知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

仏像の誕生と変遷

2023年01月22日 13時14分25秒 | 原発
私は仏像ファンではありませんが、
あるとき、一つの仏像に魅せられました。

それは「ガンダーラ仏」。

「ガンダーラ」という単語は、
50歳代以降の人には「ゴダイゴ」というグループが歌い、
ヒットした曲が思い浮かぶと思いますが、
そう、そのガンダーラです。

現在のパキスタン、ペシャワールがその地であり、
シルクロードに存在した都市です。
三蔵法師も立ち寄りました。

ガンダーラは東西文明の交流地点でもありました。

教科書に出てくる「アレキサンダー大王の東征」の際に、
ギリシャ/ローマ文明がこの地にもたらされることになり、
その影響でそれまで作られてこなかったブッダの像(仏像)が作られるようになりました。

ブッダ入滅後、すでに500年が経過していました。

こういう背景があるため、
初期の仏像はギリシャ/ローマ彫刻のように、
彫の深い西洋人のお顔をしていました。

それがなんとも魅力的なのです。
今風に言えば“イケメン”。

西洋と東洋のエッセンスをまじりあわせて作った、
ハーフのような顔立ち。

日本の仏像は中性的で優しい雰囲気がありますが、
ガンダーラ仏は男性像です。

ガンダーラ仏がシルクロードを介して当方に伝わる際に、
徐々にその土地の文化の影響を受けつつ変化し、
日本にたどり着いたときには現在のお顔になった、
ということですね。

こちらのサイトに初期仏教美術について記載されていたので、
メモ的に抜粋させていただきます;

▢ 仏陀の呼び方
・釈迦、釈迦牟尼、釈尊との呼ばれているが、本名は「ゴータマ・シッダールタ」。
・釈迦は出身部族名からくる通称。
・仏陀は「目覚めた人(悟った人)」を意味する語。

▢ 仏陀の生涯
・インド北部の小国の王子として誕生。
・29歳で出家し、35歳の時に菩提樹の下に座して悟りを得た。
・その後インド諸国を旅して周り、80歳でこの世を去るまで説法に努めた。
・入没は紀元前480年ごろ(諸説あり)。

▢ 初期の仏陀美術
・仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた仏塔(ストゥーパ)など仏陀の遺物崇拝と荘厳(しょうごんー装飾)。
(例)インド中部のサーンチーやバールフトに残る仏教遺跡
・仏塔を囲む石造の塔門や、欄楯(らんじゅんー柵)に多くの浮彫がされ、仏伝図(ぶつでんずー仏陀の生涯を描いた図)や本生図(ほんじょうずージャカータ・前世物語)などが彫られている。

▢ 無仏像時代の彫刻
・紀元前3世紀~前1世紀初頭の頃の仏教美術には仏陀の姿は表されておらず、「無仏像時代」と呼ばれている。
・仏陀は人のカタチをとらず、記号のようなものにより存在が示された。
(例)
 仏足跡(ぶっそくせきー仏足石)…仏陀の足跡
 菩提樹…悟りを得た仏陀を象徴
 傘蓋(さんがい)…古代インドの貴人の外出具
 仏塔
 法輪
 台座
 三宝標(仏・法・僧と呼ばれる3つの宝物)
・古い経典には「仏陀の体は形象化できず、また測ることもできない」という意味の言葉が記されている。当時の人々にとって、仏陀を生身の人間の姿であらわすことは畏れ多かったためと推測される。

▢ 仏像の起源
・仏陀の死後500~600年後に仏像が造られるようになった。
・最初の仏像はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)でクシャーン朝時代の紀元1世紀頃という説が有力。続いて中インド北部の小都市マトゥラーで2世紀初頭頃に造られた。
・紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王が東征を行い、ガンダーラ地方にも多くのギリシャ系民族が流入し、西方文化が伝えられた。
・前3世紀半ばに仏教信者であるマウリヤ朝のアショーカ王がこの地方まで領土を広げ、寺院や仏塔が建てられた。
・やがてクシャーン朝(1世紀後半~3世紀頃)に入って最初の仏像が生み出された。

▢ ガンダーラの造像
・初期の仏教遺跡であるインドのサーンチーやバールフトでは、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、仏陀を象徴表現(仏足跡や菩提樹など)で表した仏陀なき「仏伝図」がつくられていた。
・期限1世紀頃のガンダーラでは、象徴表現ではなく頭光(ずこう)や僧衣をつけた人物像として表現したものが登場し、これが仏像の始まりとされている。
・初期の仏像は仏伝図に描かれた他の人物と同程度の大きさであったが、しだいに大きく目立つように表現されるようになり、これが礼拝の対象となり、ついには「単独の彫像」が造られるようになった。

▢ ガンダーラ仏は西洋人?
・ガンダーラ仏はギリシャ・ローマ美術の影響を受けている。
・人物表現は、彫の深い顔立ちに高い鼻、引き締まった口元にひげを蓄えた顔貌で、東洋人よりは西洋人の特徴を備えている。
・その思索的な表現と写実味あふれる肉体表現は、ガンダーラ美術が東西文明の交流により形成されたヘレニズム美術の影響下に造られたことを物語る。

もう一つの仏像の起源とされてきたマトゥラーについても記述されていますので、
こちらも引用・抜粋されていただきます:

▢ マトゥラーという都市
・仏像の起源をめぐって北西インドのガンダーラと長年論争の的になってきた地であり、中インド北部のジャムナー川とガンジス川が合流する地点にある。
・水路によりインド全域と交流があり、通商路の交差点として栄えてきた。
・宗教に関する造形活動も行われ、土俗神の石像や大型のストゥーパ(仏塔)、寺院建築など、紀元前2世紀ごろにまでさかのぼる造形技術の長い伝統を有していた。
・ガンダーラ地方でヘレニズム美術の影響による造像が始まったのと同時期に、マトゥラーではインド独自の様式を持った仏像が造られ始めた。

▢ マトゥラーでの造像の発生
・マトゥラーに仏像が出現したのは、クシャーン朝時代の紀元2世紀初め頃で、仏教庇護者であったカニシカ王の時代(2世紀半ば頃)に最盛期を迎えた。
・マトゥラーにおける仏像の政策は、ガンダーラと同様ストゥーパ(仏塔)の装飾として彫刻された仏伝図からはじまり、しだいに礼拝用の単独像が造られるようになった。
・ガンダーラの仏像は西洋文化の影響を強く受けた彫りの深い顔立ちや、写実的な衣文(えもんー絵画や彫刻に描かれる衣装類のシワ)を特徴としていたが、マトゥラーの仏像は力強く生気があふれる表情をしており、肉付きのよい豊満な体と、強く張り出した両肩と体に密着したごく薄い衣文、小ぶりにあらわされた巻貝の肉髻(にっけい) などが特徴。

▢ マトゥラー仏の衰退と復活
・3世紀半ば頃にはクシャーン朝が終わりを告げ、同時に仏像づくりも陰りが見え始めた。
・北インドの仏教芸術が再度活発になったのは、4世紀のグプタ朝時代で、古典復興の機運に乗り、マトゥラー彫刻の伝統を踏まえた新たな造像が始まった。
・伝統的な造形に加え、写実性が増し、顔の表情にも微妙な表現が付与されるなど、精神性を加味した優美な様式に変化していった。
・仏教美術は東南アジア諸国や西域、中国にも伝播し、影響を及ぼしていった。



日本料理の歴史(抄) by 原田信男氏

2022年02月27日 22時04分48秒 | 原発
私は数年前からロカボ(炭水化物制限)をしています。
厳しく制限するのではなく、
ご飯を食べない、
パンやパスタを食べない、
芋も食べない、
という“主食抜き”の食事です。

提唱した医師は、その昔、玄米食を提唱した医師でもあります。
健康を考えたら1000年前の食事にたどり着いた、
糖尿病食を考えたら10000年前の食事にたどり着いた、
と著書の中で記述しています。

なるほど、と思いながらもずっと私の頭に引っかかっていることがありました。
それは日本の伝統食である神饌と精進料理の栄養バランスはどうなっているかということ。特に蛋白質と炭水化物の比率は、現代食と比較してどうなのか?

時間がないのでまだ本格的には調べていませんが、
ネット検索したら以下の文章に出会いました。
発言者の原田信男氏は国士舘大学教授で、食文化の研究者です。

日本の食文化の歴史を俯瞰しており、
なかなか興味深い内容です。
料理としては、歴史上以下の順番で登場したとのこと;

神饌
大饗料理
精進料理
本膳料理
懐石料理
会席料理

神饌は昔は神と共食する料理だったはずなのに、明治時代に生もの中心にすり替えられてしまった経緯があるそうです。残念。

大饗料理は平安時代の貴族の食べたもので、庶民の口には入らなかった様子。

精進料理は禅宗に伴い鎌倉時代に日本に入ってきた料理で、植物性のものを動物性に似せるよう工夫して調理したもの。

本膳料理は武士の時代に発達した料理。室町時代には今は馴染みの“だし”も登場したそうです。

懐石料理は戦国時代の茶の湯の一期一会の精神の元にもてなしの心を尽くした料理。

会席料理は江戸時代に発達した料理屋さんでみんなが集まって食べる料理。

等々。

■ 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録
・・・
・一番古い日本の料理様式は、実はわかりません。つまり、これは文字で書かれることが非常に少ないわけです。ただ、考えられる一番古い日本の正式な料理は、恐らく神とともに食べる食事、神饌であっただろうと思われます。ただ、神饌は現在変わってきてしまっています。もともとは人間が神様にお願いをして、そのために食べ物をささげる。そして神に食べてもらった食べ物を人間が食べる。つまり、先ほどの言葉で言うと、神人共食、神と人間が共食をすることによって神の恩恵を得ると同時に、神への感謝を示すという料理ですから、これが最高の料理形式であったと思われます。
・ただし、明治になって国家神道になったときに、祭式を改めて以降、神饌は全部生饌、生のものに改められました。そのように神社庁が指導したわけです。しかし、もともとは熟饌、料理したものを上げていたはずです。・・・神が食べた後に食べるということが重要なわけでありまして、直会というのがそれに当たって、神道の儀式の中で非常に重要な意味を持つわけですが、ただ、先ほど言ったように、わからない。
・現在残っている神饌について資料に上げておきましたけれども、これは春日大社の神饌です。これは中国大陸の影響を受けております。まず、色がついている。さまざまなものを盛り上げている。これは中国大陸からの影響です。
・日本の神は素木、色をつけないのが本来です。色をつけるのは仏教の影響です。春日大社は神社であるけれども、興福寺との関係で色をつけているわけです。したがって、現在残っている神饌料理からかつての神饌料理のあり方はわからないということになってしまいます。
・その次が大饗料理です。これは平安貴族などが天皇たちをもてなすための料理であって、台盤、テーブルが出されて、そこに料理が並びます。この料理は、後で数えていただくとわかるのですが、膳組みが偶数仕立てです。偶数仕立てということは、中国料理の影響です。そして、手元のところに白い皿があって、その横に箸とスプーンが置かれているわけです。スプーンも中国料理で、朝鮮半島まで参りましたけれども、日本には入っておりません。
・大饗料理には料理の原形が示されております。それはどういうことかというと、ここには生ものとか干物とか、そういうものが並んでおるのですが、味つけは自分でするのです。手前に四種器という4つの器がありまして、そこに酢とかお塩とか、醤だとか、そういう調味料が盛られておりまして、白いのはとり皿であって、ここに並んでいるものをとって、自分なりの味つけをして食べるということです。実はこれが料理の原型なのであります。
・・・
・大饗料理は中国の影響が強いのですが、1つだけ日本的な特徴があります。それは何かというと、切るということです。皆さん、切るというのは料理でないと思われるかもしれませんけれども、刺身は立派な料理なのです。刺身のどこが料理かというと、片刃の薄い包丁で魚の肉の細胞を壊さずに切るということです。つまり、肉汁が逃げない。あれを西洋料理とか中国料理の包丁で切ったら、あの刺身の味は出ません。そういう意味で、日本は、切るという料理技術を物すごく重視し、発展させた文化です。それはこの大饗料理の中にあります。ですから、庖丁人というのはこのころから使われておりますけれども、「包丁」という言葉が料理の代名詞になるということであります。
・その次は精進料理です。精進料理も中国の禅院から伝わったもので、いかに植物性のものを動物性のものに見せるかということです。動物性のものに見せるためには、粉食、小麦粉とかいろんな粉を強烈な調味料、つまり、ゴマ油とかみそとか、そういうもので特別な味つけをして肉の味に近づけさせるということですから、これは先ほどの大饗料理みたいに自分で味をつけるということではなく、要するに、料理人が徹底して味つけをする、調理するというのが示されたのが精進料理で、これが鎌倉時代に日本に入ってまいります。しかし、これも中国文化の影響でありまして、日本独自のものとは言いがたいことになります。
・そうした日本文化の中で日本料理というものがいつ成立するかというと、室町期なのです。料理に限らず、今日的な日本の伝統文化というものは室町時代に成立しております。お茶、生け花、香道とか、能とか、大体伝統的な文化は室町時代に発達し、日本料理もそのときに発達してきている。
・それまでも日本料理のだしとして昆布とかつおは用いられていましたが、特に昆布などの場合は食べるだけでありまして、それをだしとして用いるようになるのは遅かった。かつおは初め、堅魚煎汁という形で煮出してだしをとっていたわけですけれども、それをかつおぶしという形で今日的なだしをとり、それに昆布を合わせる。これが成立したのも室町時代の話であります。
・そして、これでつくり上げられたのが将軍の御成の際に出される本膳料理という料理様式であります。本膳料理は、まさに膳であります。膳を使っているのは東アジアの中では日本と朝鮮半島と沖縄だけです。そういう意味で、日本的な膳を使う料理文化というものがまさに室町時代に生まれた。しかも、膳組みは七五三の本膳組みです。ですから、今日の奇数組みの日本料理にここで初めて変わった。ある意味で言えば、室町時代に日本料理が成立したと言っても過言ではありません。
・それと同時に、それまでは宮廷を中心とした大饗料理などの料理流派であった四條流が主流だったわけですが、ところが、室町時代にかなりの数の武家の庖丁流派というものが生まれてくる。生間流とか進士流とか大草流とか、そういう庖丁流派が生まれてきて、さらに日本の食事文化の発展というものが基礎づけられ、そしてそのものを秘伝として残す料理書、つまり、何とか流料理書というものが室町時代にたくさん成立を見てくるわけです。そういう形で日本料理が成立するわけです。
・・・
・最後に、本膳料理を発展させたものとして懐石料理が出てくるわけです。まず、千利休が大成するわけで、これが戦国時代のことであります。これは本膳料理のいいとこ取りをして、なおかつ、茶の湯には一期一会という考え方がありますから、どうやって最高のもてなしをするか、それが茶会の理想であるという形で、もてなすためには、そのときそのときの1回の出会い、季節感をいかに大切にするか、盛りつけをどうするか、部屋のしつらえをどうするか、そういう中で今日代表されるような、世界にも通じる料理としての懐石料理が戦国時代に成立しております。
しかし、戦国時代、中世までの料理というのは、食べられる場所と人間が決まっていた。茶会に招待される、あるいは将軍、貴族の儀式に参加できる人間は限られております。場所も時間も限られております。
・江戸時代、近世になると、これは封建時代というふうに皆さんは考えられているかもしれませんけれども、かなり発達した時代で、近世になって初めて自由な料理が成立したと思っております。つまり、料理屋の成立です。料理屋があるから、そこに行けば、もちろん予約することがあるかもしれないし、ふらっと行くこともできますけれども、そういう形で、いつでも好きなときに、お金さえ出せば誰でも料理が食べられるようになった。
・先ほど申しました秘伝の巻物として伝えられた料理書が、江戸時代になると出版されます。秘伝書が出版されるということになってきてしまうわけであって、これによって料理法も金で買えるという形になった。江戸時代になって料理の体系そのものは変わらないのですが、それが非常に浸透し、普及していったのが江戸時代。
・なおかつ、さらにそれに磨きがかかった。特に宝暦・天明期から文化・文政期、18世紀の後半から19世紀の前半にかけて料理文化というものは著しい発達を見ます。まさに江戸では八百善だとか、聞いたことがあると思いますけれども、そういう会席料理。これは「会席」で、料理屋で食べる日本料理です。これが非常な発達を見る。
・・・
そしてそのまま明治維新を迎えて、それまで国家の正式な晩さん料理であった日本料理から、明治天皇が主催する晩さん会では西洋料理、フランス料理に変わってまいります。実は肉食を禁止しましたけれども、明治4年に天皇は肉食再開令を出しまして、みずから進んで肉を食べるということをやっているわけです。これも細かいことは省きますが、しかし、そう簡単に西洋料理が広く受け入れられるわけではありません。
・すき焼きというのは江戸時代からあって、まさに農具のすきで焼く料理でした。江戸時代のすき焼きは鳥と魚だったわけです。ところが、それに肉を使って牛鍋という形とかで肉食が入ります。しかし、明治の後半、30年代、女学校の料理教室で教えていたのは何かというと、西洋料理と日本料理の間に折衷料理というのがありまして、牛肉のかす漬けだとか、カレー粉入りの味噌汁だとか、まさに今日的なコラボレーションの料理ではあるのですが、今の我々からすると、えっと思うような、まさに和洋折衷の料理を苦心して女学校で調理の時間に教えております。
・やがて大正ぐらいにると、洋食がかなり普及してくる。その後、戦争の間、日本の食糧事情は物すごく落ちますから、食文化の料理も衰退してしまいます。
・戦後になって、高度経済成長の波に乗って再び日本料理がかなり身近なものになる。もちろん、これにはコールドチェーンの発達、要するに、冷凍技術とか施設・設備のもので今日的な食文化、まさにグルメブームが出てくるわけです。
・注意していただきたいのは、日本人は米を食べてきたと言われていますけれども、日本人が腹いっぱい米を食べられるようになったのは1960年代のことであります。逆に60年代に何が起きているかというと、米の排斥、米食はよくないという形、米偏光、是正というような形での運動も起きている。
・日本料理の成立というのはそんなに古いことではない。しかも、その後、さまざまな変遷があった。つまり、私に言わせれば、和食とか日本料理というものは時代によって概念が変わるものであるということ、この点にも注意していただきたいです。

“おみくじ”の意味を再確認してみました。

2022年01月06日 11時41分52秒 | 原発
吉凶を占うおみくじ。
お正月に初詣をしておみくじを引き、喜んだり落ち込んだりした人が多いことでしょう。

実は近所にある「元三大師」の本家本元の比叡山の高僧であった慈恵大師良源さんが発明したとも聞いています。

しかし私はあるときからおみくじを引かなくなりました。
だいたい、
「今はコツコツ努力をするとき」
「いずれ明るい未来が来るでしょう」
という同じよう内容であることに気づいたので、その都度、
「ハイハイ、わかりましたよ」
と反応することに意義を感じなくなったのです。

また、神社への参拝は感謝を伝えるためであり、
願い事を頼む場所ではないことに気づいたことも一因です。

それでもおみくじは気になります。

・一般的な吉凶は、
「大吉・中吉・吉・小吉・半吉・末吉・末小吉・凶・大凶」
派生して、伏見稲荷では32種に細分化されている(例えば「凶後大吉」「吉凶相半」「向大吉」など)とか。

・昔々は「平」という“平穏”を意味するくじが人気だったが、人々が刺激を求めて「吉」→ 「大吉」、「凶」→ 「大凶」とインパクトのあるくじが出現するに至った。

・・・「平」は漢方医学の「中庸」の考え方に似てますね。体の状態が実証(有り余る体力)でもなく「虚証」(不足した体力)でもない、中間の「虚実中間証」=「中庸」をよしとして、そこへくすりで方向付ける治療が漢方です。

・「大吉」を喜んで有頂天になっていると運勢が落ちる。「大吉」とは“要注意”という意味も含んでいる。

・「大凶」はこれ以上悪くならない、努力すれば吉に向かうというありがたいくじ、という側面もある。

・・・なんだか“方便”という気がしないでもない言い回しですねえ(^^;)。

・「平」のくじは年々減り、一時は京都の石清水八幡宮くらいしか扱っていなかったが、近年は再び増え始めている。
例)氷川神社(埼玉県)、戸隠神社(長野県)、住吉大社(大阪府)、生國魂神社(大阪府)、下鴨神社(京都府)、伏見稲荷大社(京都府)、厳島神社(広島県)、金刀比羅宮(香川県)、青島神社(宮崎県)、太平山神社(栃木県)、日光の二荒山神社(栃木県)

・・・一番近いのは大平山神社、いつか行ってみよう。

・おみくじの起源は、日本書紀の短籍(ひねりぶみ)? それとも室町時代初頭中国から入ってきた『天竺霊籤(てんじくれいせん)』?・・・いずれにしても、天台宗の中興の祖と呼ばれた元三大師(慈恵大師良源)により「観音みくじ」として広まり、現在のおみくじの原型になったらしい。

・・・そういえば、おみくじは寺院にも神社にもありますね。日本的というか中国的というか・・・微妙な雰囲気。


鹿が増えた理由と影響、そして対策

2022年01月06日 11時00分30秒 | 原発
私が子どもの頃は、野生の鹿に出会うことは珍しく、またディズニーのアニメ「子鹿のバンビ」の影響もあり、かわいい&憧れの動物でした。

小学生の時、知り合いのおじさんに日光へ連れて行ってもらった際、立ち寄った家で初めて野生の鹿を目にしました。
ケガをして動けなくなっているのを保護した、と記憶しています。

それから数十年、鹿の数はどんどん増えて樹木の根本付近をかじり枯れさせてしまう“害獣”扱いされるようになりました。

なぜ、鹿が増えたのでしょう?
そんな疑問を漠然と抱いてきました。

要点を抜粋しますと・・・

■ 鹿が減少した理由
1.天敵の不在:天敵であるニホンオオカミが絶滅していなくなった。
2.降雪量の減少:冬の降雪量が減り、冬の餌不足の期間が短くなった。
3.スギとヒノキの植林政策:スギとヒノキの稚樹は鹿の餌になる。
4.鹿の保護政策:かつて鹿は絶滅の危機に陥り、1950年代までは禁猟、齟齬の徐々に解禁されてきた。
5.里山の荒廃:人が手放した放棄地が生息地に変わった。
6.狩猟者の減少:狩猟免許取得者は一時期より半減している。

■ 鹿の増加による影響
1.森林の生態系破壊:草を食べ尽くすと山の保水能力が低下し災害が増加、鹿が好む特定の植物のみ減少するので多様化が低下、など。
2.農業への影響:自然界と人間界の境界が曖昧になり、農作物を食べるという被害が増えた(総被害額の1/3)。
3.林業への影響:植樹した幼樹の葉や樹皮を食べて枯れてしまう。総被外郭の7割を占める。
4.山での交通事故:山道・林道に鹿が突然飛び出してきて避けきれず、車と衝突する事故が増えている。

■ 鹿増加への対策
1.許可捕獲
2.鹿柵の設置

そして記事の最後は以下のように「鹿肉を食べましょう」で締めくくっています。

「しっかりと処理されたお肉は、臭みもなくとっても美味。シカ肉は赤身で脂肪分が少なく、鉄分豊富なヘルシー食材です。ジビエ産業の普及は、地域産業の活性化や、狩猟者の狩猟意欲の向上、そしてなにより捕獲した動物の命を無駄にしないことにつながります。」

この50年で日本人にとっての鹿の存在は、
「かわいい!」
から
「おいしそう!」
へ変わってきたのですねえ・・・ちょっと複雑な気分です(^^;)。

日本人とネコ

2021年03月04日 15時01分48秒 | 原発
日本人がどのように動物と関わってきたのか・・・ちょっと興味があります。
今回はネコを取りあげます。

日本にネコが中国から輸入されたのは奈良時代、というのが通説です。
※ 諸説あります(近年、2000年以上前の遺跡から猫の骨が出てきたという報告も)。

目的は「仏教の経典をネズミから守るため」だったそうです。
そのため、飼われていたのはお寺中心でした。

平安時代になると、「ペット」という新たな役割が発生、
貴族の間でネコをペットとして飼うことがブームになりました。

清少納言の『枕草子』にもネコをかわいがる一条天皇のこんな描写があります;
「天皇のおそばに飼われている御猫は
位を授けられて“命婦のおとど”と名付けられている」

紫式部の『源氏物語』にもネコが登場します。
そのネコは首輪を付けられ、ヒモが結ばれていました。
当時はまだ数が少なく、貴重な動物だった故。



平安時代のネコは自由ではなかったのですね。

そんなネコを窮屈な生活から解放したのが徳川家康。
彼は徳川幕府を開く際に、
「ネコをつなぐべからず」
というお触れを出しました。

これには理由がありました。
戦国時代が終わり、平和な江戸時代が始まると、
江戸は急速な都市化により、ネズミの食害が社会問題化したのです。

家康はネズミ対策として紐でつながれていたネコを解き放ったのでした。
自由を得たネコは、本来のネズミ退治という役割を担うと共に、
爆発的に繁殖しました。

数が増えたため、庶民の間でもネコを飼う習慣が広まりました。

京丹後市にある金刀比羅神社境内の摂社「猿田彦神社」「木島神社」には眷属のところに狛犬ならぬ狛猫がいます。
京丹後市は昔からのちりめんの産地で、ちりめんの原料は生糸、そして生糸はネズミの大好物。
生糸を齧られると売り物になりません。
それを防止するためにネコを飼ってネズミを退治してもらい、
ネコを大事にするようになったそうな。

江戸時代にネコをこよなく愛し、仕事にも役立てた人物がいます。
それは浮世絵師の歌川国芳。
ネコを擬人化した浮世絵を数多く発表し、
江戸後期にネコブームを巻き起こしました。
代表作は「流行猫の曲手まり」


国芳がネコの絵を描き始めたのはキャリアの後半でした。
庶民の文化を描く浮世絵は大人気でしたが、
水野忠邦による倹約令「天保の改革」により娯楽や文化的なものが取り締まりを受け、
歌舞伎役者の他に遊女も扱った浮世絵は「風紀を乱す」と禁止されてしまいました。

そこで国芳はネコを擬人化して幕府を風刺する絵を描き始めたのでした。
代表作は「猫の百面相」。



当時の人気歌舞伎俳優の顔を模したネコたちですが、
庶民はひと目見てそのネコが役者の誰だかわかったそうです。
このような国芳の猫絵は、政治に不満を持つ庶民に人気を博し、
停滞していた浮世絵界を救う大ヒットとなりました。

直球勝負ではなく、変化球勝負をしたのですねえ。
猫を使った風刺というと、明治時代に有名な文学作品があります。
『吾輩は猫である』(夏目漱石著)は国芳の猫絵の延長線上にあるのかもしれないですね。

昭和時代はペットと云えばイヌがメインだったでしょうか。
平成、令和ときて、ネコが人気で上回った感があります。
世間では「イヌ派」「ネコ派」と分かれるようですが、私はどちらかなあ・・・。

ここからは私のネコに関する経験談・思い出です。

私はペットを飼ったことがありません。
母親が大の動物嫌いだったので。

幼少期によく捨て猫とか捨て犬を拾ってきた私。
そのたびに母親に叱られて、拾ってきた場所に戻すことを繰り返しました。

少年期には“猫屋敷”化している親戚の家がありました。
野良猫を餌付けしている内に居着いてしまい、
10匹弱のネコが出入りしていました。
個性があって、中には人なつこいネコもいました。

そうそう、大学生時代に居候していた家庭教師先にもネコがいました。
ブルーペルシャという、あまり見かけない種類。
かわいいと云うより優雅でゴージャスな雰囲気をまとったネコでした。
雪の降る寒い夜、換気のために窓を少し開けておくと、
いつの間にか忍び込んで私の蒲団に潜り込んできたので湯たんぽ代わりになりました。
写真は残っていないなあ。
ネットで見かけた写真ではこれが雰囲気が似ているかな;



地方の神社の名前・祭神のルーツについて

2021年02月20日 17時09分44秒 | 原発
先日、探したいた書籍を古本で見つけて購入しました。
発売当時の価格の倍の値段で。
こういう貴重な本は、見つけたときに買わないとずっと買えないので思い切りました。

本の名前は「上州のお宮とお寺〜神社編」近藤義雄、丸山知良著
(上毛新聞社、1978年発行)

題名通り群馬県のめぼしい神社の紹介本です。
目次を見ると、参拝したことのある神社とない神社が半々くらい。

神社の名前って、地方により同じものが複数あることが多いですよね。

なぜなんだろう?

それから、有名な神社の名前と同じ名前もよく見かけます。

なぜなんだろう?

私は大きな御神木がある神社をメインに参拝する趣味がありますが、山里の神社の中には神社名がはっきりしない「山神社」という名前にたどり着くこともあります。
そんな、いろいろな神社名がある理由を、この本の前書きがわかりやすく説明してくれているので紹介します。

 現在では大抵の神社に特定の祭神の名が定められているが、古くは大部分の神が山の神、川の神、井戸の神、竈の神などと呼ばれ、特定の祭神はほとんどなかった。そして多くの神は我々を守護してくれるもので、例えば田植えの頃になればサオリと称して山から神が降臨して田畑を守り、収穫が終わるとサノボリと称して神はお帰りになると信じられてきた。
 しかし、やがて人々の住む近くに社が建てられ、神は身近に常におわしますようになった。
 このような地の神に対し、人々の交流がさかんになると他国の神も入ってきた。各地の有力な神社は、御師と称する神人団をもって侵攻の拡大を図り、講社をつくって代参者を招き、ついには村人は他国の神を村に勧請してお宮をつくるようになった。熊野神社などはその代表的な例といえよう。
 他国の神が祀られるようになったもう一つの要因は、有力な豪族が村に入ってきたときである。豪族は一族の氏神を新しい土地に来ても祀るようになり、村人もその神をともに崇拝するようになっていった。そのよい例が八幡神社である。八幡神は源氏の氏神として尊崇されていたので、新田氏などが地方に勢力を伸ばしてくると、各地に八幡神が祀られるようになり、ときには地の神と合わせて祀られたりして定着化していった。

なるほど、なるほど・・・。


鬼怒鳴門

2021年02月04日 14時03分35秒 | 原発
録画してあった番組を、梅原猛氏つながりで視聴しました。

■ 耳をすませば「“知の巨人”からのメッセージ〜梅原猛、ドナルドキーン〜」

梅原猛氏は前項と重複するので省略します。

ドナルド・キーン氏はニューヨーク生まれのアメリカ人。
頭脳明晰で飛び級を繰り返し、16歳でコロンビア大学に入学しました。
しかし時代は第二次世界大戦中。
毎日暗いニュースばかりが耳に入ってきます。

そんなある日、古本屋で一冊の本と運命的に出会います。
それは英訳された「源氏物語」。
戦争相手国である日本の1000年前の小説です。
そこには、人間の内面の美しさが描かれており、彼は魅了されました。

キーン氏は日本に興味を持ち、海軍の日本語学校で学び、
日本兵が死ぬ前に残した日記を翻訳する作業に従事しました。

“命知らずの鬼のような敵兵”と思い込んでいた人々が残した日記は、
人間味あふれる素直な魂の叫びでした。

終戦後、彼は日本に渡り、日本文学を研究し始めました。

例えば、戦争中に谷崎潤一郎が書いた「細雪」。
そこには戦争の影はなく、日本の旧家の佇まいが淡々と描かれていました。
「谷崎は消えゆく日本文化を書き残したかったのではないだろうか」
とキーン氏は分析しています。

研究すると共に日本文学を英訳し、世界に紹介しました。

ノーベル賞選考委員会から意見を求められたキーン氏は、
1人の作家を推薦しました。
後にノーベル文学賞を受賞することになる川端康成氏です。

いつしか、キーン氏は日本文学研究の第一人者として、
世界に知れ渡る人物になっていました。

時は流れ、2011.3.11に東日本大震災が発生しました。

すべてを失って悲嘆に暮れる人々の姿。
食料の配布を受ける人々は整然と並んで争いが起きない光景を見たキーン氏は、
作家・高見順の「敗戦日記に描かれた一シーンを思い出しました。

母親を田舎に疎開させるために向かった上野駅。
同じような事情の人々でごった返していました。
しかし、電車を待つ大勢の人々は、押し合ったり争うのではなく、
やはり整然と並んで自分の順番を待っていたのでした。

その光景に感銘を受けた高見順は、こう書き残しました。
「私はこのような人たちと一緒に生きたい」
「私はこのような人たちと一緒に死にたい」

その二つの光景に日本人の資質を感じ入ったキーン氏の中で、
「私も日本人になりたい」
という決意が生まれました。

そしてキーン氏は2013年に日本に帰化し、日本国籍を取得したのでした。
その際のインタビューでは、
「震災のあと、外国人は日本から逃げた」
「でも私は違う、私は日本人を信じている、私は日本人になりたい」
とコメントされていました。

題字の「鬼怒鳴門」はキーン氏の日本名で、
「きーんどなるど」と読みます。

2019.2.24 没。

東 浩紀、梅原 猛に会いに行く

2021年01月30日 07時11分56秒 | 原発
昔々に録画して、ずっと気になっていた番組をようやく視聴できました。

「3.11後を生きる君たちへ 〜東浩紀 梅原猛に会いにいく〜」

昔すぎて、番組内容紹介がネット上に残っていません(^^;)。

言論界の若手のホープであった東 浩紀(あずま ひろき)氏が、
哲学界の長老である梅原 猛氏を訪ねてインタビューをする、という企画です。

東氏は当時、現代日本の社会現象をどう読み解くかという研究に没頭していました。
著作もあり、「言論界の若手ご意見番」という存在でしゃべりまくりました。

そして「東日本大震災」(2011.3.11)に遭遇しました。
現地を訪問した東氏は、そのあまりの惨状に言葉を失いました。
この震災被害をどう捉えて、どう表現して、どう人々に伝えるか・・・
その術が見つからないことに、彼自身がショックを受けました。

「自分の世代は、東日本大震災を語る言葉を持ち合わせていないのではないか?」
自問自答の末、
「日本の歴史・思想を俯瞰して研究してきた哲学者、梅原氏はどう捉えて言葉にするのだろう?」
と頭に浮かび、梅原氏に教えを請うため、京都東山の梅原宅を訪れたのでした。

梅原氏は当時87歳。
外見は隠居老人のようですが、
一旦話を始めると、眼光鋭く、発する言葉の端々に力強さを感じました。

梅原氏は語ります;

【西洋哲学の限界を知る】
「東日本大震災に伴う原発事故を知った後、これをどう捉えるべきなのか、西洋哲学を今一度検証した」
「すると、西洋哲学に限界があることを突き止めた」
「エジプトは自然崇拝の文明であり太陽と水を信仰していた農業文明だった」
「しかしギリシャ文明で自然崇拝が消えてしまった」
「ギリシャ文明は海賊文明、征服して剥奪する文明であった」
「そこから派生してヨーロッパ文明が発達した」
「その思想の象徴は、デカルトの“我思う、故に我あり”である(17世紀前半)」
「デカルトの言葉には“自然は数式化して支配できる”という続きがあり、人間中心、天動説的概念であった」
「その流れで科学が発展し、確かに多大なる恩恵を人類に与えた」
「科学の発展の最終到達点が原子力である」
「莫大なエネルギーを得られる反面、使い方を誤ると多くの被害が発生する」

【西洋文明を取り入れ、その弊害を被った日本】
「日本は西洋文明をいち早く取り入れて、アジアで唯一植民地化を免れた国である」
「科学技術も貪欲に取り入れて西洋に追いつけ追い越せで発展してきた」
「しかし科学の究極の成果である原子力の被害を、不幸なことに2回も経験することになった」
「1回目は広島・長崎の原爆投下、2回目は東日本大震災の原発事故である」

【日本は世界の文明に自然との共存という方向付けを】
「欧米にとって、原爆・原発事故は当事者になっていないため、一部他人事である」
「だから日本人が西洋人に訴える必要がある」
「人間中心に展開してきた西洋哲学に基づく西洋文明の方向はこれでいいのか、と投げかけるべきである」
「日本の哲学である自然と共存する信仰、仏教の“草木国土悉皆成仏”(※)という考えを取り入れるべきではないか、とアドバイスすべきである」

※ 草木や国土のように心をもたないものでさえ、ことごとく仏性があるから、成仏するということ(仏教用語)

東氏に同行した若者達からも質問が出ました。

「東日本大震災の被害を受けて亡くなった人々に、我々はどう向き合えばよいのでしょうか?」

梅原氏の回答は、

【戦死者・原発被害者へどう向き合うか】
「累々と重なる死体は、第二次世界大戦が終わったときのことを思い出させる」
「戦地で勇敢に戦って命を落とした兵士に比べ、私は“生き残った後ろめたさ”をずっと感じて生きてきた」
「おそらく私の世代の日本人は、口には出さないが、多かれ少なかれ誰しも同じ感情を持ち合わせている」
「原爆で亡くなったたくさんの日本人の視線も感じる」
「なぜ私は死ななくてはならなかったのか、教えてほしい、と」
「生き残った我々は、非業の死を遂げた人々に申し訳が立つように生き延び、彼らの代弁をする義務があるのではないだろうか?」

「津波被害・原発事故でも同じ事だと思う」
「彼らは科学文明の被害者として我々の身代わりとして亡くなっていった」
「それを反省・検証し、次の世代に生かす役割・義務を君たちは負っていると思う」

以上、一字一句は正確ではありませんが、私が受け止めた内容です。

“京都学派”という言葉があります。
東京大学の学者達の王道を行く学問と比較し、
より広い視点から捉えた学問という意味だと私は感じています。
梅原猛氏しかり。
中沢新一氏(文化人類学者・宗教史学者)なども複数のフィールドを股にかけた思索で活躍されています。
ときどき、小松左京氏(SF作家)のような才能も出てきます。

梅原氏の学問のはじまりは西洋哲学でしたが、
そこに限界を感じて日本や仏教の研究を始め、
日本の歴史の底流に流れる思想を解き明かし、
「梅原日本学」と呼ばれるレベルまでに到達しました。
その一般向けの啓蒙書はベストセラーになり、
私も何冊か読んだことがあります。

歴史家からは「検証が甘い」「想像で書いている」などと非難を受けることもあったようですが、
その斬新な視点はインパクトがあり、日本中が魅了されました。

梅原氏は2019年1月に93歳で亡くなりました。
たくさんの知的財産を残していただいたことに感謝します。

合掌。


「イザベラバードの日本紀行」(by 三谷幸喜)

2020年08月15日 14時49分45秒 | 原発
 イザベラ・バードは、明治初期に日本を1人で旅行したイギリス人女性。
時々TV番組で取りあげられるので、なんとなく概要は把握しています。
彼女の著作も何冊か所有していますが、TV内容で満足してしまってほとんどインテリア化。

 以前、栃木県の日光金谷ホテルに宿泊した際、ヘレン・ケラーやアインシュタインの宿泊記録と共に、バードのサインも展示されていたことを記憶しています。

 さてこの度、YouTubeでラジオドラマ仕立ての日本紀行を見つけました。
演出は三谷幸喜。
1時間半くらいで、ダイジェスト版を聞くことが出来ます。



 日光金谷ホテルの前身である宿屋についての記述はとても好ましもので、彼女がここの宿泊を心の底から楽しんでいた様子がうかがわれます。
なにせ、他の宿はおしなべてノミにまみれ、障子の穴からたくさんの目に覗かれ続けて、心休まる暇がなかったのですから。
 函館に教会に到着して鍵のついた洋風の部屋でくつろぐ喜びを述べる下りは、本当にうれしそうで、他の宿がいかにひどかったかが想像されます。

 青森県の黒石で出会った七夕祭りの描写は、幻想的な光の祭典に虜になった様子がありありと感じられます。
 この祭、現在の「ねぷた祭」の原型であると解説されていました。

 私は大学生時代、青森県の弘前市で過ごしたので、ねぷた祭を少し覗いたことがあります。まだ電気のなかった時代に、提灯の明かりが飛び交うさまは、さぞかし魅力的だったことでしょう。

 全体を通してバードが描写し感心しているのは、出会った日本人たちの真面目さと律儀さ。
車夫やお茶処で向こうに少しでも粗相があると、頑として料金を受け取らない。子どもはよく教育されており、礼儀正しい。

 なんだか現在の日本の方が乱れているような気がしてきました。

 ただ、服装や外見はけちょんけちょんに表現しています。「みすぼらしい」「きたない」などの単語がポンポン出てくるのです。

 総じて、明治時代初期の庶民の生活を描写した貴重な資料になっていると思います。自分の祖先達は、こんな感じで生活していたんだなあ。


イザベラ・バードの日本紀行
 J-WAVE開局25周年記念の特別番組として、10月1日から放送される「UNBEATEN TRUCKS IN JAPAN イザベラ・バードの日本紀行」のテーマ音楽を久石譲が担当いたしました。
 同番組は、明治維新直後の日本各地を旅したイギリスの旅行作家イザベラ・バードの書簡集『イザベラ・バードの日本紀行』をもとに、三谷幸喜氏がリーディングドラマとして作品化したもの。
企画・構成・演出・ナビゲーター:三谷幸喜 
朗読:松たか子 音楽:久石譲 放送日:2013年10月1日(火)ー10月11日(金)23:45-24:00 放送局:J-WAVE (81.3FM)

インドの仏 2500年の謎 ~仏教美術の源流に迫る~(BSテレ東、2015年)

2020年07月12日 15時42分51秒 | 原発
5年前に録画してあった番組を、ふと視聴してみました。

仏像、実はあまり興味がありません。
「なぜなんだろう?」
と自問自答してみると、
やはり一神教系に違和感を覚えるから、かもしれません。

根っこは同じであるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が一神教の代表ですが、
信仰心が強いほど、結束が固いほど排他的になり、
それが宗教間の争いに発展し、多くの人間が命を落としてきた歴史上の事実があります。

日本の宗教、というか民間信仰はアニミズム(万物に神が宿る)思想がベースで、
ほかの宗教を受け入れやすい素地があり、排他的な考えに発展しにくい。

宗教談義はこの辺にしておきましょう。

さて仏像です。
昨今、仏像マニアがブームになりつつあり、
「◯◯女子」のノリで、「仏像ガール」という造語もあります。
仏像を見て回り、「かわいい!」を連発する彼女らの姿を見ていると、また違和感。
ヒトの価値観はそれぞれだから、善し悪しの問題ではありませんけど、ね。

仏像鑑賞の本も何冊か購入して何冊か斜め読みしましたが、既に忘却の彼方。

こんなひねくれたアラ還のおじさんが、仏像の由来をテーマにした番組を見てみました。
案内役は、仏像ブームの牽引役であるいとうせいこう氏とみうらじゅん氏のコンビ、
プラス、仏像ハンター福田麻衣。


<みどころ>
「仏像好き」「インド好き」を自認するみうらじゅんといとうせいこうが、コルカタ・インド博物館の秘仏を徹底解剖。様々なユニークな視点から、「仏像の起源」や「仏像の違い」を紐解き、インドの仏の楽しみ方を伝えます。また、釈迦の足跡をインドに辿りながら、仏像が作られていった理由や謎に迫ります。
<内容>
紀元前327年のアレキサンダー大王の遠征。その後、インドのガンダーラの地に多くのギリシャ人が残り、仏像が生まれた。これらの仏像文化は、日本の仏教にも様々な影響を及ぼしている。 インドの仏像文化を知ることは、日本の仏教をより理解することに繋がる。仏教誕生の地インドで、2500年を越えて繰り広げられた仏教美術の源流に迫る。 共に、「仏像好き」「インド好き」を自認するいとうせいこうとみうらじゅんが、アジア最古の総合博物館「コルカタ・インド博物館」の秘仏を徹底解剖。様々なユニークな視点から、「仏像の起源」や「仏像の違い」を紐解き、インドの仏の楽しみ方を視聴者に伝える。
なぜ仏像の頭はパンチパーマ?シースルーで裸同然の仏像が存在するのはなぜ?なぜインドの仏像はセクシーなものが多い? などなど。
数々の「小さい」が「深い」疑問を、仏像が誕生した謎とともに解き明かしてゆく。 また、シルクロードに沿ってインドから西域、中国、朝鮮そして日本へと仏教の伝来をダイナミックに切りながら、仏像の進化・発展を追う。
盛者必衰。
栄華を極めた仏教も、12世紀にイスラム軍の攻撃にあい、その勢いは急激に衰えていく。盛者必衰の理が胸をつく。しかし…仏教はしたたかに生き残っていた。 釈迦はクリシュナ女神と同じように、ヒンドゥーの世界ではヴィシュヌ神の化身のひとつとされている。文化を残してゆくための執念とも呼べるその思いこそ、今の時代を生きる私たちが忘れてはならことなのではないだろうか…。
<プロデューサーからの一言>
 インドは何十回と訪れているが、じっくりインドの仏像を見たことがなかった。今回はディレクターとしてもインドロケに出かけ、釈迦の足跡を辿りながらとにかく仏像を見まくるという贅沢な経験をさせてもらった。多分、今回の番組だけでインドの仏像を100体は見ただろうか。そして気がついたことがある。 「インドの仏は『妖怪ウォッチ』と同じだ」と。 インドの仏像は、ヒンドゥー教やバラモン教という他宗教と巧みに融合しながら、また、いいとこ取りしながら、2500年の間に“進化”していった。『妖怪ウォッチ』で子どもたちを虜にしているように、その「バージョンの多様性」で人々を魅了し、生き残ってきたのだ。信者を飽きさせることなく、いろいろな仏を次々に生み出し続けたその“底知れない”パワーを、番組を通して是非皆さんに楽しんでいただきたいと思っている。

いや〜、興味深い。
初めて知った事実が目白押しでした。

いわゆる仏像は、釈迦が悟りを開いて仏陀となり入滅後、500年間は作られなかったとのこと。
その理由は、祈る対象として「塔」(ストゥーパ、釈迦の骨が保存されている)が既に存在していたので必要性がなかったから。
現在も仏教の聖地では、信者達は仏像ではなく塔を礼拝しています。

それではなぜ、仏像が作られるようになったのか?

なんとここで、アレキサンダー大王の名前が出てきます。
彼は東へ進軍し、インドまで勢力下に置こうとしました。
闘いが終わり、彼が去った後にもガンダーラ地方(現在のパキスタン)に子孫は残り、ヘレニズム文明(ギリシャ系)を伝えました。
ギリシャ文明と言えば、人の姿をした神々が有名で、偶像がたくさん作られています。
その影響で、仏像が造られるようになりました。

ガンダーラ仏、すごい魅力的です。
西洋の彫りの深さに、東洋の神秘性が混じり合い、昇華した印象。
現代でもイケメン映画俳優として通用しそう。


時代が下ると、釈迦のほかに菩薩がつくられるようになりました。
その理由は、釈迦の役割は衆生救済ではなく、目標とする聖人なので、拝む対象にはなり得なかったから。
そのため、願いを聞いてかなえてくれる救済役の菩薩達が必要になったのです。

さらに時代が下り、斜陽を迎えた仏教は、生き残るためにインド土着の神々を取り入れ始めました。
古くから信仰されているヤクシャ(男神)、ヤクシー(女神)、
そしてヒンドゥー教の神々。
手がたくさんある千手観音、顔がたくさんある十一面観音、怒った顔の不動明王・・・
実はみな、ヒンドゥー教由来であり、
仏教オリジナルではないのですよ。
仏像ガールさん達、知っているのかな?
七福神もほとんどヒンドゥー教由来の神さまですよね。

もっとも、仏教が日本に伝来して広まる過程でも同じようなことが起きています。
日本の八百万の神々が仏となって現れた(あるいはその逆)とこじつけて浸透していった歴史があります。
「◯◯権現」というのがそのタイプです。
明治維新の際、「神仏分離令」が発令されて、ほとんど途絶えましたが。

日本の仏像は「中性」(男でも女でもない超越した存在)と説明されています。
女性のイメージがある観音さまも、実は女性ではありません。
一方、インドの神々は男神・女神が明確に分かれています。
男神はマッチョ系、女神はグラマー系。
写真はインドの博物館にあるヤクシー像ですが、仏像というよりベリーダンサーのような印象です。


ギリシャの女神よりもさらに女性らしい体の線が強調されています。
パンパンに張ったバストは豊かさの象徴であり、マニアの間では「丸乳」と呼ばれているそうです。
「豊穣をもたらす神は豊満でなければならない」という考えがベースにあると、
いとう&みうら氏が解説していました。

それから、インドから東へ伝わった大乗仏教は、盧舎那仏に代表される巨大化ももたらしました。

こう見渡すと、仏教といえども歴史の波にもまれて、生き残るために進化してきたことがわかり、
それはそれで感動的です。

私、なぜか昨年、突然ヒンドゥー教の神「ガネーシャ」(商売や学問の神)が欲しくなり、通販で2柱購入しました。
なぜだか自分にもわかりません(インドに呼ばれたのかな?)。


「ルポ 原発作業員2」

2014年08月11日 06時55分05秒 | 原発
ルポ 原発作業員2 ~事故から3年 それぞれの選択~
NHK ETV特集、2014.8.2放映



番組紹介
 40年ともいわれる「廃炉」への道を歩み出した福島第一原発。その現場を支えているのは 1日あたり5,000人といわれる原発作業員たち。しかし、その日常が報道されることは少ない。
 彼らは、いまどんな思いで、それぞれの仕事に向き合っているのだろうか。
 ETV特集では、2年前に「ルポ 原発作業員~福島原発事故・2年目の夏~」を放送。
 その後も、地元福島の下請け企業の協力を得ながら、彼らの日常を記録し続けてきた。
 事故から3年たったといえ、現場には高線量の汚染エリアがある。作業員の被ばく限度は5年で100ミリシーベルト。増え続ける線量をいかに抑えるか、困難な試行錯誤が続いている。
 一方、コスト削減圧力の中で下請企業の経営環境は厳しくなり、作業員の待遇はじわじわ悪化しているという。原発を避け、割のいい除染などの仕事に切り替える作業員たちも出てきた。
 ことし4月に放送したNHKスペシャル「シリーズ廃炉への道 第2回 誰が作業を担うのか」で放送した内容に、作業員たちへの長期密着ルポの映像を加え、廃炉現場の実態に迫る。




 前項はチェルノブイリの作業員の話でしたが、今回は日本の1F(いちえふ:福島第一原発を指すスラング)で働く作業員に焦点を当てた番組です。

 「あっ、この人達見たことがある」

 前回の「2年目の夏」を私は見ていたのでした。
 その時の作業員の表情は明るく鼻歌交じり。
 不思議に思って観察していると、どうやら報酬がよいらしい。
 1日数時間以内の作業で月給40万越えなので顔がほころんでいるのだと思わざるを得ない展開でした。

 しかし今回の番組では、その表情が曇り、原発での仕事を辞めていく若者も出てきたという内容に変化していました。
 理由は報酬の減額。
 国と東電は廃炉作業の費用を節約するために競争入札制度を一部導入しました。
 すると価格競争が発生して安く請け負う下請け会社に発注することになり、末端作業員の賃金は低く抑えられる傾向になります。
 マンパワー確保が難しくなってきて国は競争入札制度を縮小し、さらに1日の報酬を1万円上乗せすると発表しました。
 しかし、受注金額に組み込まれるため、一次・二次下請けで吸収・拡散し末端作業員に回るのは1000円の上乗せのみ。
 「90%ピンハネされるなんて、バカバカしくてやってらんない!」
 今や原発作業員の報酬は除染作業とあまり変わらなくなり、被曝のリスクを冒してまで選択するメリットがなくなったのです。

 番組の中で、ひたすら「お金」の事が取りあげられました。
 廃炉作業の本質、“やりがいを感じにくい仕事”ということが見え隠れします。
 当初あった「社会の役に立っている」というささやかなプライドは消え去り、何も生みださず、自分の体が汚染される仕事に、心が疲弊してしまう様子が見て取れました。

 石原環境大臣が「最後は金目でしょう」とコメントして物議を醸しましたが、悲しいかな現実はその通りなんだ、と感じました。

 チェルノブイリでは今でも作業員の報酬は高額で、地域の他の仕事の2倍程度と前の番組で知りました。
 「お金のためにここで働いている」と開き直る作業員達。
 日本と違うところは、女性が多いことと、ウクライナ国内だけでなくポルトガルやドイツなどの外国からの出稼ぎ労働者がいること。

 30年後の日本も同じ状況になっているかもしれません。

「チェルノブイリから福島へ~未来への答案~」

2014年08月10日 15時30分00秒 | 原発
毎年8月になると戦争に関する番組が増えます。
私にとっても8月は「戦争」「原発」について思いをめぐらす季節になっています。

され、表題の番組はBS日テレ「NNNドキュメント’13」で2013年10月28日に放映されました。
原発事故を取りあげる番組は多々ありますが、今回はそこで働く労働者に光を当てた内容です。

<番組解説>
爆発した原発の廃炉は、通常の廃炉より格段に難しい。今も福島第一では溶けた核燃料がどうなっているか全く分からない。しかも廃炉にあたるのは3次、4次、5次下請けなどの原発関連の作業経験が少ない人が多い。被曝線量がオーバーすると働けなくなり、また新たな人が補填される。これでは想定の30~40年で廃炉を完了できるとは思えない。核大国・旧ソ連がチェルノブイリ収束の為に取った対応と比較して、今の日本はどうなのか?一番の違いは姿勢だ。チェルノブイリには廃炉・除染の作業員を養成する訓練センターが作られた。廃炉に手練れを、という戦略だ。日本は今の形のままでいいのか?福島とチェルノブイリの大きな違いをつまびらかにし、日本が取るべき正しい道筋を探りたい。


27年前に起きたチェルノブイリ原発事故。
ソビエト崩壊後はウクライナが管理しています。
チェルノブイリの“今”を知るべく取材班は操作室まで乗り込み撮影しました。
そこで見て感じたことは・・・チェルノブイリは「廃炉」ではなく「廃墟」と化した事実。



コンクリートで固めた“石棺”はあちこちほころび、雨漏りをして汚染水がたまる一方。
すでに運転は停止しているのに何千人もの職員が働いています。
現在、石棺劣化の対策として「新シェルター」の建設が進んでいます(2015年完成予定)。
これは石棺を丸ごと覆うシェルターで、将来その中で無人器械が解体作業と放射性物質の取り出しを行う予定とのこと。



しかし、
「その“将来”とはいつか?」 
と問われて関係者の言葉は濁ります。
「おそらく100年後・・・我々の世代ではないだろう」
とのコメント。
いや、100年後に放射性物質を取り出すかどうかわからない、放射性物質の処理・最終的な廃棄方法が決まらないなら、むしろそのままの方が安全かもしれないと判断される可能性も示唆していました。

ここに、廃炉作業に潜むジレンマが垣間見えました。
廃炉を急ぐと線量の高い作業となり被曝のリスクが高くなる。
廃炉が遅れると現場を熟知した技術者がいなくなりトラブルが多くなる。
ウクライナの技術者の口からは「福島は廃炉を急いではいけない。急ぐと危険だ。」というコメントが発せられました。

チェルノブイリ原発で働くためには国家資格が必要です。
近隣の街で5日間40時間の講習を受け、試験に合格しなければなりません。
その研修は実際的で「事故が起きた原発内での働き方」をたたき込まれます。
取材に当たった解説者が試しに受けたら不合格でした。
原発の知識よりも「現場でどう動くか」に重点が置かれていると感想を述べていました。

一方、日本の福島原発の現場はどうでしょうか。
はじめて働く人向けに研修があるようですが、そこでは事故の起きていないふつうの原発で働く内容しか教えていないそうです。

ウクライナの講師は「放射能は怖いもの」と教え、
一方、日本の講師は「放射線は安全なもの」と教えている
、この歴然とした差が印象的でした。

さらに、チェルノブイリ近郊の街から遠くへ強制移住させられて住民達が、
私たちはもう故郷に戻れない。福島の人たちも帰れないと思った方がよい。
と重い言葉を残して番組が終わりました。

生ききる(瀬戸内寂静&梅原猛)

2012年07月28日 17時43分31秒 | 原発
角川ONEテーマ21(角川書店)、2011年発行。

説明の必要がないほど有名な二人の、東日本大震災をテーマにした対談集です。
お二人の年齢を合わせると175歳・・・時が過ぎました。

梅原猛さんは日本の歴史をその根底に流れている哲学・思想からひもとく斬新な手法で著作を世に問うた哲学者です。
「日本の深層」(1983年発表)をドキドキわくわくしながら読んだのは20年以上前になります。
久しぶりに「梅原節」を味わい、半分懐かしささえ感じました。

長生きしてもう怖いもののない二人の歯に衣着せぬ言葉が飛び交います。
内容は多岐にわたり、お二人の生い立ちから、宗教(特に仏教)、日本の古典文学にも話題が及び、興味深く読ませていただきました。

東日本大震災に関する共通の認識は「原発事故は人災」ということ。
この言葉が繰り返し登場します。
今を生きる我々は、”長老”とも云うべきお二人の言葉をかみしめる必要があると思いました。

天災も恐ろしいが、原発は明らかに人の作った人災である。戦争と同じ人災である。」(p5)
戦争も人災ですけど、原発も人災です。天災じゃありません。人間の作った災い、人災。人災は天災よりもっとひどいです。」(p19)
原発の問題はね、近代文明による文明災なんですよ。」(p57)
原爆を落とされて日本は原爆を持たない国になった。今度は、このひどい原発事故を受けて、原発を作らない国になるというのが道理です。」(p188)


メモ
 自分自身のための備忘録。

(瀬戸内)東北の人たちが排他的なのは無理もないんです。冷害や台風などの天災で、飢饉が多い。それでいつも貧しい。もう苦労ばっかりしている。だから他所から人が来たら、女房を取りに来た、娘を取りに来たと思うんです。他者を受けつけない。それは仕方ないんです。
 昔は、飢饉になったら娘や女房を売らなきゃ仕方がなかった。吉原は多くが東北の人ですよ。

(梅原)大乗仏教では「煩悩即菩提」といいます。煩悩の強い人ほど仏になれると。寂静さんを見ていると、人一倍愛欲の強いお方でね、そのお方が発心して僧侶になると云うことで、煩悩の強い人間ほど立派な菩薩になれるという節を、私は寂静さんという人間を見続けてきて確信しました。
 大乗仏教の創始者・龍樹はたくさんの女性と交わることが人生の一番の喜びだと考えた。それで仲間とともに宮廷に忍び込んでは多くの宮女と関係した。宮廷では宮女が妊娠するので曲者が入っていると、闇雲に切りつけたら、龍樹の仲間はみんな殺されて、龍樹一人が残った。そしてまあ、人生のむなしさを知って仏教徒になったということです。これは鳩摩羅什の訳と云われる『龍樹菩薩伝』に書かれていることですが。

(瀬戸内)人間この夜で辛い目に遭うっていうのは、遭った人の方が思いやりが深くなる。兼好法師が『徒然草』で「友とするのにわろき者」、つまり友としたくないのは「病なく身強き人」と挙げています。つまり「健康な人とは友達にならない方がいい」というわけ。

(瀬戸内)(夫の赴任先である中国で敗戦を迎えた際)しかしソビエト軍の入ってきた満州にいなくてよかったですよ。中国人はソビエト軍みたいなことはしない。蒋介石軍でも中共軍でも一応のモラルがあったが、ソビエト軍にはありませんでしたから。
・・・戦後の混乱に乗じてソビエト人はよっぼどひどい行為を日本人にしたのですね。

(梅原)今、被災地で何をやらないといけないのかといったら、それは瓦礫の撤去とともに、道を直し、橋を架け、そして死んだ人を埋葬し、弔うこと・・・これはまさに行基集団が行った仏教です。空也上人の仏教です。

(梅原)仏教には二度革命がありました。一度目は龍樹による革命ですが、小乗仏教がややもすれば人里離れた山に閉じこもり、静かな悟りを楽しむという仏教であるというのに対し、龍樹は自ら町の中で苦しめる人間を救う菩薩の仏教を確立します。これが大乗仏教の成立で、仏教の第一の革命です。
 親鸞において仏教は第二の革命を持ちます。それは女犯の肯定であり、僧の結婚の高らかな宣言です。これは仏教が長年持っていた女性差別の完全な否定と言ってよいでしょう。個々で初めて男女平等の仏教が成立したと云うことができます。

(梅原)一遍の詠んだ和歌;
「をのづからあひあふときもわかれてもひとりはをなじひとりなりけり」

(梅原)本居宣長は「和文で書かれた『古事記』はいいが、漢文で書かれた『日本書紀』はだめだ」といっていますが、そうじゃなくて『古事記』は歌物語で、『日本書紀』は歌物語じゃないと云うことです。
 前王朝の滅びの詩的な哀しさと美しさ、それを描いているのが『古事記』です。

(梅原)縄文文化は1万3千年前からあった森の文明であり、日本の基層文化です。三千年前に米を作る人たちがやってきて弥生文化を生んだ。縄文文化と弥生文化の二つの文化を統一したのが大和朝廷でしょう。この大和朝廷が今の天皇家に繋がってゆきます。

(梅原)原『古事記』は天武天皇の時にできたもので、私は柿本人麻呂が原作者じゃないかと思っているんです。それを稗田阿礼と称した藤原不比等が手を入れたんじゃないかと思います。
 神代の所に手を入れて、神代の功績者を全部藤原氏の祖先神にしたタケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ等の神々を藤原氏の祖先神にした。そしてタカミムスビ、オモイカネという藤原不比等を思わせるような神々を登場させている。つまり天皇家を支えたのは藤原氏の祖先神だけのような印象を持たせるように書いている。そこだけは藤原氏の立場で書いたフィクションですが、他はおそらくずっと日本に伝わっていた土地土地の伝承や伝説をそのまま語っている。

(梅原)大和王朝の前に出雲王朝という小国があって、その創始者がスサノヲで、それを大国にしたのがオオクニヌシ。

(梅原)中国は歴史、日本は和歌の国です。日本でも歴史書として『日本書紀』が作られましたが、続かなかった。中国の王朝は代々の王朝の歴史書を作った。日本では、代々の天皇は『古今和歌集』を初めとする「勅撰和歌集」を作ってきました。

(梅原)中国も詩の国だけどちょっと違うんですね。日本の詩は叙情詩です。中国に漢詩は自分の思想を詠うんですよ。それも素晴らしいけど、日本のものはなんかこう滅びゆく人生の真実を詠ったような、滅びゆくものへの哀しみという・・・。

(梅原)正月というと獅子舞です。獅子舞は神楽で出る曲芸ですね。その大もとの伊勢大神楽は、桑名藩が保護したので、今は桑名市大字太夫を根拠地としています。かつては伊勢派と熱田派があり、各々伊勢神宮・熱田神宮に奉仕していた。伊勢派の一派の寄る社の一つは出雲大社です。熱田派は、東京で寄席芸として残っています。

(梅原)勧告の宮廷物語は大変面白いのですが、血なまぐさい。負けた人間は殺される。『源氏物語』みたいなゆったりとしたところがない。政争が残酷なんです。そこが日本の宮廷文学との大きな違いじゃないかと思います。
 平安時代は平和な時代だった。その平和は根底に仏教があったからだと思う。韓国の場合は儒教。儒教は仁などといいながら人を殺す。

(梅原)日本の文化人はみな怨霊になっています。聖徳太子にしても、柿本人麻呂にしても、菅原道真にしても、世阿弥にしても。怨霊にならんと一級の文化人にはなれない。

(梅原)靖国神道は記紀神道とは違う。記紀神話では国つ神のオオクニヌシを皇室の祖先神である天つ神の天照大神と同じように、あるいはそれ以上に詳しく描いている。しかるに靖国神社は味方の霊のみを祀って敵の鎮魂をしていない。そこに首相が参拝すると十五年戦争で大変被害を受けた中国や韓国からクレームが来ないはずがない。

(梅原)明治時代に神殺しは始まっていた。この神殺しに抵抗したのは南方熊楠ただ一人です。地方の神が全部天皇家の祖先神に統合されるのに反対したんです。神社合祀で、小さな神、名前のない神は否定され、大きな社に統合された。これは神殺しだと熊楠は思い、反対しました。

(瀬戸内)戦争が終わったときアメリカは、なぜ日本の国は小さいのにあんなに戦争が強かったのか調べたそうですね。そうすると、家族制度だって云うわけです。それでまず家族制度を滅ぼせと云うことで、マッカーサーが来て、核家族を奨励したそうです。家に年寄りがいなくなると古いことがわからなくなって、だんだん家族が弱くなった。アメリカの政策が勝ったんです。日本は戦争に二度負けたんですよ。

(梅原のあとがき)世界の先進国はすべてエネルギーの何割かを原子力発電に頼っている。それは自然にない不自然なものを作り出し、それによって豊かで便利な生活を享受しようとする現代人の欲望の産物と言ってよい。
 従来の科学技術は自然を征服する対象と考えた。しかしこれからの科学技術は自然と共存するものにならねばならない。私は近代文明は人間の傲慢であったと思う。傲慢の文明を反省して、自然の恐ろしさを知ると同時に、自然の恩恵に感謝する文明を創らなくてはならないと思う。


「梅棹忠夫の理性と英知」

2012年02月06日 07時22分21秒 | 原発
 早くから文明の二面性に気づき、警告してきた民族学者・比較文明学者。
 SF作家の小松左京さん達と共に「日本未来学会」を設立した京都学派の一人。
 彼は文明が発展するほど、人類が滅亡に近づくことに苦悩していました。しかし、絶望で終わってはいません。遺稿となった未完の「人類の未来」の最後の章には「光明」という言葉が記されていたのです。
 果たしてその意味とは?

【ETV特集】暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~
 大阪に国立民族学博物館を創設、日本の民族学研究の礎を築き、比較文明学者として数々の業績をなした梅棹忠夫(うめさお ただお)が、昨年7月、90歳で亡くなった。梅棹は、大阪と生地京都を根拠地とし、世界中で学術探検を重ね、その知見をもとに戦後の日本社会に大きな影響を与えつづけた「知の巨人」だった。
「暗黒のかなたの光明」
 2010年に亡くなった比較文明学者で「知の巨人」といわれた梅棹忠夫の未刊で、幻の書ともいわれる「人類の未来」の資料が発見された。そこには半世紀前に、地球規模のエコロジーの視点から人類の暗い未来を見据え「暗黒のかなたの光明」を求める梅棹の姿があった。大震災で文明世界の価値観がゆらいでいる今、梅棹と交流があった作家・博物学者の荒俣宏が、宗教学者・山折哲雄やほかの識者と共に、現代への問いかけを考える。


・・・続きは後ほど・・・

「チェルノブイリ 再生の歴史」

2012年01月01日 19時42分12秒 | 原発
 Eテレで「日本賞」受賞作品として紹介・放映されました。

~番組紹介文~
 教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を紹介する。チェルノブイリの原発事故から25年、周囲の生態系への影響を検証するフランスのドキュメンタリー番組。
 教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を3夜連続でノーカット放送する。2夜目は、生涯教育カテゴリーで最優秀作品に選ばれた「チェルノブイリ 再生の歴史」(カメラ ルシーダ プロダクション/フランス)。原発事故から25年。チェルノブイリ周辺は、悲劇の結果ではあるものの、予期せず手に入れた重要な野外実験場となっている。現地で調査を行う専門家の長年の研究結果をもとに、放射能汚染の脅威を描く。


 以前、チェルノブイリの特集番組で「現在のチェルノブイリは野生動物の天国となっている」というコメントがあり、ずっと気になっていました。この番組は、その現象を多角的に捉えた内容です。

放射能汚染の影響
 まず、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染の影響。
 事後直後の周辺は、放射能の直接の毒性により動物は死に絶え、植物も枯れました。
 しかしその後、徐々に動物が増え、植物も勢いを取り戻してきたのでした。
 放射能汚染は続いているのになぜ?
 現在も半径30km以内は立ち入り禁止地区のままです。

 研究者達は、植物・動物の種類により放射能への抵抗性の違いを証明しました。
 例えば、マツは枯れてしまったが、シラカバは生き残った。
 この違いを遺伝子DNAの太さの違いで説明していました。
 マツのDNAは太いので、放射能により傷つきやすい一方で、カバのDNAは細くて傷つきにくいということ。
 ネズミは傷ついたDNAを修復する能力が高いが、ツバメは低い。これは渡り鳥という習性を持つツバメはDNA修復に重要な抗酸化物質を長距離飛行の際に使い果たしてしまうから、と説明していました。
 ネズミは立ち入り禁止区域外から複数の種が入りこみ増えている一方で、鳥類は入ってきても死んでしまうので総数は減っている。

 動物の種により、放射能への抵抗性が異なるのですね。
 ヒトはどうなんでしょう?

化学物質汚染からの解放
 次に、本来の自然の再生という視点。
 チェルノブイリ周辺の自然は、人間が住むことにより化学物質汚染を被ってきました。材木を作るための植林とそれに伴う殺虫剤、農作物を作るための農薬散布。
 そして原発事故後は人間がいなくなるとともに、化学物質汚染からも解放されたのです。
 すると、処理されない朽ち木に虫が住み、それを食べる鳥や哺乳動物が増えて昔の食物連鎖が復活し、多様性が育まれるに至りました。
 つまり、人間の手が入らない、原初の豊かな自然に戻ってきたわけです。

 人間って、自然にとってはストレス以外の何者でもないのですね。
 いや、自然と共生する「里山」システムは良かったはず。農薬(化学物質)を使うようになってからは「敵」に変化してしまいました。
 皮肉にも、現在のチェルノブイリは放射能毒性の研究者や食物連鎖の研究者には貴重な宝の山になっていると番組は締めくくりました。