知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

源頼朝の実像

2019年12月28日 16時58分37秒 | 歴史
中学生時代、「いい国(1192年)造ろう鎌倉幕府」と語呂合わせで年代を覚えたことを記憶しています。
もう、40年以上も前になるのですねえ。
世界の国とその首都を覚え、友達同士でクイズに出し合ったことも。
今でも結構覚えています。

私はもともと、歴史に名を残す人物にはあまり興味がなく、歴史を底辺で支えてきた“ふつうの人々”の方に興味があるものですから。
なので、柳田国男、宮本常一、五木寛之氏などの本が好きです。

というわけで、源頼朝という武将について知っていることは、教科書の範囲内にとどまります。
ふと録画してあった番組を視聴したので感想を書き留めておきます。

頼朝が歴史の舞台に踊り出たとき、その年齢は13歳。
“保元の乱”で挙兵し、その後役職をもらいます。
しかし間もなく平清盛に追い出され、ふつうは打ち首になるところを母方の血筋の恩恵を被って流人として生き延びることができました。

流刑先の伊豆で約20年間過ごすことになりますが、慎重に時流を読んで平家打倒に挙兵します。
身内である親戚の木曽義仲や、弟の義経との確執もありましたが、結局勝ち残ったのは頼朝で“征夷大将軍”として政権を握ります。
しかし自分の娘を天皇家に嫁がせて覇権を握る一歩手前で病死してしまい、鎌倉幕府は長くは続きませんでした。

番組を通じて感じたのは、
・昔の人は簡単に死んでしまう。
・武士はどちらの味方に付くのかで運命が決まるので、空気を読む能力がないと生き残れない。

それから、義経との確執について。
頼朝は唯一の肉親である義経を信頼しかわいがり、鎌倉に呼び寄せて近くに置いておきたかったが、義経は京都から離れなかったため、自分の意に沿わぬ義経を徐々に危険視するようになり、最後は敵と見なして追討することになったと解説していました。
義経はAsperger症候群だったので、頼朝の心情を理解できずに単純明快な行動したので頼朝の反感を買った、という説もありますね。



にっぽん!歴史鑑定「流人から将軍へ!源頼朝の生涯」
2019年12月23日 BS-TBS
 今回は流人から将軍となった源頼朝の生涯を徹底鑑定!平清盛との戦いに父と共に参戦するも賊軍となり敗走!処刑される運命だったにも関わらず、頼朝はなぜ、伊豆への流罪で済んだのか?平家打倒を胸に秘めながら20年もの流人生活!伊豆での意外な暮らしぶりとは?そして、そこから如何にして味方を集め、挙兵したのか!?さらに、平家を滅亡させた功労者、弟の義経とまさかの対立!頼朝が実の弟を死に追い込んだ真相とは!?


<参考>
WEB歴史街道「源頼朝の生涯~流人から征夷大将軍へ
 久安3年4月8日(1147年 5月9日)、源頼朝が生まれました。河内源氏・源義朝の三男で、鎌倉幕府初代将軍です。
 熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前を母に生まれた頼朝は、父・義朝が保元の乱で勝利すると、母の家柄を背景に昇進を重ね、平治元年(1159)には13歳にして右近衛将監、二条天皇の蔵人に補任されました。しかし同年末の平治の乱で義朝は敗れ、東国へ落ちる途中で討死。捕らえられた頼朝は平清盛に処刑されるところを、池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆に流されたといわれます。
 父や源氏一統の菩提を弔う伊豆での流人生活は、しかし決して楽なものではありませんでした。関東の豪族の中には父・義朝に力づくで臣従させられた者もおり、源氏の嫡流とはいえ一族の後ろ盾のない頼朝など、その気になればいつでも殺すことができます。頼朝にすれば、相手を侮らず、隙を与えず、己の面目を保たなくてはなりません。そうした緊張関係が、後の鎌倉幕府の厳格な御家人統制につながっていくことになります。
 治承2年(1178)頃、頼朝は地元の豪族・北条時政の娘・政子と婚姻を結びます。時に頼朝、32歳。2年後の治承4年、以仁王の平家追討の令旨を受け、頼朝は東国の諸豪族に参集を呼びかけて挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れて安房へ逃亡。しかし房総、武蔵の武士を味方につけることに成功し、父や兄・義平とゆかりの深い相模国鎌倉を本拠とします。
 これに対し、平氏の追討軍が迫りますが、富士川の戦いでほとんど戦わずに勝利。また奥州から駆けつけた弟・義経を得て、東国の基盤を固める一方、義経らを代官として木曾義仲や平家一門を討たせました。さらに功を挙げた義経が頼朝の許しを得ずに任官すると、これを追放。義経が奥州藤原氏を頼ると、平泉に攻め込み、制圧しました。時に文治5年(1189)10月、治承4年以来、10年近く続いた内乱はここに幕を閉じます。
 文治元年には全国に守護・地頭を置くことの勅許を得て、武家政権の強化を着々と進める頼朝の前に、最後まで立ちはだかったのは後白河法皇でした。建久元年(1190)、頼朝は上洛し、征夷大将軍就任を望んだものの認められず、代わりに権大納言、右近衛大将に任ぜられます。しかし頼朝は任官から一月も経たぬうちに辞官して、鎌倉に戻りました。これについては後白河法皇が征夷大将軍を授けることを拒んだためとされますが、むしろ拒んだのは頼朝の方であったともいいます。
 実は幕府を開くについては、右大将もしくは辞官した後の前右大将でも可能でした。しかし頼朝はそれでよしとせず、後白河の崩御を待って征夷大将軍に就任するのです。なぜか。まず右近衛大将でよしとしなかったのは、職の性格が朝廷の近衛府の長官であり、朝廷から独立した武権の主の地位としては相応しくないと考えたからと見られます。その点、征夷大将軍は朝廷から独立して臨時軍政を布く権限を有しており、武家政権に適していました。
 また後白河の崩御を待ったのは、法皇によって将軍に任命されるかたちを避けるためです。法皇に任命されれば、逆に解任する権限も法皇が持つことになります。頼朝は特定の個人ではなく、国家から征夷大将軍に任命されることで、実は「天皇をも例外としない」統帥権を獲得しました。後の承久の乱において、その権限が機能するわけです。頼朝の狙いは外れなかったというべきでしょうか。