日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

ファーブル 其二   20180427 追記28

2018-04-25 07:58:41 | 日記
 ファーブルについてから再び文字を運びたくなった。本を完全に読んでいない状況ではあるが。大まかに知る事は大事である。劇文の読み方を教えてくれた教授はそう語っていた。その科目でAと言う評価も貰えた。通常はあまりテスト論文と言う形なので貰えない筈のもので。


彼の本当に遣りたいと言う気持ち。即ちそのことが好きと言う気持ち。これは何者にも勝ると言うこと。但し,それが心の底からならばということなのかもしれない。


その中で語られている本能というもの。前に書いた事がある事柄で動物故に客観的に観察できると言うこと。人間に付いても言える事らしいが,心理研究法でやったが何処まで出来るのか・・思いは深まる。そのことについて知っているが試していないので私は何とも言えないと言うところはあるが是非ともそれをやりたい。


それは置いておいてファーブルではのその本能と言うものの巧みさを語っていたが,人間も動物としての本能が壊れているといっても,それを認識しない場合そのことに付いてスキーマが実行されるのではないかと思っている。実際の認知状況を見てもそれは明らかだろう。そこで思い出されるのが兵法の話でもあるのだが・・。


此れと同時並行して論理的思考と言うものに付いて,も考えが浮かぶ。多く伝わってきた私の家の状況がこの話に特に近いと言う事を本家などの集まりのときに強く感じた。お互いに持ち合わせている,分析や知識や視点や経験や観測や互いに分析しあってどの様に観えるかを互いに観察して居る感覚。本家に行った時のあの感覚は今でも忘れられない。


そこで幼い時に父が示すものは論理的な思考と言う事をしろと言うことだったのだと,父なりに示していたのだと思う。更にそれは自分の頭で考えると言うこと。確かに父は考えろ考えろと良く私のことを正していたが・・。


そこで自らの傾向ということに為っていく訳であるが,5教科7科目を考えた場合,わかり易い前に述べた事から列挙していけば,科学は私の場合絵であったということ。


絵によって理解し深めていた。生物であっても,化学であっても。但し物理は数学であった。そして数学は哲学であった。その哲学とは論理の事で,己の考えを客観化する為の必須の手段であった。


正し現代ではそれが大いに歪められていて,自身の都合の為に客観視を失わせると言う状況に追い込まれていくのが流行っても居て,私も飲み込まれていたが(自嘲) それが社会の歪みを生じさせていると長岡亮介は原因を話してはいたが。


そして社会に付いてはその論理的整合性によって物事を正しく観て診ていくという,虚飾を見て行こうと言う,何処まで解っているかと言うことそのものであった。


そして言語とは表は表現方法ということと,裏は先人たちの知恵や心や魂を感じるものであったと言うこと。


美術などは表は技術などの科学であり,裏では心の現象であった。この事で私は幼い頃に保育園での頃教師に色を馬鹿にされ描けなくなり,小学校入学時に絵を描くと言うのがあり,初めての授業で絵を馬鹿にされたことが蘇り,色を黒のみで描こうと決意し,色の濃淡で表現し自分ではうまくいったと思ったが,その時も教師に認められず,張り出す事を拒否させられて私だけ絵が無い状態になり,授業参観の時の後に両親に「~君だけ」描けなかったんですと教師が言うことになった。


そして音楽は本能であり,感情の発露であり,生そのもの。生は様々なセイなのだろうと思う。


何を汲み取って学ぶべきなのか。私の場合特にその裏の意味と言うものを採るのが苦手に自分で思える。先に述べた理科と同じものが,社会と数学や他の科目も有るのだろうと思えていたがそれが解らなかったもんな。それ故に数学で心を感じるんだ何て別の教授に言われたりするが,心なんて在るの?って言う感じだったものな。


それ故に私は頭が悪いのだろう。けれど会うの話で言えば高校の頃の同級生や先輩学生などにはあなたは頭がいい,あるいは何々氏は頭がいいなんて良く言われるのだが・・。そういば別の教授にも君は頭が良くてスマートだとキャリアの先生からは言われたりするのだが,何故そうなってしまうのか・・。確かに鋭い質問をよくするとも言われるが努力の結果ではないのか・・。

漸く,疑問と言う形で結ぶ相応しいものが出来たが・・。ずいぶん長くなってしまったな(苦笑)

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愛について

2018-04-16 17:35:33 | 日記
 私は物事に向かう姿勢に至誠が足りなかったと思う。もっと言えば自惚れて居たのかな・・。自己愛と言う傾向だったんだろうか。自分自身でも解らないが,そんな事を最近良く思う。それは自分ならこれくらいは出来るだろうと言う思いか。でも,これは長岡亮介もいうある種の傲慢さと言うものなのだろうか。そこで,いよいよ表層的でない個人の心理学者の世界へ踏み出すときが来た。

愛に付いての本を読まなければと思っていたがいよいよ積み本に近い状態から,一歩前へ進める時が来た。少し少しと読んでいたが自分の中で課題というか問いの様なものが掴めずに居たのでその時が来たと言うことなのだろう。これを真剣に至誠に読んで見ると言うことになるのか。

 相も変わらず遅いな私は。同時に数学や英語や化学や英語も勢いを増して取り組まなければ為らないと言うのに。

ジョルノ・ジョバーナ風に言うと何になるのかな?(微笑)
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数学から島津久光そして磯田道史へ・・

2018-04-12 08:55:18 | 日記
 数学の才能が無いのは分かっていた。何故なら平面パズルが面白いとは思えないからなのだが,キャストパズルという立体のパズルは面白いと感じるんだよな。


 其れは置いておいて,才能の話で飛び抜けた者はこれはどうにもならないと分かっている。だが普通の人はある程度は時間に比例するらしい事は学んだ。確かに掛けている時間が短かったのかも知れないとは良く思う。自身の問題と言うことになってしまうのかな。。


先程流れてきた,教育の格差を容認すると言う社会的傾向があるらしいことがtwitterで流れてきたが,大変悲しくなり,残念に思った。何故ならそう言うのを是正して社会をよくしていくと言うのが本来の姿であると思うし,改めて本来の日本に存在していた貴族が存在しなくなってしまったんだと思わずには居られない。残った残滓どもはその言葉に相応しく滓どもで,本来的な姿を失った欲深い業の深き者共ということか。


 本来的な姿と言うのが,立場と地位はあるのに責任と自覚と覚悟と矜持という責務と義務を失った者と言うことか。これがGHQも齎した物であり,明治政府も齎したものでもあるのか。島津久光が本来齎したかったモノを西郷隆盛などの下級藩士が打ち砕いた末だと言うが,何処まで真実なのかな。磯田道史はその様な事を言っていたが,私は実際に学んでいないので何とも言えないが・・。



蛇足 上記面でも西郷隆盛を私は尊敬はしていなかった。幼い頃からの違和感。社会の何かがオカシイと言う感覚だけはあるがそれが何かは中々解らずに居た訳だが,特に感じたのが西郷隆盛を知った時だったんだよな。最近では久坂玄瑞だったんだよな。それは彼の行動を誉めそやす者が明治の者達に多かったとか。オカシイよなという思いか。
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ガックリくること 追記20180409

2018-04-02 12:43:27 | 日記
 何故、図形変換の認識に時間が掛かるのかと思ったら、数学Ⅰの図形変換の所をやって居なかったんだな。

情けないやら悔しいやら。教科書を確認したら高校の頃授業で省略されているところそのものやん。っとガックリと来てしまう。どんだけ仕様の無い高校だったんだ。

まあ、分かっていた事ではあるが、、そうならない様にしようとして進研ゼミ等の通信教材に頼ろうとしたが母親に拒否されてしまったんだもんな。。


乞ういう所まで、裏切るのかと言うのかが、私の中で更に衝撃だったんだな。私への小学時代の約束すらも、裏切られたという思いか。それ故に何故なんだろう何故なんだろうと当時問い続けてしまったんだもんな。現在はそうでない仕組みなりが有って、それなのかでスクールカウンセラーがいるんだもんな。

当時の私が心に対する認識なんて鬱病という認識すら完全に誤解していたものな。誤解の内容と言えば精神がおかしくて,暴れる人と言う認識だったし。ましてや自身がそれに類するモノの状態であるなんて夢にも思わなかったものな。


そういう思いを下地にしつつ,大学の先生が数学は人に付いて学ばなければ為らないと言っていたが,私の高校の先生なんて凄く聞き取りにくい声の先生でもあったし。眠い声でずっとはなすんだし。マジかよなんて初めての授業で思っちゃったんだもんな。此れの他には更に,質問にマトモに答えてもくれなかったり,長岡亮介と比べると全然理論的でも無いし。


そう考えると,実際は穴が多くて、必要な学習内容を遣っていなかったと言えるのかな。それが自身の頭の中で哲学的にも影響したと言う事なのか。武田邦彦の誠人間為人間故にか。



長岡亮介も語っているが,数学授業の曖昧さが日本社会の空気性を生み出している?って私も言われてそう思った。「数学の二つの心」と「数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索」の二つを後者は少しだが読んで。
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