだけだという事だから。

本当に知るべきは彼が学習してきた過程を知らなければならないという事であって、彼が語ることにそもそもに本質はないし、意味もないという事である。此れが数学史を理解しないと填まる所なんだろうが、その数学史を理解しようとしたときにも初めて触れた時は訳が解らなかったものな。

更にはそれを理解しようとして、基盤の科学的見方考え方迄戻り、それでも理解出来なくて、高校時代の化学の基礎科目迄戻ってしまったんだもんな。此処までとは今更ながら思う。しかもその先の図形に関するものから心理に繋がっていたものもあったんだもんな...。どんだけ戻っているんだって。

これが教育の他の科目ペスタロッチの話とも、心境として感じてしまうんだもんな。。

何だか、辿る軌跡が図形の様だよ。そしてまた再び行きつ戻りつするんだがな。そうすると、数学の認知科学の続きを読みたくなってくるんだよな(微笑)


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教授の言葉と本質

2019-12-24 23:23:10 | 日記
トボトボと思うことは人は本質が中々に解らないし、理解しがたいものなんだなということを改めて認識させられる。そんなことが常に頭にある所為か、フッと教授の言葉が頭を二度目に過る。

一度目は感じて体験した事を思い出したとき、そして再びは今回の様に本質を考えている時に、フッとした時での再度の思い。

どんな言葉かといえば、教授は「数学を学習している時の偶に、書かれているモノから、言葉ではない言葉が聴こえてくる気がするということ。」それから「それは本質に触れた時に、多い気がする。」と語って居た。

話を初めて聞いたときはそんな馬鹿な。という衝撃的であると同時に、当時はそういえばそんなことが過去にあった様な気がするが・・っと思い出せずに居た。けれどもそれが確率の所であったとは何とも言い難いもので、辛い過去と共に思い出されるとは色々に拗らせているなと自身でもイヤになるな。

それでも鮮明に思い出したのは初めて確率を本格的に学習していた時に「何処かからの声として、今起こっている事はある程度に起こる事なんだ、起こる事なんだ・・・」と繰り返し言われている気がすることだった。

当然に、オカシイなと思いながらも、その声が聞こえそうになる度に、「あれ?何だ??」「なんなんだ??」っと誰もいない筈の席の後ろの空を幾度となく振り返ったりしていた過去の経験。

と言う事で本質に触れているんだろうと思いたい。(笑)


追記 しかし、色々な記憶と絡まっているなぁ。心理学をやって居なければ正気でいられたかな。

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聖夜の夢想歌と三種の神器と精神

2019-12-15 23:25:14 | 日記
 アプリで物語体験出来る、聖夜の夢想歌トロイメライという話に何故か涙してしまった。自分で何故涙を流して居るのか理解できず混乱していた。

それで、思い出していたのが一千童子という作品を幼いころに読んだ時の体験だった。

それも、当時はまだ日本に今でいうポリコレ等という考えは溢れていなく、誠人間と呼べる人たちが比較的多い時で、そういう新しいものは古いものと同時に並列してあるものだという思いからなのか、古い方と同時に新しいものがあり、私は新しい方から手に取り見ていった。

そうして、読んでいくとき、新しいものは凄く陳腐に思えたが、古いものには魂があった。

意志を意思を保つことの困難さや、見つけて維持する事、そして維持する思いを継続するという思い、其処に共感というか、共鳴というか、自身の普段は超えてこない心の中へ響いて来て、自然と泣き続けていた。

勿論当時は何故涙しているのか理解も認識もなかったが。

そこで、物語中の盲目の剣豪と主人公の話が、自身は盲目の剣豪の姿に投影し、そして過去のご先祖様を主人公に投影してしまう。

過去のご先祖様は武田信玄の評価にもある耳の話にも重なり、ご先祖様自身も剣豪にも投影している。周りからは剣聖とも言われるが、当時には普通の事で色んな聖があったともいい、詩聖もいたらしいし。

共通したものなのか超感覚というのも私自身の共感覚にも通じるところがある。

実際に剣道を体験した時に、アニメのグリムガルの洞窟で主人公が狼と戦う場面のよりも、もっと自由度が高い状態になったことが実際にある。

それは以前に起こった事で、自分の感覚的に時間認識が5分の1の状態になり、その5分の1状態が各5分の1状態がそれぞれの、空間認知の幅があり、相が層状になっていて、軌跡の感覚も幾つもあり、濃淡が自身の訓練によって拡張していく感覚もあり、その5分の1の壁を修練を研鑽すれば突破できる様な感覚を持ったことがある。

こう思った所で、ああそうか、、と理解した。

私は小学時代に自分の姫を探して居たんだなと、自分が矜持を持てる存在、矜持には広い皆の公の為の、更に意志・意思、そして誇りが必要で、今は解るが、加えて冗談では無く、当然に命も賭す覚悟が必要となる。

私はその姿勢に涙し、もう一つ見たのは失ってしまった、日本の象徴である「三種の神器」に代表される精神をミての涙だった。

追記 そして、大好きだった父方祖母の姿の片鱗を見た、中学時代の委員長に似たヒタチ・千草も関係しているのかな。
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頭に7つとは思わなかったな。  修正追記20191211

2019-12-09 20:15:42 | 日記
 確率変数が訳が解らなかった確率はある程度は解っている筈なのに。一体どこに欠陥があるのか、そして何故なのか疑問だった。


そして、そのことが生じた原因が漸く解った。それはカリキュラムによって大幅に前後しているからなのが漸く解った。欠けていたのは集合と確率のと繋がりの理論的背景を理解していなかったという事。


私のやっていた時代は中学時代ではなく、高校時代にやるものだったものが、今の時代では中学時代になり、更には高校時代にやる筈のものを私の代では飛ばしてしまい、やるべきものの手前で終了に為っていた事も漸く解り、更には家庭環境問題も生じ入院もしたり、記憶が飛び飛びに為って居たり、更には後半はバットで殴られて脳震盪まで起こして、記憶も飛び身体感覚が二重三重に脳への影響もあったからな。


一体幾つだ。学校外的・内的、家庭環境外的・内的、身体衝撃、内的精神支柱・外的肉親の死か。7つと言う事になるのか。それで高校時代の記憶に濃淡と断片的な感じで詳細を思い出そうとすると頭が痺れた様に、霞が掛かってぐちゃぐちゃになるのか。振り返るで混乱するわけだな。


だからなのか、特に論理的に考えようとするところが、大幅に抜け落ちている。記事を書いている今思い出したが、論理的に考えようとしたときに、痺れる感覚を例え様とするとき、「非常ベルの低い音の様な感覚の様なものが、集中しようとすればする程に益々大きくなり、更には頭痛と吐き気が襲ってくる様な感じだ。」これが霞の上に靄まで掛かって来るんだから如何にもならなかったよな。
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