日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

数学史 その五  追記修正20190331

2019-03-26 23:26:54 | 日記
 図形に付いて漸く少し分かった気がするということ。数学史のその4で書いた、拡張した核感覚に付いては私自身は非常に重要であったが、その事を理解して居なかったということ。


どういう事かと言えば、数学自身の繋がりとしての系統と人間自身というか私自身の人を中心に考えた時の数学系統の繋がりか。これは数学史を学習している中で、一般化出来るのかどうかを判断をしてみたいと言うのは私のテーマなのだろうか。脳の部位による事からも記号からの繋がりも関係する筈だがらそれも加味化か。


図形認識が,なぜ大事なのか納得できなかったが数学史を学習してみている事で漸く少し分かって来た気がしてきた。追記:それは人間の苦闘の歴史だということ。修正:それと繋がるのが、コンピュータ動きの方法で仕方なんだろうと、ずっと思っていた感覚だったが、しかし対象は図形を認識して居なかったんだということ。これがアルゴリズムalgorithmの語源と繋がるんだもんな(笑)



そんな事を思いつつ、同時に浮かんでしまったのは日本語についての事だったんだよな。日本語で対象に付いては建物を用い、自身に付いては身体を用いる語を遣うということに。こんな事を感じてしまったんだがそんな本なんてあるんだろうか。(微笑)


蛇足  修正;私では数学史を教科書に付いてる略年表なんかでなんか何も解らないと思うのにな。あんな意味のない付録みたいな、少し大きな紙へ、ちょろっと文章を付け加えるんじゃなくて、参照の副読本+内容を、具体的なものを多少でも書かないと、興味も沸かないよな。そういう所でも、日本で私の様な一般大衆への抽象化認識の失敗を誘発させて居るんじゃないかと思えるよな。チャート式でも同様の傾向が観られるし。何とか為らんもんかなァ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数学史 その四  20190326

2019-03-09 01:00:31 | 日記
 数学史を学ぶ過程で、素朴な人間が数学を学習する上での繋がりが、解りつつある。特に私の様な感覚優位の人間では尚更なんだろう。ご先祖さんが剣聖とも言われたこともある家系の様だし。



数学の核である重要な要所。これが解らなければ、何を遣っているか自身を見失うことになると思う。これが不思議で、その拡張核感覚を抑えないと言うよりも、2つのこと理解して、更に感覚を掴まないと、弧の様にプツリと途切れるそれとの繋がり。




これを踏まえた上で、眺めて行くと私自身の核である、核要所選択が間違えていた事に気付かされる。図形認知を観る私には何処の箇所かということがボヤけるという意味でも、尚更致命的で深刻な問題なんだろう。恐らくそれは現実にも反映され、影響されているのだろう。



 数学とは何であろうかと言うことを思う時、関係の科学という。では関係の科学とは何であろうか、ということを考える時に、それは抽象的なことを明確に表現する手段であると言えるだろう。


小学校から、中学校、高校、大学、大学院へと上へ上へと登って行くわけだが、そこでは具体的なもの、次にそれを一般化し、次に抽象化し、次に抽象化を自在に操れる様になり、多分その次はそれを創造化するのだろう。大学では抽象化とそれを自在に操る辺りで留まって居るのだろう。



 その様な事を考えている時、「直ぐに事柄が判断付かないものの感覚的な曖昧さ」これに付いては興味深い事は学習した。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする