日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

聖夜の夢想歌と三種の神器と精神

2019-12-15 23:25:14 | 日記
 アプリで物語体験出来る、聖夜の夢想歌トロイメライという話に何故か涙してしまった。自分で何故涙を流して居るのか理解できず混乱していた。

それで、思い出していたのが一千童子という作品を幼いころに読んだ時の体験だった。

それも、当時はまだ日本に今でいうポリコレ等という考えは溢れていなく、誠人間と呼べる人たちが比較的多い時で、そういう新しいものは古いものと同時に並列してあるものだという思いからなのか、古い方と同時に新しいものがあり、私は新しい方から手に取り見ていった。

そうして、読んでいくとき、新しいものは凄く陳腐に思えたが、古いものには魂があった。

意志を意思を保つことの困難さや、見つけて維持する事、そして維持する思いを継続するという思い、其処に共感というか、共鳴というか、自身の普段は超えてこない心の中へ響いて来て、自然と泣き続けていた。

勿論当時は何故涙しているのか理解も認識もなかったが。

そこで、物語中の盲目の剣豪と主人公の話が、自身は盲目の剣豪の姿に投影し、そして過去のご先祖様を主人公に投影してしまう。

過去のご先祖様は武田信玄の評価にもある耳の話にも重なり、ご先祖様自身も剣豪にも投影している。周りからは剣聖とも言われるが、当時には普通の事で色んな聖があったともいい、詩聖もいたらしいし。

共通したものなのか超感覚というのも私自身の共感覚にも通じるところがある。

実際に剣道を体験した時に、アニメのグリムガルの洞窟で主人公が狼と戦う場面のよりも、もっと自由度が高い状態になったことが実際にある。

それは以前に起こった事で、自分の感覚的に時間認識が5分の1の状態になり、その5分の1状態が各5分の1状態がそれぞれの、空間認知の幅があり、相が層状になっていて、軌跡の感覚も幾つもあり、濃淡が自身の訓練によって拡張していく感覚もあり、その5分の1の壁を修練を研鑽すれば突破できる様な感覚を持ったことがある。

こう思った所で、ああそうか、、と理解した。

私は小学時代に自分の姫を探して居たんだなと、自分が矜持を持てる存在、矜持には広い皆の公の為の、更に意志・意思、そして誇りが必要で、今は解るが、加えて冗談では無く、当然に命も賭す覚悟が必要となる。

私はその姿勢に涙し、もう一つ見たのは失ってしまった、日本の象徴である「三種の神器」に代表される精神をミての涙だった。

追記 そして、大好きだった父方祖母の姿の片鱗を見た、中学時代の委員長に似たヒタチ・千草も関係しているのかな。
コメント
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