日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

日本人と外国人と教える日本語文法と数学   20220801

2022-07-31 23:28:02 | 日記
 日本人に教える日本語文法の学校文法と外国人に教える日本語文法は違うという成程と言う感じに思える。此処でも相も変わらずやられているなと思えるところ。

 古文との繋がりの為に現代語の論理性や整合性を犠牲にしただって有り得ないでしょ。外国人が学ぶ日本語文法はその辺りを調整して云々で論理性と整合性を重視って。

外国語を学ぶのに日本人がその論理性の日本語文法をやらなくてどうするんだという思い。母国語以外の新しい言語学習を始めるに当たっては言語習得の西洋の歴史に学ぶのは当然の帰結じゃないか。

詰りは始まりの数学史にも語られている数学の生かされ方でこういう所で解り切っているのに実施されないという話。恐らく殆どの人は真面目と真剣さを無視して考えてないんじゃないかな。

教育課程で語られるような、言葉が実際にどういう意味を持っているのかに向き合っていないという感じを覚えるんだよな。以前の投稿で話した、ただの通過点で過ぎ去ればいいと言う形で型の。

やはり修得主義に戻すべきだよな。それを実現するには教師の安定的な立場で、個に対応できる少人数制がのぞまれるけど、解って居ながら遣らない所は現状を放置したいという事なんだろうな。此処まで来ているのに認識できない人が多いってGHQとコミュンテルンに相当にやられているよな。

しかし、英単語も知らない単語も二度で確実に覚えるよな。進む速度は遅いけど、共感覚と体感覚の方に振っているからなのかな。
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真直ぐ観ると教育観とようこそ実力至上主義の教室へ  修正20210727

2022-07-26 22:43:32 | 日記
 ようこそ実力至上主義の教室へというアニメがあるが、これを頭脳戦のアニメだという。私から言わせれば普通の現実である。

何故かと言えばこの中で語られている事は教育課程論の中の話そのままだという事だからだ。今思えば説明書を持った者たちが上位層を占めていた様な感じだった。

例えば親が教師だったりしてどの様な評価基準で動いているのかを具体的な内容として把握しているという形の。その事を行う上での注意書きも把握した上でのものという事。

私はと言えば素の状態で評価されてこそ意味があるという、生真面目さとも言えるし、実際は誠実さなのかもしれないが、その考えの元に行動を決めていた。実際はそんなものには何の価値もなく色分けされるだけだという事。

そういう事を実際の科目群という説明書を読んでいないから判断してしまったけど、大抵の上位層はどうでも良い通過点という認識を理解していたという事なのだろう。アニメでは説明会や説明をその都度してくれるので余程現実よりも良心的なモノと言えるだろう。

こんなものが現在の教育なんだものな~。誠実さなんてどうでも良いし、個性を尊重もどうでも良いということ。

個性に付いての具体的な方法が示されていないというんだもんな、口で謳っているだけだよこんなものはさ。本当に真直ぐ観ることを失わされる教育だな。

結論は真直ぐ観ると言うのが私の教育観なのかもしれない。
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英語と言語学習と母性社会

2022-07-25 08:00:24 | 日記
 当時、今の教育が全て間違っているという話をしていた彼女が、英語に付いても確かに間違っているかもしれないという思いが、今は私も浮かんでくる思いがある。

第一前提として日本語に付いて、文章を分解してどれ位の意味が取れるのかという判断を示した上で、それぞれ個人の認識を自分で確認し確かめた上で改めて、文章を作り上げる判断を行っていくという作業が決定的に欠けていたのかな。

 彼女の話を聞く前、始めて英語を学習した時に何かが決定的に欠けている感覚だけがあり、その感覚に付いて当時必死に考えていた感覚記憶を思い出した。その事を当時私を、嘲り、嘲笑し更には、着ていた体操服での私の名前を取らされ、そんな女性英語教師に話したことがあった。

そうしたらそんな話は英語に親しめば無くなるという真直ぐ向き合わないと今では解るが衝撃の発言を聞き言われ、混乱と困惑の状態に陥り二重の意味で驚いたことがあった。こんな教師が教職にいる事への驚愕と、当時から個性とは言われていた筈なのに一つしかないという姿勢のその認識とに。

 此処で考えなければ行けなかったのは相手が個性とはどういうモノであるのかと言う認識であったが、そこまでは考えに至らなかった。まあ、当然でもあるか何と言っても小学生を卒業したばかりで、言語学習も初めてなのにその洗礼だものな。

ソレが初めて英語のアルファベットの小文字も知らない者へ学ぶ対応だものな。英語を扱う師と言う存在が英語を学ぶとこんな風に為ってしまうなら酷い存在だと言う認識しか持てなかったものな。


その様な話をされて、決定的に頭の構造が違うんだないう思いと、教科書を丸暗記しろという無茶苦茶な要求をされて、試しに5頁位苦労の末に暗記してみたが、当然その儘文章が出る筈もなく、応用も効かない状態になる当然か。

今は解るが、日本の文化の師と言う概念の根本である、母性社会の根源が破壊され始めていたから、日本で培われ育まれて来た伝統的な師という根本が機能していなかったという事なんだよな。
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判別式と徳川家康と英語学習と

2022-07-21 00:01:59 | 日記
 日本文化チャンネル桜に対してあるひとが裁判官である様だと話したという。私から言わせれば判別式の様な存在だと思うが言って居る事は同じ様なものかもしれない。

今でこそ近い立場を取っているけれども昔は私はやや違う立場でもあった。それが誤りを認めて寄ってきてくれた様な思いはある。

そんな時に、昔似たような表現を徳川家康が家の本家に寄った時に毎回似た言葉を語っていたという話あったなという事を思い出す。徳川家康が本家に来た時のある時は「中心が解らなくなっていたんだな」と語っていたり、ある時は「解らなくなって来ていたんだな」と語っていたりと他にもあるが。

ASDとHSPの傾向があるからだろうか、伯父が話してくれた事をよく覚えている。

何故こんな事を書きたく為ってしまったのか。考えてみると言英語についての学習を本格的に始めているからだろうか。

英語学習を行う時に日本語自体の理解力が大変重要になってくるのだが、その辺りの日本語文法に付いての事が曖昧だからだろうか。母語を中心として拡張していく方法について凡そ確信を以て見通すことが出来る様になったからそんな思いと共通するものを感じるからだろうか。

久し振りにブログの題名通りのものが書けたな。久々に気分が良い。
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相似と連続と感覚と

2022-07-04 22:25:01 | 日記
 再び相似と線分比に付いて戻ってしまう、すると当時気付いたら授業が終わっていた時の切掛けに為った感覚を思い出す。その感覚は現実の一つのものが拡大し縮小する感覚、そしてそれが自分の制御を離れて「あらゆる所に連続的に」発生する感覚だ。

似た感覚は上に挙げたものしかないが、目に見えるモノで表せばExcelで繰り返しをする時に関数を列設定するとマウスを動かすだけでババババッと変わるがソレを枠を合わせて右に動かしただけの様な状態が感覚に為った感じだ。

この時同時に家庭の問題も並行して起こっていたから心理的負荷に耐えられなかったんだろうな・・・美術の先生とも馬が合わなかったしな。美術の授業で私が作った彫刻が余りにも巧くて信じてもらえなかったからな。

この後から本格的に美術が嫌いになったんだよな。小学時代に、保育園で色使いを否定されたから、黒だけで表現したのにそれも否定され、自分では結構上手く行ったと思っていた作品だったのに。そして再び中学生時代での否定でだもんな。

でもそれが実は美術が嫌いなんじゃなくて美術の授業が嫌いだったというだけだったんだよな。
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