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言語習得で日本語は難易度ランキング1位!

2018年01月28日 12時16分23秒 | 日本人論
 日本語は難しい、とは外国人の口からよく聞かれる言葉です。
 日本人である我々も、アルファベットのみの英語/米語と比べると、ひらがな・かたかな・漢字・ローマ字・・・などたくさんの種類があり、さらに漢字には音読みと訓読みがあったりしますから大変だよなあ、と思います。

 より客観的に判断するとどうなるか?
 紹介記事では、アメリカ国務省に「外国語習得難易度ランキング」というのがあり、その中で日本語は唯一最高難易度にランクされる言語とのこと。
 その理由として、

1.漢字に音読みと訓読みがある
2.必須語彙数が多すぎる
3.主語が略されて記述があいまい
4.オノマトペが多い
5.方言が多い


 が挙げられています。なるほど。

 英語を中心に学んでいる大学生に「英語と比べると日本語は女子の使い方など複雑で興味深く面白い」と聞いたことがあります。
 確かに日本語をそこそこ話せる外国人でも助詞(て・に・は・を)が不適切であることをよく経験しますね。
 日本語を自在に操っている日本人って、それだけで偉い?

■ 日本語は何故、どこが難しいのかー外国人から見る日本語のムズカシイ
2018-01-23:HATENA Blog
 アメリカの外務省にあたる国務省に、「外国語習得難易度ランキング」というデータがあります。



 国務省は日本なら外務省にあたる組織なので、外交官を養成する必要があります。外交官は語学が基本中の基本ですが、その語学習得の時間で難易度を分けた表が、上の世界地図の色分けとなります。
 外国語で「習得した」「マスターした」という基準は一体なんやねん、という議論がよく行われますが、この「習得」はスピーキングとリーディングとなります。
 アメリカなのであくまで英語ネイティブの目線ですが、言語的に近い親戚のヨーロッパの言語は、カテゴリー1~4までの部類になっています。カテゴリー333週間、900時間以内に習得可能という基準があるので、1年以内に習得できるという「比較的簡単」な言語となります。
 その上の「カテゴリー4+」には、モンゴル語・フィンランド語・ハンガリー語の遊牧民族系言語、東南アジアのタイ語とベトナム語がエントリーされています。
 その上の「カテゴリー5」になると、アラビア語や中国語、韓国・朝鮮語がエントリー。ここらへんは妥当なところかも。
 欧州系このカテゴリー3までの色分けで、言語を勉強している人間として面白かったことがあります。それは、フランス語・スペイン語・イタリア語などは緑色の「カテゴリー1」、つまり「サルでもできる」な部類に属していることに対して、ドイツ語は一段階難しいカテゴリー2に分類されていること。
 英語を言語学的な住所で表現すれば、「インド・ヨーロッパ語族、ゲルマン語派、西ゲルマン語群」となります。その中の西ゲルマン語群にはドイツ語とオランダ語も入っています*1。つまり英語とドイツ語は、人間で言えば兄弟だということ。それを根拠に、英語とドイツ語はとても近いと言う人もいます。実際そうだし、似ている単語も多数あります。
 では、何故英語ネイティブから見たドイツ語は、他と比べて難しいのか・・・をいちおう書いては見たものの、文字数にして4000文字以上になっちゃったので、またの機会にします(笑)
 その中で、最凶難易度の「カテゴリー5+」にただ一つ分類されたのが、我らが日本語。世界で唯一無比のオンリーワン。
 私から見ると、アラビア語の方がよっぽど難しいと思うのですが(アラビア語は本当にムズい)、それより難しい認定をアメリカ国務省がしてしまったというお話です。
 なお、このランキングについてのお問い合わせは、私ではなくアメリカ国務省までお願いします(要英語)。

◇ 日本語は何故、どこが難しいのか
 アメリカ国務省に、「イイネ」ではなく「ムズカシイネ」をいただいてしまった日本語の難しさですが、一体何が、どう難しいのか。
 日本語勉強中の外国人に、
「日本語のどこが難しい?」
 と聞くと、10人中8人くらいは漢字と答えるはず。ただし、漢字を使う中華圏の人は除いて。
 常用漢字の数は法令で定められており、その数が2,136字。
 我々はこれを、学校で9年かけて勉強するのですが、外国人にとってはこの数がノイローゼ不可避。我々は日常で使う上に読み書きにも多大な支障が出るので、イヤでも覚えざるを得ないです。しかしながら、趣味や興味から日本語の海原に入り、ヒャッハーと漢字の海にタイビングして「溺死」する人が多数。そりゃ我々も、古代エジプトの象形文字を2,136個どころか、1000個覚えろと言われれば、どんな罰ゲームやねんと頭を抱えることでしょう。
 ところで最近、海外での日本文化の浸透で、英語で漢字を「Kanji」と呼ぶことが多くなったそうです。ネット上では、"Chinese character"だと「画数」が多いからか、ほぼ「Kanji」一択です。
 本家のお株を奪われた中国人が、この流れになんでやねんと頭を抱えているそうですが、日本語学習者の間では漢字の勉強時間を、"punishment"(懲罰、虐待)と呼ばれて恐れられています。
・・・という小咄です。え?面白くなかった?
 しかし、日本語の難しさとはこれだけでしょうか。
 漢字だけが難しいのであれば、覚えてしまえばそれでおしまい。受験勉強よろしく脳のCPUをフル稼働させれば、まあなんとかなると思います。
 この漢字という高い壁だけでも頭痛のタネなのに、それを越えてもまだ壁があるというところが、日本語の難しさ。いや、日本語勉強中の外国人にとっては、恐怖かもしれません。

1.漢字に音読みと訓読みがある
 漢字だけなら、漢字の総本家中国語も同じじゃないかという意見もあります。それはごもっとも。特に台湾・香港(とマレーシアの華人社会)は日本も戦前に使っていた旧字体(繁体字)を使用するので、漢字単体なら日本より難しい。「塩」を「鹽」と書かれた時はもう、はぁ?です。
 日本語と中国語の漢字の大きな違いは、一つの漢字に複数の読み方があることです。
 中国語には、基本一つの漢字に読み方(発音)は一つしか存在しません。複数の読み方があるのも、まああるっちゃありますが、あくまで例外的存在。
 たま~~~~にその例外が出てはきますが、その都度覚えていけば済む程度の量です。
 しかし、日本語はそうはいかない。
 日本語には、「音読み」と「訓読み」の2つの読み方があります。
 音読みは、日本に伝来した大陸(中国)の時代によって「漢音」「呉音」「唐音(&宋音)」に分かれます。「京」だと漢音が「けい」、呉音が「きょう」、唐音が「きん」という風に、いくつもの読み方に分かれ、さらにどれをどう発音するかは単語によるので法則はなし。
 ヨーロッパの言語は、文法がややこしい代わりに一定の法則があることが多いのですが、「法則はない」だけでもう頭がクラクラです。
 さらに厄介なことに、「当て字」もあります。

当て字
:日本語を漢字で書く場合に、漢字の音や訓を、その字の意味に関係なく当てる漢字の使い方。
(大辞泉)


 「目出度い」「呉れる」や、昔の人がよく書いていた「六かしい(むつかしい=難しい)」もそれに当たります。「夜露死苦」もそうですね。
 当て字は文学作品などには多く、特に夏目漱石は当て字の名人と言っていいほど、文面に当て字を散らしています。日常会話レベルではそれほど出てこなくても、小説などの上級編になるとこの当て字との戦いも待っている・・・と。

2.必須語彙数が多すぎ
 英語は、他のヨーロッパの言語とくらべて文法は非常にシンプルにできています。19世紀に英語(イギリス)vs仏語(フランス)の国際共通語の座をめぐるバトルが行われていましたが、英語が8対2くらいで勝利した理由の一つに、文法のシンプルさもあるのではないかという自説を持っています。
 あれでシンプルなの!?という声が画面の奥から聞こえてきそうですが、フランス語やスペイン語、ましてやドイツ語に比べれば、英語文法なんざチョーをつけていいほど楽勝です。本当かどうかは、覚えるより感じろ、「英語以外の欧州の言語」を実際に勉強して確かめて下さい。
 しかし、英語は難しいなーと感じるところは、"sweat"と"perspiration"(意味:汗)のように、同じ意味の語彙(単語)が数多くあること
 日常会話に必要な語彙数は、フランス語でだいたい900~1200程度だそうで、言語学者の千野栄一氏によると、欧州の言語は「英語を除くと」1000語覚えておけば日常生活に事足りるとのこと。
 これに対して英語における必須語彙数は、ざっくりで2,600~2,700語だそう。これって、TOEIC700点取得に必要とされる単語数に匹敵します。
 これが日本語となるとどうなるのか。研究者にもよりますが、だいたい8,000~10,000語くらいだろうと言われています。新聞を完全に理解する読解力になると、だいたいこの倍くらい。
 さらに文学のような上級編となると、慣用句や古語、そして俳句の季語など、いくつなのかどうでも良くなる次元に。俳句の季語だけでも、初心者向けポケット歳時記で約2,000語(副題含む)ありますからね。
 もっとさらに、言葉遊びや漢字の組み合わせなどで、どんどん語彙が無限増殖されていく始末。これでは日本人でさえノイローゼです。
「言語は生き物である」という言葉があります。言語も時代の流れの中でどんどん変化しているのですが、日本語はその新陳代謝が非常に早いのも特徴です。言葉遊びが好きな民族性なので、今でもネット上で新しい言葉がどんどん「開発」され、衰える気配がありません。

3.主語が略されて記述があいまい
 日本語の大きな特徴の一つに、主語をあいまいにしたり、省略したりすることがあるという点があります。『源氏物語』や三島由紀夫などの文学者を海外に紹介し、海外では「日本文学の権威とくればこの人」というドナルド・キーン氏が、日本語→英語の翻訳でいちばん難しいところにこれを挙げていました
 対して英語は、「主語+動詞+目的語」の形が絶対で、古くから伝わる慣用句を除いてこの語順が変わるということは、まず有りえません。当然、主語が省略されることなどもあり得ない。
 英語に限らず、ヨーロッパの言語は基本的に主語は略しません、いや、略せません
 スペイン語やイタリア語、ロシア語などは主語が省略されてるじゃねーかという反論も出てくるかと思いますが、あれは動詞の活用・変化で主語が誰かわかっているからこそ省略できるという条件がついています。英語はその特性を失っているからこそ、主語が絶対に、ぜぇ~~ったいに必要なのです。
 日本語の主語省略は、そんな制約なしに自由自在。主語が誰かは文の流れで解釈しろという、文面での空気嫁です。
 それが外国人には、そんな無茶苦茶な!と思えるのです。
 こんな会話があります。

彼氏「明日どこへ行きたい?」
彼女「東京ディズニーランドに行きたいな~」
彼氏「ごめん、給料日前でお金ないや・・・」
彼女「もう、バカ!」

 何気ない会話ですが、これ、全部主語が抜けています。
 我々は習慣で主語がわかりますが、その訓練を積んでいない外国人にはさっぱりわけわかめです。
 その証拠に、これを英語に訳すときにまずスタートさせる第一歩は、主語を確定させることです。何度も言いますが、欧米の言語には主語が絶対に必要なのです。
 その証拠に、上の会話をを英語に訳してみます。自分の頭の中で作成した手作り翻訳なので、英語間違ってるよということがあればご勘弁を。

彼氏:Where do you want to go tomorrow ?
彼女:I would like to go to Tokyo Disneyland...
彼氏:Oh my God ! I don't have money because it's before my payday.
彼女:Oh, that's silly !

 下線を引いた単語が主語(or主語に相当するもの)ですが、全部何かしらの主語がついているでしょ?主語がない日本語とは真逆です。
 名の知れた文学者の小説になると、もっと高度なテクニックで主語をボカします。
 これを知った時の本には、谷崎潤一郎の『細雪』が文例として載っていましたが、日本人でも誰が主語なのかわかりません。
 実際に『細雪』を英語に翻訳したキーン氏は、ぼかし方が上手いなーと感心しつつ、冷や汗をかきながら作業をしたとか。
 我々が日常から使っているもので、究極に略されている言葉があります。
 それが「よろしくお願いします」。
 これをいきなり英語で訳せと言われても、まず不可能です。
 最低でも「誰が」「何を」「どのように」お願いするのかを明確にしないと、翻訳(通訳)しようがありません。
 モンゴル力士の騒動で相撲界が揉めていましたが、その第一期生である元旭天鵬(現友綱親方)と元旭鷲山が、引退が決定した当時の部屋頭だった元旭道山に呼び出され、
「あとは頼んだぞ」
 と一言だけ言われたそうです。
「何を頼まれたのか、さっぱりわからなかった」
 と友綱親方は笑いながら当時を振り返っていました。その後自分が部屋頭になり、旭道山の言葉の意味を理解したのですが、それまで6~7年かかったそうです。
 「よろしくお願いします」は普段何気に使っていますが、コンパクトにまとめることが好きな日本人らしい、究極にミニマリズムな言葉と同時に、究極に空気読めなフレーズでもあります。

4.オノマトペが多い
 「オノマトペ」とは、擬音語と擬態語(擬声語)のことを言い、元々はフランス語の"onomatopee"から来ています。
 日本語のオノマトペの数は、確か日常会話で使われる表現だけでも600以上。学術的には5,000語以上だそうです。
 さらに、第二位の中国語(300ちょっと)のダブルスコアとぶっちぎり。ちなみに英語でだいたい170前後。確かに中国語も意外なほどオノマトペ表現が豊富ですが、それでも日本語の半分です。
 それだけ表現が豊富ということですが、数あるオノマトペの中でも日本語究極の奥義と言えるものは、

「シ~~ン」

 です。このオノマトペ、我々には意味がわかりますよね。
 音がないのを表現する擬音語・・・これだけで外国人は確実にテンパります。神様私はもう日本語が理解できませんと、跪いて祈り始めます
 パックンでお馴染みのパトリック・ハーラン氏が、今までいちばんビビった日本語がこれだだそうで、
「音がないのに音がある!?それこそWhy Japanese language!?ですよ」
 と、ハーバード大学の頭脳をもってしても完全にお手上げだそうです。当然、英語にはそんな言葉が存在しないので翻訳は不可能。
 マンガでも敢えて訳さず(ってか訳せない)、「シ~ン」のままだそうです。

5.方言が多い
 日本語には各地に方言が数多く残っています。しかも、最近は方言ブームか回帰の流れに傾いています。
 しかし、明治時代からつい最近まで、方言は「排除されるべきもの」として標準語に置き換えられる歴史を歩んできました。
 特に東北と沖縄方言は集中的に「弾圧」され、沖縄では学校で方言を話すと、
「私は方言をしゃべりました」
 という立て札を、学校にいる間首からぶら下げないといけなかったそうな。
 こういう話は、戦後の台湾でも聞いたことがあります。
 蒋介石が生きていた国民党時代の学校では、台湾語を話すと
「私は台湾語を話した悪い子です」
 と書かれたプラカードを首からぶら下げ、かつ罰金でした。
 台湾に住んでいた20年前、根っからの台湾人(外省人じゃないってこと)だった老師に、こんな話を日本で聞いたことあるんけど、本当?と聞いたら、
「うん、本当よ」
 と本人経験の具体例まで聞いたので、本当でしょう。
 しかし、同じことが沖縄でもあったことには、私もビックリでした。
 方言も形がない独自文化の一つ。形がないだけに、保存し大切にしないと後々、しまったとほぞを噛むことになります。
 それはさておき、よくある外国語の質問に、こういうものがあります。
「外国(語)にも方言ってあるの?」
 答えは、当然あります。
 中国語も、東京に当てはめれば中野区と杉並区で言葉が全く通じないほど方言差が激しく、アメリカやカナダ英語もイギリス目線なら「英語の北米方言」です。
 しかし、標準語とされているものと方言の「差」は、国・地域によってピンからキリまであります。ロシアのように、あれだけ国土がデカいのに方言差がほとんどない国もありますし。
 日本の方言のバラエティの豊かさに関しては、世界レベルで見ても相当豊かな方だと私は思っています。
「まるで外国語」の沖縄方言も、元をたどってみると上代日本語(奈良時代以前の日本語)の生き残り、言語学的にはウチナーグチ(沖縄弁)の方がむしろ「元祖日本語」だったりするし、以前記事にした「アホバカ分布図」のように、たかがアホバカの表現だけでもこれだけあるのかと、当の我々がビックリすることもありますね。
 それが逆に、外国人をして難しいと思わせる要因かなとも思います。
 たとえば、日本語が話せる外国人が、日本語で話かけてきたとしましょう。
 外国人慣れしている人ならば、相手の日本語の能力に合わせて標準語にしたり、簡単な言葉になおしたりと調節できます。何が好きで標準語を話さなあかんねん、という大阪ナショナリストの私も、外国人にはまず標準語で話します。そこから相手の日本語力を分析していくうち、
「こいつは大阪弁でええな」
 と判断すると、大阪弁丸出しにチェンジという具合です。
 しかし、慣れていないとついつい方言丸出しに話してしまい、リスニング力がついていない外国人は、
「ニホンゴハムズカシイデスネ」
 と当惑してしまうかもしれません。
 しかも、日本語の方言は標準語とは近そうで遠い、いや遠そうで近いというビミョーな立ち位置が、余計「ムズカシイ」とされてしまう原因かもしれません。
 方言どうしが外国語くらい離れている中国語の方言*2なら、「別言語」として別の脳で処理できますし。
 ちなみに、国立大阪大学の留学生日本語クラスには、選択科目で「関西弁講座」があり、漫才のリスニングもあるなどかなり本格的だそうです。

国が変われば状況も変わる
 ただし、以上のことはあくまでアメリカなど「英語をネイティブとした人たち」からの目線です。ヨーロッパの言語ネイティブ目線と言い換えてもいいでしょう。
 しかし、所変われば目線も変わる。
 我々が欧米の言語を勉強しようとしても、様々な壁にぶつかります。
 英語「以外」の欧州の言語を勉強すると、必ずぶつかる関門があります。それが名詞の「性」。名詞に「男性」と「女性」があるのですが、「太陽」は男性、でも「月」は女性。
 さらに、欧州の言語の古い体型を残しているドイツ語やロシア語(他スラブ系言語)になると、プラス「中性名詞」がある。オカマ名詞かい!と出会った当初は思ったものです。
 この名詞の「性」、ヨーロッパから遠く離れた「ナマステ」でお馴染みのインドのヒンディー語にもあるのですが*3、英語にはありません。いや、かつてはありました。15世紀にはなくなっちゃったのですが、何故なくなったのか、英語の歴史上最大級の謎です。
 名詞になんで男性、女性があるねんと、こちらはキレてしまいそうですが、欧米人目線から見ると、なんで日本語には名詞の「性」がないねんとキレてしまいます。
 欧米人が頭を抱える漢字も、中国人や台湾人など、中華圏の人にとっては楽勝の域です。
逆に中国語の学習でも、留学生の授業科目には当然の如く「漢字の書き取り」があるのですが、この科目は世界で唯一、日本人だけ完全免除だったりします。
 私も一度、

「あんた(ら日本人)は出なくていい!」

という老師の制止を振り切って(?)、怖いもの見たさに出てみたことがあります。が、我々が小学校でやった漢字ドリルのような授業に、なんだつまんないと退席してしまいました。だから言わんこっちゃない、と後で老師に笑われましたが。
 さらに、現代中国語の語彙の多くは日本語の熟語を輸入(カンニングですが、言語って盗った盗られたではない)したものが非常に多いので共通のものも多い。
 なので、中国や台湾の政府が同じ言語カテゴリーを作れば、日本語の難易度は低くなるはず。
 日本人にとって、いちばん習得が楽な言語が何かと聞かれれば、まちがいなく韓国語でしょう。
 まずは基本文法が同じなので、文法の勉強に費やすエネルギーが最小限で済む。
 次に、あの○とか□とか△・・・あ、三角はないか、が並んでいるハングルも、コツさえわかれば1日で覚えられます。
 韓国の事情は興味が無いのでわかりませんが、中国に住んでいる朝鮮族は、学校での外国語は英語の他に日本語も選択できるそうな*4。
 中国で仕事していた時の朝鮮族の部下いわく、9割は日本語取るんじゃないですかね~と言っており、
「現地の朝鮮族は、みんなけっこう日本語わかりますよ」
 とニヤリと笑っていました。
 おそらく韓国人も事情は似たようなもの。韓国外務省的目線なら、日本語はかなり簡単な部類に入ることでしょう。

「日本語は難しい」と言っても、目線を変えればまた難易度も違ってくる。
「外国語を一つ学ぶということは、違う目線で見るもう一つの目を養うことだ」

 とは誰が言ったのかわかりませんが、外国語学習者の間で長く言い伝えられている言葉です*5。この目線の切り替えスイッチを新設、または増設するのも、また外国語の勉強の一つ、いや外国語学習のゴールなのです。


「そしてバスは暴走した」

2018年01月17日 08時49分13秒 | 日本人論
NHKスペシャル「そしてバスは暴走した」
2016年4月30日:NHK

 あの痛ましい事故から2年が経ちました。
 “忘れない”目的で録画してあった番組を再視聴しました。

 その後、バス業界の労働環境は改善したのでしょうか?
 規制緩和による素人業者の参入はどうなっているのでしょうか?
 検証番組を見てみたいですね。

<内容>
 13人の大学生の命を奪った、1月のスキーバス事故。遺族のひとりは、「事故は日本が抱えるひずみによって発生したように思えてなりません」と語った。これまでも、大阪や群馬で、乗客や乗員が死亡する事故が起き、その度に規制が強化されてきたはずだった。それにもかかわらず、事故はまた起きてしまった。NHKは今回、貸し切りバスの現場にカメラを入れ、業界の今をつぶさに記録した。そこから見えてきたのは、運転手不足から、高齢のドライバーが過酷な勤務を担っている現実、そして、利益優先で安全対策を怠る会社が跋扈する実態・・・。なぜ、こうした事態に至ったのか。業界の姿と私たちの社会のあり方を見つめる。



★ 放送を終えて(報道局ディレクター 多田篤司)
 学生時代はもとより、社会人になっても頻繁にバスを使っていた私にとって、1月に長野県軽井沢町で起きたスキーバスの事故は痛ましく、衝撃でもあり、「また大きなバス事故が起きてしまった」という思いを強く持ちました。4年前に関越自動車道の壁にバスが衝突した事故の印象が強く心に残っていたからです。なぜ、こうもバスの重大事故が繰り返されるのか、その背景に何があるのか。この3か月間、記者と共に、バス会社やドライバー、行政など関係者に取材を重ね、放送に至りました。
 取材を通して実感したのは、業界に蔓延する安全軽視の体質です。事故を起こしたバス会社は、「運行管理者」の資格を持つ人物が、ずさんな運営を繰り返していました。異業種から参入した経営陣は、運行管理者に任せきりで、その状態を是正しませんでした。深刻なのは、こうしたバス会社が少なくないことです。取材に応じた中小のバス会社は、法令を遵守した運行ができるのは体制的にも設備的にも一部の企業だけ、と現実を語りました。
 法令違反の有無をチェックするのは国の監査ですが、それを担う人員が不足しています。外国人観光客が急増し、バスの需要が高まる中、事業の許可取り消しやバスの使用停止などの処分をどこまで強化できるのか、懸念を示す関係者もいました。問題点の多くは、過去の事故でも指摘されていたのですが、業界の体質は根本的に改善されることはなく、その中で今回の事故は起きたのだと思います。
 事故から間もない中で、複数のご遺族と怪我をされた方々が撮影に応じて下さいました。「事故を繰り返してほしくない」という思いからでした。この思いをバス業界、そして社会がどう受け止め、対策を打っていけるのか。やらなければいけないことは山積しています。


 より詳しい番組内容をみつけました(下線は私が引きました)。
 数々の事故の要因が明るみに出てきて、よくもまあこれだけリスクを抱えられたものだと思いました。
 そしてバス業界のルールを熟知していたはずの“運行管理者”が確信犯として無謀な経営をしていたことが明らかに・・・彼は“犯罪者”ですね。
 しかし、乗客を殺した前科2犯のこの男は逮捕も謙虚もされることなく、他のバス会社からオファーがかかっていると番組の最後の方で紹介されました。
 まだ犠牲者が出る状況が野放しです。
 日本ってこんな国でしたっけ?

<番組概要>gooテレビ番組
 この春、早稲田大学を卒業する予定だった女性。就職も決まり、社会に出て活躍する日を楽しみにしていた。女性は3カ月前、長野・軽井沢で起きた事故に巻き込まれた。事故を起こしたバス会社は2年前に新規参入したばかり。事業を急拡大させる中で、安全を軽視していた実態があった。事故を起こしたバスは底に穴が開き、メーカーに注意されていたほか、ドライバーは適性検査で事後を起こしやすいともされていた。未来ある13名が巻き込まれたバスの暴走までの軌跡を追った。
 全国にある貸切バスは約4万9000台。利用者は増え続け、年間3億人を超えている。旅行会社では外国人観光客が殺到しているため、バスを確保するのが難しい状況が続いている。国は環境立国を掲げ、日本を訪れる外国人の数を2020年に年間4000万人までに増やそうとしている。バス業界が大きく変わるきっかけは規制緩和だった。バス会社の数はそれまでの倍ちかい4477社まで急増した。競争が激しくなり、格安ツアーも次々と生まれた。一方、各地で多くの人が死傷する重大な事故が繰り返され、その度に運転手の労働環境の改善や安値競争に歯止めをかける対策が強化されてきたはずだった。
 今年1月、原宿を深夜に出発し、長野・斑尾高原に向かうスキーツアーに乗っていたのは若者ばかり、39人だった。バスは高速道路を降り、一般道の峠道に入った。峠を超えた下り坂でバスが暴走し、道路脇の林に突っ込んだ。事故で命を取り留めた人たちも、目の前で友人を亡くし、心と身体に深い傷を追っている。
 事故を起こした「イーエスピー」を取材。貸切バス業の許可を取り消され、社長は今は事業の整理にあたっていた。社長は「改めて本当に謝罪の気持ちと、申し訳ないなという気持ちでいっぱいになります」と語った。もともとは畑違いの中古車販売の会社からスタートした。バブル景気の波に乗り、中古車の売り上げは一時は100億円近くに達した。しかしその後の景気の低迷で業績が悪化。多額の負債を抱えた。2年前に新たな収益の柱として、活況に湧いていたバス事業に目をつけた。社長は「東京オリンピックまでは右肩上がりで行くんじゃないのかと思っていた」「需要は換気されるだろうと」と語った。事業を始めるのは簡単だったという。国の規制緩和で参入のハードルは大幅に下がっていた。かつては年式が5年以内の新しいバス、7台の保有が参入の要件だったが、現在は古いバスでも3台あれば事業が始められる。16年前の規制緩和以来、バス会社はそれまでの2倍近い4500社に増えた。9割以上が中小のバス会社で、イーエスピーのように異業種からの参入も少なくない。新規参入したイーエスピーは、仕事獲得のため国のルールを無視した安い運賃で運転を請け負っていった。国は旅行会社がバス会社に払う運賃の下限を定めている。安全のために不可欠としてかつての事故を教訓にしたルールだが、イーエスピーはこの下限額を大幅に下回る安値で仕事を請け負っていた。事故が起きたスキーツアーは業界最安値をうたっていた
 会社の幹部は下限額のルールがあることすら知らなかったことが、今回の取材で明らかになった。営業部長は「大変お恥ずかしい話、私なんかは下限額があることさえ知らなかった」と語った。旅行会社との間で運賃を決めていた運行管理者の資格を持っていた人物だが、この人物はかつて別のバス会社でも運行管理者をつとめ、40人以上が重軽傷を負った事故を引き起こしていた。事故後に社内で行われた運行管理者に対する聞き取り調査では、運行管理者は契約書も交わさないずさんな取引を行なっていたことを認めた。ルールを無視した運営を続けながら仕事を獲得していた。バスはわずか2年で3台から12台まで増えた。営業部長は「正しい仕事の流れは、ドライバーをまず雇う、教える、走れるようになったら仕事を取りに行く、仕事が取れたらバスを買う」「なのにうちは先に仕事を取っちゃう。それでバスを用意する。ドライバーは慌てて用意する。その流れがそもそもおかしい」と語った
 事故を起こしたバスは、イーエスピーが次々と購入していた中古バスのうちの1台だった。点検の際、その車両の底にはサビが広がり、至る所に穴が開いていることが見つかった。腐食が進むとハンドルが効かなくなるおそれがあるとして、メーカーは当時の所有会社に使用は危険だと警告していた。イーエスピーはこの車両を相場価格の1400万円で購入した。バスの元所有者は「サビの広がりは聞いていたが危険だとは認識していなかった」としている。
 3カ月前、39人の若者たちを乗せ暴走したバスのハンドルを握っていたのは事故で死亡した高齢のドライバー。ドライバー適性検査では、注意力や動作の正確さが極端に低いという結果だった。都内のアパートで一人暮らしをしていたドライバーは、ここ数年、周囲に金を借りるなど、苦しい生活を送っていたという。かつては、和菓子を製造する会社に務め、妻子もいたが、離婚後借金を抱えていた。大型二種免許保有者の半数近くが65際以上。定年後、別のバス会社に非正規の運転手として雇われ、賃金は日払いで少ない時には月6万円程だった。当時、ドライバーは大型バスを避け、運転のしやすい比較的小さいバスにしか乗っていなかった。去年の末、家賃を支払えないほど追いつめられていたドライバーはかつての同僚に「いい仕事はないか」と尋ねていた。去年生活に困窮していたドライバーがたどり着いたのが、運転手を募集していたイーエスピーだった。大型バスの運転を嫌がっていたはずだが、面接では運転できると話したという。賃金は日払いで1万円程だった。採用を決めたのは運行管理社だった。
 事故原因の捜査は続いている。ドライバーの遺品に残されたのは、スキーツアーの仕事で得た1万678円だった。遺骨は引き取り手のないまま、都内の寺の無縁供養塔に納められている。ずさんな安全管理の末に暴走したバスで命を奪われた13人。19~22歳の、それぞれに夢を持った若者たちだった。犠牲者を悼む家族は、バスは安全だと信じていた。「本当にもう二度とこのような事故が起こらないように対策を考えていって欲しい」と述べた。
 今回の事故を受け、国は新たに有識者会議を設け、新たな規制を検討している。会議ではチェック体制を強化し、悪質な業者を排除すべきだという意見があがった。繰り返される事故の後も、現場は何も変わっていない。ドライバーからは懸念の声があがっている。安全が軽視されている実態を伝えたいと解雇覚悟で取材に応じたドライバーがいた。去年、運転手の健康管理や労働時間の違反で警告を受けた。取材中に会社から連絡が入った。15日間連続で働いて欲しいという内容だった。ドライバーは亡くなった兄の葬儀に参列するため、休暇を求めたが認められなかった。先月ドライバーは会社に退職を申し入れた。しかし人出が足りないから辞めないで欲しいと頼まれ、やむなく仕事を続けている。
 事故の犠牲者の父の元に、事故後、警察から遺品が届けられた。遺族たちは、国やバス業界に声を上げていこうと決意している。
 事故後、バス事業許可を取り消されたイーエスピー。所有していたバスは全て売却した。事故を2度起こした運行管理者は現場を去ったが、既に別の運行会社から誘いを受けているという。事故は命の重みを顧みずにきた、社会の姿を映し出している。
 事故から3カ月。今度こそ暴走を止められるのでしょうか、と投げかけた。


柳田国男の氏神論「日本の神の中心は先祖である」

2018年01月11日 08時18分35秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第四章より。

 著者は柳田国男の『先祖の話』という書物から氏神論を抽出しています。
 氏神とは先祖の霊の融合した霊体であり、それは同時に稲作を守る田の神であり、家と子孫の繁栄を願う神である、とする考え方が日本各地の民俗伝承から帰納できる、とのこと。

『先祖の話』の氏神論のポイント
①あの世とこの世とは近い、死者と生者との境は近い、と考えられてきた。
②遺骸を保存する慣行は民間には行われず、肉体の消滅を自然のものと受け入れて、霊魂の去来を自由にすることをよしとする考え方が伝えられてきた。
③死者の霊魂は、その祀り手が必要だ、と考えられてきた。
④その祀りを受けて死者は個性を失い、やがて先祖という霊体に融合していく、と考えられてきた。
⑤その先祖の霊は、子孫の繁栄を願う霊体であり、子孫を守る霊体である、と考えられてきた。
⑥その子孫の繁栄を願う霊体は、盆と正月に子孫の家に招かれて、その家と子孫の繁栄を守る神でもある、と考えられてきた。
⑦子孫の繁栄を守るその先祖の霊こそが、稲作の守り神であり、季節の巡りの中で、大和多を去来する田の神であり山の神でもある、と考えられてきた。
⑧その先祖の霊であり、田の神でもある神こそ、村の繁栄を守る氏神として敬われている神でもある、と考えられてきた。
⑨老人には無理だが、子どもや若い死者の霊魂は生まれ変わることができる、と考えられてきた。
⑩この度の戦争で死んだ若者達のためにも、その祀りが是非とも必要である。
⑪この度の戦時下から戦後への混乱の時代こそ、未来のことを考えるためには、古くからの慣習をよく知ることが肝要である。国民を、それぞれ賢明にならしむる道は、学問より他にない。

日本の神の中心は先祖である
 柳田が日本各地の民俗伝承の比較研究の視点によって導き出した日本の神の中心は、先祖であり、先祖の御魂(みたま)であった。
 ただし、死者はその死後ただちに先祖様になるのではない。死者は死の穢れに満ちた「荒忌」の「荒御魂」(あらみたま)であり、それが子孫の供養と祀りを受けて死の汚れが清まってから、先祖の列に加わっていく。その大きな隔絶の線は、およそ三十三年忌の弔い上げと考えていた。
 個々の祖霊が個性を捨てて先祖として融合したものこそが、日本の各地の郷土の信仰の中心であるところの氏神に他ならない。

「村氏神」←「屋敷氏神」←「一門氏神」
 氏神は上記3つに分けられる。氏神とは、元来は藤原氏と春日社のように、氏ごとに一つあるべき神であったのが、古代から中世、近世へという長い歴史の展開の中で大きなまた多様な変化があり、その結果として、現在では3つのタイプが見られるようになった。
(村氏神)・・・「或一定の地域内に住む者は全部、氏子としてその祭に奉仕している氏神社」
(屋敷氏神)・・・「屋敷即ち農民の住宅地の一隅に、斎き祀られている祠で、(中略)こういう屋敷付属の小さな祠だけを氏神と謂っている地方は存外に広い。千葉茨城栃木の諸県、東北はほぼ一体に層だと言ってよい。大体に国の端々、中央から遠ざかった治法にもこの例が多いかと思われるのは、偶然の現象ではなかろう」
(一門氏神)・・・「特定の家に属する者ばかりが、合同して年々の祭祀を営むという、マキの氏神または一門氏神というものが、今も地方によっては残っている。
 分布の上からも「屋敷氏神」は「村氏神」の形態よりも古い氏神の形態と考えられ、さらに「一門氏神」の形態こそが、もっとも古い氏神の形態を伝承している。


 本書には、続いて折口信夫の神道論の項目があります。
 しかしどうも私は昔から折口氏の説を読んでもピンときません。柳田の学説は、(ときにユニークな発想もありますが)豊富なフィールドワークのデータから帰納的に導き出したものと頷けます。
 一方、折口氏の学説は彼の創造物あるいはファンタジーの要素が大きいような気がしてちょっとついて行けないのです。

神社の歴史的変遷と多様性

2018年01月10日 08時19分42秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第三章より。

 長らく私が知りたかった神社の真実がこの項目に書かれていました。
 神社の多様性は、こんなふうにして生まれて展開してきたのですねえ。
 変遷の歴史の中で、変化しなかったコアの部分とは「心のよりどころ」「一致団結ためのシステム」でしょうか。

<近畿地方での神社の変遷>
(平安時代)荘園領主によって荘園鎮守社として創建された。
(鎌倉時代)荘園の現地経営に当たっていた在地武士達にとっての氏神となる
(江戸時代)荘園は懈怠されそれを校正していた村落の住民にとって村の氏神に位置づけられるようになった。

荘園鎮守社
 平安京を中心とする畿内に拠点を構える荘園領主が任命し現地に派遣する専門的な祭祀職能者が中心となり、現地では荘官として荘園経営に当たる公文や地頭など呼ばれた在地武士が世俗的にそれを支える形が一般的であった。

宮座祭祀
 中世(鎌倉時代)の在地武士の氏神へ展開していく中で、その有力撫しそうの間で順番に当屋を決めて祭祀する宮座祭祀という方式がとられるようになった。

村落祭祀
 近世社会(江戸時代)の村落祭祀へと展開すると、有力な村落住民の間で順番に当屋を決めて一年神主として務める宮座祭祀の形がとられるようになり、現在に至る。

<近畿地方以外での神社の変遷>
(例として本書では中国地方の広島県北広島町を取り上げている)

(第一段階)山の神や田の神や水の神などへの素朴な土着的な神々への信仰
(第二段階)大歳神(おおとしのかみ)や黄幡神(おうばんしん)など古代中世の時代に浸透してきた外来的な神々への信仰
(第三段階)中世の戦乱の時代に在地支配の権力闘争の中で中小武士層が導入した熊野新宮社などの信仰
(第四段階)より強力な戦国武将が台頭して導入し村落農民層との呼応関係の中で定着化させていった八幡神社の信仰

熊野新宮社の勧請
 南北朝期からそれ以降の一定の時期に、熊野新宮の御師(おし)の活動かあるいはその他の要因かで、この地域に熊野新宮社の勧請という波動が起こっていた。神仏習合と修験道をも加えた霊験あらたかな熊野権現の信仰は、戦乱の相次ぐこの地域の在地領主層にも受け入れられたのであろう。

大歳神・大歳神社
 大歳神は古い文献では古代以来の農作稲作の神であり、その後は陰陽道の大歳神(だいさいしん)の信仰が集合するなどして、西日本の各地で祭られている神である。
 在地経済の持続的継続性の上で最も肝要なのは、「武運長久」とならぶ「五穀豊穣」「庄民快楽」「子孫繁盛」であり、それは農業生産の守護神としての大歳神社の信仰が、現地の経営上、領主にも領民にも広く浸透し共有されてきていたことが推定される。神社名は別でも境内社に大歳神を祭っているところが多い。

郷村の氏神の変遷と多様性
(古い由緒を持つ氏神の神社)中世以来の在地領主層が大檀那として祭り領民もそれに参加してきた神社
(村ごとの氏神)在地領主層の支持もありながら、あくまでも村民が主体となって祭ってきた神社
(小字ごとの小さな神社)その小字の人達がもっとも身近な自分たちの守り神として祭ってきた神社

「律令祭祀制」と「平安祭祀制」と「一宮制」

2018年01月10日 06時46分20秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 古代日本における神祇祭祀には国が定めたルールがありました。

律令祭祀制)7世紀末〜8世紀初頭の天武朝〜大宝年間にかけて形成され、神祇令を中心とした。
平安祭祀制)9世紀〜10精機にかけて新たに形成された。

 この二つは時代的な推移の中でしばらくは共存・並行しながらも、やがて前者から後者へと移行したとのこと。
 他の本でも、昔々の地方の大きな神社は「官社」として中央からもの(幣帛)をもらうとともに支配を受けていたと読んだことがあります。時代とともにそれが少しずつ崩れ、地方では「一宮制」が広がっていったのです。

 群馬県では「群馬総社」という地名がありますが、これは平安時代に成立した神拝制度の名称が残っているのですねえ。

「律令祭祀制」の特徴
①神祇官による運営
②年中4度の祭祀、つまり祈年祭・月次(つきなみ)祭・新嘗祭が中心
③全国の官社を対象としてその祝部(はふりべ)が朝廷に幣帛(※)を受け取りに来る幣帛班給制度があった。

※ 幣帛(へいはく):
 神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称である。広義には神饌をも含む。みてぐら、幣物(へいもつ)とも言う。「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すものである。
『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。
幣帛は捧げ物であると同時に神の依り代とも考えられていたため、串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻なども「幣帛」と呼ぶ。
Wikipedia


「平安祭祀制」の特徴
・国家祭祀と天皇祭祀とが重なり合い、やがて天皇祭祀の性格が濃厚となる。
・律令祭祀制のもとでの全国の官社を対象とする幣帛班給制度から、新たな平安祭祀制のもとで京畿を中心とする十六社やのちに二十二社など特定の有力大社を対象とする奉幣制度へと転換した。
・旧来の祈年祭や新嘗祭とは別の臨時祭が重視されるようになった。
・二十二社の中の有力神社である賀茂社や石清水八幡宮などへの天皇の神社行幸が盛んに行われるようになった。
・天皇祭祀の対象となった中央の二十二社が「王城鎮守」と位置づけられるようになった。

「一宮制」の成立
 奈良〜平安時代に地方諸国の神社で成立していった制度。
 古くは律令祭祀制のもとで地方の官社への幣帛班給制度(班幣制度)が行われていたが、遠隔地の神社の中には幣帛を受け取りに来ないところもあった。そこで798年に全国の官社を二系統に分けて、神祇官から幣帛を直接受け取る官幣社と、諸国の国司を通して幣帛を受け取る国幣社とに区別することとした。国司は朝廷から任命されて痴呆の任地へ赴くと、その国内の有力神社への巡拝と班幣を行うこととなり、それが「国司神拝」と呼ばれるものであった。
 その後、平安中後期になると、国司の巡拝は任国内の有力な神社から順番に行われるようになり、その国司が巡拝する順番によって一宮、二宮、三宮と呼ばれるようになった。
 それがやがて、巡拝を煩わしく思う国司の場合、国内の有力な祭神を一つの神社に勧請して集めて祀り、その神社に参拝することで神拝を済ませることとして、そのような神社が惣社(総社)と呼ばれた。
 このような祭祀形態は一方で、任国に下向しなくなった国司に代わって地方行政の中心的な存在となった在庁官人たちにとって、その自らの神社祭祀の対象であり権威の象徴としての意味を持つこととなった。

平安朝の神祇祭祀・神社制度のまとめ
 以上より、平安京の天皇と摂関貴族にとっての中央の二十二社制と、地方国司と在庁官人にとっての一宮制という、国内神祇祭祀の上での相互補完の体制ができあがり、二十二社が「王城鎮守」、一宮が「国鎮守」と呼ばれた。
 鎮守や鎮守神とは、中世日本の神祇体系の中で成立していった神々の呼称であり、その意味での国家鎮護の思想の元での位置づけを表す呼称なのであった。

「鎮守」の意味の変遷・拡大
 鎮守とは、中世社会で生み出された呼称と概念であったが、その後、近世社会では意味を広げながら流通していった。江戸時代の記録によると、郷村で祀られている神社のことを意味する呼称となり、郷村の氏神とほぼ同じ意味の呼称となっていった。

村の神社における「氏神」と「氏子」

2018年01月09日 07時51分53秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神と氏子の関係を扱った項目です。
 昔々からの自然崇拝が連綿と続いてきた、とイメージしがちですが、「村の鎮守さま」という現在のような関係に落ち着いたのは、江戸時代の近世以降のようですね。

氏神は氏子の先祖神ではなく、氏子は氏神の子孫ではない。
 室町時代の記録に、村人が祀る郷村の神を氏神と呼ぶようになったと記されており、中世から近世への郷村制の展開に伴い、有力農民層を氏子とする郷村ごとの氏神祭祀が見られるようになったようである。
 近世幕藩体制下の村請制度のもとでは村落という地域的単位が重視されたために、それぞれの地域社会の構成員が氏子、そしてその守り神が氏神という関係ができあがった。それは出身地の神社に氏子身分を固定化するものでもあり、近代へと連続するものであった。

寺請制度→ 郷社氏子制→ 戸籍制度
 明治政府は神仏分離の政策をとるとともに従来の寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍整備のための氏子制度の法制化を図り、全国民を郷社の氏子として登録することにした(氏子札発行)が数年で方針転換し戸籍法へ取って代わられた。
 しかしその後も国家神道の体制下での行政指導は継続され、法的制度としてではなく、習俗や慣行としての氏子制度が地域社会に強力な規制力をもつものとして、第二次世界大戦終結まで大きな機能を果たした。
 戦後は神社神道が宗教法人化して神社に対する国家の保護が廃止されたため、氏神と氏子の地域住民に対する規制力は失われたが、習俗や慣行としての氏神祭祀と氏子制度は依然として日本の地域社会では大きな機能を果たしている。

氏神の意味は3種類ある
A:氏神の祖神
B:氏神がその本貫地(※)で祭る神
C:氏族の守り神

※ 本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。 転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。

(例1)藤原氏と鹿嶋社・香取神:C→ Aを追加
 藤原氏の祭る氏神は8世紀後半には鹿嶋社と香取神の二柱であったのが、9世紀前半になると枚岡社が祭る神話的世界の中臣連の祖神である天之子八根命と比売神の二神を加え四柱へとなっていく。平城京の段階では氏族の守り神という意味であった氏神が、平安京の時代には藤原氏は奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という四社を祭り、旧来の守り神としての建御賀豆智命と伊波比主命の二神に加えて、祖神としての天之子八根命と比売神の二神を加え四神となっていった。

(例2)清和源氏と八幡神:C→ Aへ変化
 八幡神はもともと玄寺とは関係なく、古代国家にとって国内外含めて国家鎮守の神であった。それが10世紀以降に三韓征伐(※)の神話伝承に関連して応神天皇を中心にその后神と母神の神功皇后のいわゆる八幡三所の神を祭る段階へと展開していった。そしてその時期に、鎮守府将軍源頼義とその嫡男源義家によって夷敵を征圧する武闘武勇の守護神として進行されるようになり、そこから転じて源氏の氏神であり祖神であるという形へとなっていった。
 国家鎮護と武勇の神である八幡神への信仰を中心にしながら、八幡三所とされていった応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけて一族の祖神という性格が付加された。

三韓征伐(さんかんせいばつ)
 神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。


(例3)古代氏族の本貫地に祭られる神の存続:B
 このタイプの底流的な存続とその変遷の延長上にある氏神が、やがて近世社会に定着してくる郷村の氏神の姿。

八幡信仰と清和源氏と応神天皇

2018年01月07日 16時56分10秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 全国にあまた存在する八幡神社・八幡宮。
 この広がりは、源氏の力によるところが大きいようです。
 源氏がその守護神と位置づけてから、武士の時代に“武勇の神”として全国の村々が我先に勧請した勢いを感じられます。
 でも、もともとは九州の巨石信仰であり、渡来神の影響を受けつつ展開し、のちに応神天皇や源氏と結びついていったとは、意外な驚きでした。

□ 八幡信仰と清和源氏
 京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は清和源氏の氏神として知られている。八幡神は八幡大菩薩との呼ばれ、神仏習合の典型的な神である。氏神とは言っても清和源氏の一族の先祖の神ではない。

□ 八幡信仰の始まりと広がり
 八幡信仰の根本創始は豊前の宇佐八幡宮である。それが平安時代に京都に勧請されて石清水八幡宮として創建され(859年)、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮として源頼朝により勧請された(1180年)。
 それ以前のことを細かく書くと、
①宇佐八幡宮の前身は近くにある大元山(御許山:おもとやま)の馬城峯(まきのみね)の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座祭祀であった。
②御許山の巨石信仰は土着の豪族宇佐氏が祀っていたと推定されるが、それに渡来系氏族で宇佐に住みついた辛嶋氏が祀っていた神と、大和からやってきた大神(おおが)氏が関与しながら形成されたのが八幡信仰である。
③平城京の宮廷にとって八幡神は鎮護国家の祈祷を行う神社のうちの一つに位置づけられていた。
④(749年)『続日本紀』に、宇佐の八幡大神が天神地祇を率いて大仏造立の成就への協力を誓う旨の託宣を下している。東大寺の建立とともに、その守護神として宇佐八幡神が勧請され手向山八幡宮として祀られた。

□ 石清水八幡宮
 平城京(奈良時代)にとって宇佐八幡宮は鎮護国家的な護国神であったが、清和天皇の平安京では王城鎮護的な護国神となっていったのが石清水八幡宮である。
 鎌倉時代に編纂された書物には、石清水八幡宮を天皇家の先祖を祀った神社と位置づけている。その祭神は、宇佐でも創祀の頃とは異なり、記紀神話が伝える三韓征伐、新羅征討の神功皇后とその皇子の応神天皇へと仮託されてきていた。
 八幡大菩薩と呼ばれる神仏習合の典型でもある八幡神を応神天皇になぞらえるようになったのは、弘仁年間(810〜824年)頃からと考えられる。
 京都の東北方の艮(うしとら)の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、西南方の巽の裏鬼門を守るのが石清水八幡宮であり、まさに平安京を守る王城鎮護の神社として周知されるようになり、決して清和源氏にとってだけの特別な神社ではなかった。
 石清水八幡宮の古文書「田中文書」(1046年)には「八幡大菩薩」は応神天皇でありそれは自分たち清和源氏の二十二代の始祖である」という記述がある(史実<伝承?)。
 『吾妻鏡』(1180年)には源頼義が1062年に八幡三所に丹精祈願を込めた伝承を記しており、1063年には頼義はひそかに石清水八幡宮の御神霊を勧請して、相模国鎌倉の由比郷に鶴岡八幡の瑞籬を建立、その鶴岡八幡宮を源頼朝があらためて小林郷の北山の地に遷座した、と記されている。その後頼朝は、そこで「為崇祖宗」(先祖の頼義・義家父子を輝かしき武門の誉れとして尊崇し、その先祖が記念し祭祀したという八幡神をこれから源氏の守り神として崇拝祭祀していくという姿勢表明)した。
 源義家が“八幡太郎”と呼ばれるのは、父親の頼義が石清水八幡宮に参詣したときの「霊夢之告」によるものである、という伝説がある。

平家と氏神
 文献によると、厳島神社は平家にとっては氏神であり、安芸国にとっては鎮守である、と理解されていた。
 平家一門はまもなく滅亡して氏神を祀るという伝承は消えていったが、源氏は頼朝の時代からのちの時代にまで長く武門の棟梁としての位置を占め、その御家人たちによって鶴岡八幡の系統に連なる八幡神社が各地に勧請されて尊崇の対象となっていった。

八幡三所の神
・第一段階:鎮座の原点の古代の渡来系の神であり、かつ八幡大菩薩として神仏習合の神であり、国家鎮守の威力ある神であった。
・第二段階:10世紀以降、応神天皇を中心にその母神の神功皇后を祀る段階へ展開し、源頼義は八幡三所の応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけた。しかし、源氏の八幡信仰はもともとは武闘と武勇の一族の守り神という意味が中心であり、一族の先祖神としての性格はなかった。先祖神というのはいわば後付けである。
 八幡神は古代は国家鎮護の神であり、それが源氏によって武勇の一門の守護神へと読み替えられ、読み込まれていった。


「氏神」と「産土神」と「鎮守神」

2018年01月07日 16時11分06秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神、産土神、鎮守神・・・似たようなイメージがありますが、はて、民俗学的にいうと違いがあるのでしょうか。
 どうやら、氏神と産土神は同類ですが、鎮守神は鎮護と似ていて「いくさ(戦)」との関連が強いようです。政権レベルでは「王城鎮守」、対近隣国では「国鎮守」、地域レベルでは「郡鎮守」となります。
 確かに武士の時代、「○○神社で戦勝祈願をして出兵した」という話をよく聞きますね。
 それが歴史の流れの中で、戦に明け暮れる時代から平和な時代になるとともに、村の守り神に変容し区別が曖昧になっていったのでしょう。

 この書籍では、歴史的文献から紐解き、部分的に近畿地方の神社を取り上げて解説しています。

氏神は氏族の本貫地に祀られている在地性の強い氏神であり、そこで先祖を祭るという意識もあった。
 律令官人達にとって氏神が平安京や平城京に近い畿内に多く祀られており、毎年2月・4月・11月に「先祖之常祀」が行われていた。つまり、律令官人達の出身宇治族にとってその本貫地に氏神を祀る神社を設営している例が多かったこと、そしてその祭祀には春秋の2季があり、稲作の祈年祭と収穫祭の性格があったのではないか。

□ 文献上の「氏神」
(733年)『万葉集』に「大伴氏神」として初出。大伴連の遠祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)を指しており、祖神という意味と考えられる。

□ 文献上、官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が散見される
(772年)正倉院文書の請暇解(せいかげ)
(834年)『続日本後紀』に小野氏(小野妹子の出身氏族)が近江国の滋賀郡小野村を本貫地としており、その地に氏神を祀っていて春秋の祭祀には現地に赴いて奉仕していたという記録あり。

□ 藤原氏と氏神
(777年)『続日本紀』に藤原良継が病気になったので、藤原氏の氏神である鹿嶋社と香取神にそれぞれ正三位と正四位上の神階を授けたという記録がある。
 藤原氏の元の氏は中臣連であり、『古事記』『日本書紀』が記すその祖神は天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
 つまり、藤原氏の氏神は、氏の祖神ではないということになる。
 奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という藤原氏の祭る神社について整理すると、藤原氏の氏神は、はじめのうちは鹿嶋社・香取社の「鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命」であったのが、のちには枚岡社の「枚岡坐天之子八根命、比売神」を加えていった。
 藤原氏の場合、氏神の意味がはじめ平城京の時代には“守護神”であったものが、のちに平安京の時代には“祖神”をいう意味が加わっていった。

「氏神ー氏子」と「産神(うぶすな、うぶがみ)ー産子」
 1800年頃の古文書によると、安芸国や甲斐国、甲州、肥後国では氏神を産神と考え、氏子を産子と考える傾向があった。

「うぶすな」の意味
 生まれた土地の神を「うぶすな」の神と呼ぶ早い例として確かなものは『今昔物語集』である。
 鎌倉時代の辞書『塵袋』によると、うぶすなとは、それぞれの氏の本拠の地をいうのであったが、それがやがてその本拠の地で祭る神の意味へとなった。

氏神と鎮守
 尋常小学唱歌の「村祭」に「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭日」という歌詞がある。
 郷村で祭られている神社は、概して近畿地方から中国地方など西日本では氏神と呼ばれるのに対して、北関東地方など東日本では氏神ではなく鎮守と呼ばれることが多い。
 関東地方ではウジガミといえば家ごとに祭る屋敷神の呼称である例が多いのに対して、郷村で祭る神社のことは鎮守と呼ぶ例が多い。

文献上の「鎮守」
(737年)『続日本紀』:軍事的な意味で用いられている。
(939年)『本朝世紀』:神祇に関する意味で初めて用いられた。
(1004年)『本朝分粋』:熱田の祭神を「鎮主」と表現している。
(1083年)「賀茂社桜会縁起」:賀茂社(※)の神が「鎮守」と表現されている。
(1123年)白河法皇が石清水八幡宮に捧げた告文より、白河法皇にとって石清水八幡宮の八幡大菩薩は、国家鎮護の神仏であり国家の鎮守として位置づけられていた。
(1145年)豊後国柚原八幡宮の解文によると八幡宮と八幡大菩薩が鎮守の神であることが院政期には平安京だけでなく地方でも見られるようになった。
(1147年)鳥羽上皇の院宣より、平安京で祇園社、祇園感神院が国家の鎮守に位置づけられるようになっていた。
(1161年)石山寺に伝わる聖人覚西の祭文によると、国鎮守は近江国の建部神社、郡鎮守は高島郡の水尾神社、そしてその下に荘郷鎮守が祭られていると読み取れ、「王城鎮守」「国鎮守」「郡鎮守」などの表現が現れてきた。

賀茂社の伝承
「山城国風土記逸文」によれば、賀茂社はもともと賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)が丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)との間にもうけたのが玉依比古と玉依比売であり、その玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしているときに流れてきた丹塗矢を拾って身ごもり誕生したのが賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)で、それらの神々を祭神とする神社である。そして玉依比古は賀茂県主らの遠祖であるとされる。

神社祭祀・祭祀形式の変遷

2018年01月07日 15時32分07秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第一章より。

 古代日本の神社祭祀が始まった頃の形態を扱った項目です。
 自然物(巨岩・巨石)そのものを神として祀ったものが最古とされ、神域の設定、臨時の祭祀場設置から常設建築へと長い時間をかけて変遷してきました。

日本の神祇祭祀の基本
・文献資料からは「祠」「社」「宮」などの建造物
・考古資料からは「磐座(※1)祭祀」「禁足地(※2)祭祀」
ーが古態であった。

※1) 磐座(いわくら):社殿が建てられる以前の古代の神社は「巨石(=磐座)などの自然物を祀る祭祀施設」であった。
※2)禁足地:足を踏み入れることを禁じた神域


祭祀方式の変遷
1.磐座祭祀
2.禁足地祭祀
3.祭地への神籬(※3)設置
4.祭地への臨時的な社殿設置
5.常設の宮殿設営

※3)神籬(ひもろぎ):神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、 臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

□ 古文献上の“神社”
(659年)『日本書紀』に「神の宮」という単語(現在の出雲大社を指す)
(684年)『日本書紀』に「寺塔神社」という単語

□ 飛鳥時代の神社祭祀
 天皇と国家の祭祀として、五穀豊穣と風水害を避ける祭祀が整備された。孟夏4月の広瀬大忌神祭と孟秋7月の龍田風神祭が、毎年2回定期的に制度的に行われるようになり、その際、各地の「諸社」(もろもろのやしろ)にも使いを遣わして幣帛をまつるのが慣例とされた。

□ 「祠」「社」「宮」
 これらの言葉は、『日本書紀』や『古事記』において古代の神々を祀るための装置として使われている。そしてそれらは、いずれも建築物を表す語であった。

□ 古い神社の形態〜「磐座祭祀」(いわくらさいし)から「禁足地祭祀」へ
 三輪山祭祀遺跡、宗像沖ノ島遺跡などに認められる。4世紀後半には巨石の磐座、6世紀前半から禁足地祭祀へと転換している。


<参考>
日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀 (笹生衛)

「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著)

2018年01月07日 15時04分12秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜
新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行



<内容紹介>
日ごろ意識することは少なくとも、初詣や秋祭り、七五三のお宮参りと、私たちの日常に神社は寄りそっている。我々にとって、神とは、そして日本とはなにか? 民俗調査の成果をふまえ、ごくふつうの村や町の一画に祭られる「氏神」や「鎮守」をキーワードに、つねに人びとの生活とともにあった土地や氏と不可分の神々や祭礼を精緻に探究。日本人の神観念や信心のかたちとしての神や神社の姿と変容のさまを、いきいきと描き出す。


 私の興味を持つ「民俗」と「神社」・・・ど真ん中のストライク本です。 
 それもパワースポットとなる有名神社ではなく、村の鎮守さまレベルのお社が人々の生活の中でどう位置づけられてきたのか、を扱った内容です。
 まさに「知らない世界に帰りたい」。

 記述はわかりやすい啓蒙本ではなく、資料を根拠にした論文と言っても差し支えない高いレベルで、よほど興味がなければ読破は困難と思われます。
 漢字の羅列の古文書や昔の人物の名前がイヤと言うほど出てきます。まるで「イヤなら読むのをやめてもいいんだよ」と試されているかのよう。

 縄文時代、弥生時代の定義が学会レベルで揺らいでいる事実から始まり、神社祭祀の方法の変遷、氏神・産土神・鎮守神の違いを文献から紐解いて説明し、ある神社を取りあげてその歴史的変遷をたどる作業など、目が離せない内容が続きました。

 読了してみて、日本の神社ってひとことでは説明できない複雑な歴史的経緯をたどってきていることがわかりました。
 自然崇拝・民間信仰をベースに、修験道、外来宗教(仏教・道教)などの影響を受け、さらに時代的に荘園制度や不安定な社会情勢(→ 熊野神社)、武士社会(→ 八幡宮)でその管理者と神様の勧請が変遷し、最終的に現行の氏子制度に落ち着いたのは江戸時代のようです。
 これらの多様な神社が、一部は変化し、一部は残り、それらが混在して現在に至っています。
 著者はこの現象を「神社の上書き保存」というパソコン用語を用いて説明しています。上手いこといいますね〜。

 神さまの種類や性質は変わっても、その底流に流れているコアなものは、その地域・が結束するための装置・システムではないか、と感じました。
 現在でも、境内に公民館や自治会館が設置されている地方の神社は珍しくありませんし、そのように地域では神社がきちんと生き残っていますね。

“まえがき”から
 日本で稲作が普及したのは紀元前後。
 それまでの狩猟採集と異なり、稲作には継続的な集団労働と統率力・結束力が必要なため強力なリーダーが必要になります。つまり権力者の出現です。
 7世紀の飛鳥時代の中央集権を担った天武・持統天皇は仏教が浸透したことが有名である一方で、神社祭祀が国家的な規模で整備された時代でもありました。
 その神祭りの中心が稲の祭りであり、稲と米は権力と祭祀に密着したもの、政治の結晶として結実し、1000年以上経った現在でも引き継がれています。
 祭祀の上では天皇の毎年の新嘗祭(にいなめさい)や天皇即位に際しての大嘗祭(だいじょうさい)。
 政治の上でも、古代の律令制下の田租、古代中世の荘園公領制下の年貢、近世の幕藩制下でも稲と米の生産高を基準とする所領支配と徴税システムとしての石高制が整備され、そのもとで年貢米が重要な意味を持ちました。


“おわりに”から
 文献記録と民俗伝承から明らかとなったのは以下の7点;

1.氏神とは、
①氏族の祖神
②氏族の守護神
③氏族が本貫地で祀る神
という3つの例があり、③は産土の神に共通する。

2.鎮守の神とは、文字通り反乱を鎮圧する守護神という意味で、旧来の神社に対して、あらためて王城鎮守・国鎮守・荘郷鎮守という位置づけがなされる例がみられたり、新たに勧請された神社の例もあった。

3.荘園領主が祀る荘園鎮守社が、中世には在地武士の氏神となり、近世には村落住民の氏神となるという展開例が近畿地方の農村では多くみられた。

4.その近畿地方の農村での氏神の祭祀においては、中世武士や近世村民が順番に一年神主(当屋)を務める宮座が形成される例、つまり、宮座祭祀という方式が形成される例が多くみられた。

5.中国地方など、荘園鎮守社が設営されなかった地方では、戦国武将が領内の農民と呼応して、武運長久と五穀豊穣と庄民快楽という双方向的な現世利益を願う形の氏神の神社が創建されたり再建されていき、それが近世社会では村民が氏子として祀る氏神へとなっていった。

6.その中国地方の例では、宮座祭祀という形ではなく、戦国武将の家臣の内から有力な神職家が出てその氏神の妻子に当たり、その神職家が筋性から近現代まで継承されている例が多い。

7.その戦国武将が覇権を握った領地にさかんに再建をしていった氏神の場合も、もともとはそれ以前に領主や村民が祀っていた神々が存在しており、その神格は素朴な山や田や水などの神々から、外来の黄幡神や大歳神など霊験豊かな神々へ、さらには中世武将が勧請した熊野新宮や八幡宮へといういわば祭神の上書き保存が繰り返されている例が、一つの展開例として注目された。

■ 神を祀る方法は「祓え清め」
 神々を祀る方法の基本は「祓え清め」である。
 人々がその祓え清めを行った上で祈り願ったことは、平和(天下泰平)・豊作(五穀豊穣)・生命(子孫繁盛)という3つの基本的な願いである。

日本の神々
 日本の神々とは、自然の恩恵と脅威が心象化されたものであり、稲作の王権を生み出したその沿革を語る記紀神話が神々の中心である。
(天照大神)高天原と太陽の象徴
(月読命)つくよみのみこと。夜の世界と月の象徴
(素戔嗚尊/須佐之男命)大海原と雨水の象徴
ーである。
 しかし、現在の日本各地の神社や神祇の信仰の実態は非常に複雑であり、古代の神話が語るそのままではない。歴史的な日本の信仰伝承の展開の要点は以下の通り;

①古代日本の神々への神話的なレベルでの神祇信仰とその伝承
②中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰や呪法などの受容とその消化と醸成
③古代インドで生まれ中国に伝えられてそこで醸成され、6世紀半ば以降に韓半島を経て日本に伝わり、またその後も7〜9世紀までの遣唐使に随行した僧侶たちによって伝えられた仏教信仰

ーという三社の併存混淆状態であった。

 中世世界では、この三本交じりの本流が複雑怪奇に展開する。
・神祇信仰も古代の素朴なままではなかったし、陰陽五行信仰も卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げていった。
・山岳信仰と神仏習合を核とする山岳修験の活発化もめざましく、仏教信仰も密教化の勢いを加速させながらその顕密体制の根底は維持しつつ、一方で新たな宋学禅宗の伝来や新仏教諸派の旺盛な活動によって動揺し活性化していった。
・律令制の動揺から荘園制の形式へという古代国家の根幹の転換が、神仏信仰の世界にも響き合い、さらに武家政権の誕生と大陸貿易の活性化は、新たに中世的な神仏信仰や霊異霊妙な信仰を生み出していった。そして、
④さまざまな霊妙怪奇な神仏信仰(牛頭天王、毘沙門天、大黒天、帝釈天、吉祥天、弁財天、茶吉尼点:だきにてん、宇賀神、第六天魔王など)の創生と流通が起こり、とくに室町期以降に流行した七福神などさまざまな庶民信仰の流布
ーであった。 
 中世社会はそうした多様な呪的で霊妙な神仏信仰の混淆や展開がみられた時代であり、それら4本の信仰潮流が混合混淆しながら近世社会へと一般化していき、また近代現代へと伝えられてきて今日の日本の信仰世界を作り出してきている。
 しかしそのような複雑で混淆的な信仰伝承ではあっても、神祇信仰、陰陽五行信仰、仏教信仰、中世的な呪的霊異神仏信仰、という基本的な四者は、決して混合融合してしまって元の形や仲美をなくしてしまっているわけではない。
 長い歴史の流れの中で、時代ごとに流行した様々な霊験や現世利益を求める信仰や呪法が取り入れられていながらも、その一方では、自然界の森や山や岩や川やそれらを包む森林に清新な神々の存在を感じ、それを信じて敬い拝んできたという基本だけは守り伝えられているのが日本の神社である。
 神社とは祓え清めの場であり、精神性を基本とする、大自然の神の祭りの場なのである。

日本語の響きに癒やされる?

2018年01月05日 06時26分47秒 | 日本の美
 今年も新春2時間スペシャル「世界が驚いたニッポン! 2018」を見ました。

 今回はYouTubeに投稿された日本についての動画の人気ランキングでした。
 その中で「?」「!」と感じたこと。

□ セミを捕る・育てる
 ほとんどの国の人が「気持ち悪い」「信じられない」という反応であることに驚きました。
 「セミを捕る」という、日本人の少年にとっては当たり前のことが、諸外国では当たり前ではないようです。
 「セミって昆虫でしょう、ゴキブリと同じじゃないですか」という視点なんですね。
 一番驚いたのがタイ人のコメント;
 「タイでは、セミを捕って、油で揚げて食べます。日本人は捕まえるだけ。食べないのに捕まえるなんて意味がわかりません」
 ・・・場内騒然!

□ 日本語は癒やし効果あり?
 韓国人が作ってアップした動画。若い女性がメークのテクニックを披露するのですが、片言の日本語で延々と30分もメークを続けるのです。
 日本人が見ると「この動画のどこがいいんだろう、なぜ人気が出るのだろう?」という反応。
 韓国人の解説では「日本語の響きは優しく、癒やし効果がある。ゆっくり話す日本語を聞いているだけでいい気持ちになる」のだそうです。
 ・・・日本人には気づきにくいけど、そうなんですね(^^)。