日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

図形と二コラ・テスラ

2020-02-22 23:41:07 | 日記
 絶望して此処まで歩いてきたが、途中で希望の様なものも感じたことは有ったが、それは幻想だったのかもしれない。現実でも同時に進めなければならない。

そんな中で図形の学習をしていると過去の記憶から、心理的負担も同時に生じて来る。焦る思いはあっても早く進める事は出来ないが、それでも一歩一歩やっていくと自身の思考する過程の様なモノが見えて来て不思議な気持ちになり、それに伴い不思議な感覚にもなる。

凄く基本的な問題である筈だが、この時代は記憶がよく飛び、気付いたら授業が終わっていたという事が何度もあった。という時の内容で合同の応用と相似の応用までの所、そして現代の学習指導要領カリキュラムには無い範囲の所へ突入していく。

まあ、塾通い出来ていた或いはそういう事を予め知ることのできる環境にいたならばやっていた事なのだろうが。

この様に進めていくと内容が繋がっているところを論理的にやっていく事が私には必須であったのだという事が解る。この論理的にという内容が図形であり、この考える内容そのものであったという事なのだという事であった。

そういう事もあってか、学習していた時代に数学教師に質問したが大体しか説明してくれなかった。高校の範囲すら超えるかもしれないからと言うのが答えだったが、ある面では本質を突いていたという事になるのだろう。

こんな学習を進めていると、不思議な事にある人物と同じという事に気付かされた。その名も何と二コラ・テスラと同じじゃないかという事を知る。

この人物を知ったのはエジソンの話を再び見ていた時だった。昔本で彼を知ったときはもう少し論理的に思考が出来るはずなのに、そんな事を考える人が居なかったのだろうか。

という様に小学時代にはそういう思いには至っていたが、自身の方法が間違っていたので気付けなかったという事なのだろうか、それでも二コラ・テスラの聞く内容と凄く近いのだが。

映画やゲームなどでインターミッションって入れたくなる感覚だな(笑)
日本語では途中休憩というらしいが、感覚的には挿話の感覚かな。
コメント
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