日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

原理と何重かの融合関数と    20230701

2023-06-26 17:00:40 | 日記
 此程に教育原理について考えるのが難しいことだとは思はなかった。先ず歴史から詰まり広い視点でと言う意味の記述を前提にしつつではあるが,その上に小さい視点でと言う意味の個人の見え方に,社会的な影響からのものに。

 そしてそれぞれの要素に分解していく,各々に繋がりをもち関係している。ただし,その見方は大きいものから見た場合の記述が主であるから,個から見える視点からも記述を用するとなり,さらにその場合には見えないモノからの視点も必要となり,個人でも大きいものも必要視点でもあるという。


更にこの視点だけでもない訳で,実際は今そこにある,「もの」に意味は在る訳でとなると矢張り私が感じて思ってきた資料の要約とそこからレジュメ要点を纏めるしかないよな。急いでいるのに時間ばかり掛かってしまう。

要約をする必要とある所とないところがあるので全ては必要ではないだろうが,内容を把握した上での必要もあるから,全体が必要となりその上での要点となり増々遅くなる。


 今までに,こう言う事を考えたりはしたが,直接「形」にしようとして資料を読み込んだりもしたことは無かったな。此処でも形が出てくるか(笑)事前に読んでいたなら早かったんだが読みながら,理解しする為に図にし,その上で全体を把握し,そして関係する全体からの点を踏まえた上で,此処の形を探ると言う形か。

この考えている事そのものその原理にのっとっていると言うんだから何重だよって感じだよな。(笑)

それに加えて読み込むのは纏めるための書く資料だけではない訳だし。どうしても納得できないとその先を理解ししなければならない訳でとなる。

標準でも時間が掛かると判定される意味が漸く理解できたって感じ。

そうだ,シュタイナー教育を前に知っていたけど此処で繋がって来るとはね。そしてそれが私が知りたかった心理の事にも繋がっているんだものな。

この期間中に知ったことが日本では導入されていないと言う話でと繋がる訳だが・・。

長くなるのでこの辺りで切るか。
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英語の詐欺性と英語人

2023-06-09 22:29:22 | 日記
 色々な想いを巡らさせられ読んだ資料本を再びその対象となるモノを拾い上げる行為そのものが教育原理に為っているので,そのものの対象と性質と要素と記憶と思いと見方とが混在に成って,感情を揺さぶる.

この感覚に近いモノは何時頃だろうかと思った時,小学時代にやって感じた事を文章にするという戦後直ぐに評価されたもので続けられている文章を作るものだ.

私のモノは此れの発展形なんだけどな.この形の見方というが本当に見失わされているよな.

英語人の一般大衆がよく騙される,その詐欺性と同種の認識に現実世界が歪めれてしまったな.
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美術の嫌な記憶    20230609

2023-06-08 10:31:33 | 日記
 美術に付いての意味が,昔中学時代美術の授業中に何だか違う気がしていた.これでは美術の意味が解らないのではないかと思い,教師に思はず質問してしまった.

何と質問したかといえば「美術に付いての意味が違うんじゃないでしょうか」と.そして継いで言葉を続けようとしたら,「お前の美術論の話なんか聞きたくない.」「これは俺の時間だ.だから勝手にやるんだ」という事を言い取り付く島もなかった.此れが教師かと随分酷い態度で話が進められず相談にも為らないという.

私の話したかった事はといえば「美」と「術」の関係に付いてだったというのに.増してや「論」の付くものの話しなど語るべくもないのに.

中断

この言葉を聞いた時からこの教師は駄目だなという評価が私の中で截ったので学ぶものは極小でしかないなとなった.詰まりは教師としての了見を満たしていないということだ.

 
 その後に翌週に近寄ってきて,美術に付いて意味が違うとはどういう意味だと急に話して来たので,内心話す気も無かったが,先週の言葉の継ぐ話をした.美と術に付いての関係で,美術は美を探す事を行為をして見つけるものが美術じゃないのですかと.

直ぐに理解しなかったので,各々にある美というモノを見つける術を知るものじゃないのですかと問うた.しかし,教師はそれは違う,美を表現する術を学ぶものが美術であると.

私は自身の理解が間違って居た様ですねと素直に認めたが,前述した様に彼への評価は既に截っているのでどう判断したものかと言うのが正直な気持ちだった.

結論は市立中学校は教師の質程度が悪いなという所か.美術教師を見て此れかと確信し思ったものな.

随分前から何故多くの仲の良かった小学校時代の友人達が私立中学校に受験してまで行きたがるのかと.そのことが不思議だったが納得感を覚えたものな.

結局その後も私の作品は余りにも上手かったのか,私自身巧く行ったと思ったものでさえ認められず,本当に合わない教師だったな.しっかりと出しても認められないならどうしょうもないやと完全にやる気を失った科目だったし.
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拡散から収束へ   20230607ー8

2023-06-06 09:49:59 | 日記
 教育に付いて戦前の一部の教育は遅れていなかった,寧ろ進んでいたんだなと言うことが確信を持ててきた。口伝で話されていたことは現代に於いてどの程度通用するモノなのか統合出来ず保留していた。

そして,此れを統合するにはどうすれば良いのだろうかと長年に亘って模索していたが,その一つの階段が哲学を順で(「を」と「で」,の接続詞での両方の意味の重要性か)追って辿る事だったとはな。けれども哲学書を初めて手に取った時に,何でそうなるの?っていうのがまるっきり解らなかったからな。

この時に感じたのが哲学に付いて文章は何か別のモノを観ているというのがそこで思ったところだったんだけどそれが正に数学だったんだものな。けれどソレをそうとは見ない人達も居る訳で,それが哲学教授だったという。

故に混乱していたのだが,その時の教授とのやり取りを載せても意味はないだろう。

そこで前述した「何か別のものを観ている」と言う事そのものを観るというのが哲学で連なっていくという。そこでの感じる事によるという意味の深さを知る事になるとはなという所が落としどころか。
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