教育についての教科書が,此処まで構成がバラバラだと、この内容に付いて思い感じるものが出てくる。所謂の変な風な曖昧さというヤツでこの曖昧さに向き合ってみるとある事柄に思い至る。
その感覚と言うのが、(教科書中の時代という話の中で)(修正)取り上げられている,小学生時分の頃の妙なモヤモヤ感の一致する感覚。それから、その感覚の正体に気付かされた計算の法という概念。
この法は実際の法律の法と計算の法MODとでは違うと云う事に為っているが実質的には同じだろう。アルス・マグナの概念からすればということになる。
11月に、学校の生徒時代に生じた頭の分離は何処から来たのだろうかと思っていたのだが、元々の性質に加えて、学校教育自体が、分離と遊離しているという事が漸く理解出来て来た。最新のものでさえもそうなのだから、私が10代の頃だったら尚更だろう。
このprincipleが法理と原理で別々の言葉として存在しているのがそもそもの問題なのだろうと思える。理としても混ぜるのではなく理として明確に使われる様に厳密に為っていればもう少し違ったのだろうか。methodに付いての方法と方式が用いられていたりするし、此れも分離の兆候を生じさせているのかな。
そうしたものを認識できたとき以前は物凄く集中しないと何を言っているのか解からなかったが、心理学研究法を学び直してみると、物凄く理解が早いし解りやすい。当時は時間ばかり掛かって結局終わらず何とか単位を取得できたという感じで、その時は何故が教科書が手にとれなかった。
今考えると苦手意識もあり、当時の時点でも必要とする視座に達していないのも解っていたので「科学的な見方考え方」から生じた発展段階の記号論理学や数学史に向かう過程の時で、長岡亮介の「数学の二つの心」の本を求めている心境だったから、当然と言えば当然。
だがそれで何を言いたいかと言えば、私が散々に逡巡した事がその当の教育に全く反映されていない、と言うよりも理解されていない事がありありと判るのが何ともな読みにくさを生じさせている。何章にかに渡っての執筆している人が特に酷い。
思いだけで文章を書いている。何だこれはという感想でこんなものでいいのかという、何とも言えない気持ちにさせる。
その感覚と言うのが、(教科書中の時代という話の中で)(修正)取り上げられている,小学生時分の頃の妙なモヤモヤ感の一致する感覚。それから、その感覚の正体に気付かされた計算の法という概念。
この法は実際の法律の法と計算の法MODとでは違うと云う事に為っているが実質的には同じだろう。アルス・マグナの概念からすればということになる。
11月に、学校の生徒時代に生じた頭の分離は何処から来たのだろうかと思っていたのだが、元々の性質に加えて、学校教育自体が、分離と遊離しているという事が漸く理解出来て来た。最新のものでさえもそうなのだから、私が10代の頃だったら尚更だろう。
このprincipleが法理と原理で別々の言葉として存在しているのがそもそもの問題なのだろうと思える。理としても混ぜるのではなく理として明確に使われる様に厳密に為っていればもう少し違ったのだろうか。methodに付いての方法と方式が用いられていたりするし、此れも分離の兆候を生じさせているのかな。
そうしたものを認識できたとき以前は物凄く集中しないと何を言っているのか解からなかったが、心理学研究法を学び直してみると、物凄く理解が早いし解りやすい。当時は時間ばかり掛かって結局終わらず何とか単位を取得できたという感じで、その時は何故が教科書が手にとれなかった。
今考えると苦手意識もあり、当時の時点でも必要とする視座に達していないのも解っていたので「科学的な見方考え方」から生じた発展段階の記号論理学や数学史に向かう過程の時で、長岡亮介の「数学の二つの心」の本を求めている心境だったから、当然と言えば当然。
だがそれで何を言いたいかと言えば、私が散々に逡巡した事がその当の教育に全く反映されていない、と言うよりも理解されていない事がありありと判るのが何ともな読みにくさを生じさせている。何章にかに渡っての執筆している人が特に酷い。
思いだけで文章を書いている。何だこれはという感想でこんなものでいいのかという、何とも言えない気持ちにさせる。