知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

THE歴史列伝「間宮林蔵」

2017年11月12日 08時14分09秒 | 歴史
 2年前以上に録画しておいたTV番組を見てみました。

 それまでの私の間宮林蔵に対するイメージは「北方探検をして間宮海峡を発見した人物」という教科書的な知識のみ。
 この番組を見て、そのイメージがよい意味で崩れ去りました。

 間宮林蔵は頭脳明晰な神童と呼ばれ、とくに算術に秀でたため10代で江戸に迎えられて地図作成のための測量に従事するようになりました。
 幕末の北海道はロシアから開国を迫られ、それを拒否すると海賊的実力行使に出てくるロシアが脅威となっていました。
 しかし江戸幕府にはその北方の情報が乏しいため、松前藩の管轄から幕府直轄へ移すとともに、林蔵に調査を命じたのでした。
 つまりこの段階では「探検」ではなく「業務」だったのです。
 
 蝦夷(北海道)の調査を終えると、次の指令は「樺太が半島なのか島なのか、それからロシアの脅威がどこまで迫っているのか確認すべし」というものでした。
 しかし極寒の樺太行きの中、凍傷も煩い、途中で断念して戻らざるを得ませんでした。
 
 負けん気の強い林蔵は、再挑戦を申し出ます。
 ここからは「業務」というより「探検」の要素が強くなってきます。
 そして樺太が島であることを確認し、樺太に住む原住民とともに中国大陸に渡り、アムール川沿いの町でロシアの脅威がまだ迫っていないことを確認して帰国の途についたのでした。

 その後、生涯の師と仰いだ伊能忠敬の仕事の日本地図作成の北海道部分を完成させました。
 あの地図は伊能忠敬と間宮林蔵の合作だったのですね。

■ THE歴史列伝「北方探検 間宮林蔵」
2015年6月12日:BS-TBS
<ゲスト>
作家:北方謙三、探検家・作家:髙橋大輔
<内容>
 今回の列伝は、江戸の探検家・間宮林蔵。幕命を受けて、蝦夷地を調査することになった林蔵がみたものは、ロシアの脅威・・。時代は江戸後期、ロシアが日本に迫っていた。さらなる幕命は、蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。
 極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。



<詳細>
 今回は、江戸時代・北方探検を行なった間宮林蔵。未開の地・樺太を探検し間宮海峡を発見。さらに世界で初めて詳細な樺太の地図を作成した。しかし、それを成し遂げるまでは苦難の連続だった。ロシア帝国の攻撃や凶暴な異民族の襲撃。凍傷となり死をも覚悟。そして林蔵は間宮海峡を越えアジア大陸の大探検へ。そこで見たものとは・・・!?不屈の探検家、間宮林蔵の波乱の人生に迫る。



立身出世の思い
 間宮林蔵は1780(安永9年)年、常陸国の農村で生まれた。先祖は武士だったが戦に敗れ農民となる。家は貧しく農業だけでは生活できないため、父は箍職人として家計を支えた。そんな父の背中を見ながら育った林蔵は、いつしか立身出世の思いを抱くようになった。

算術小僧
 7歳頃、寺子屋に通い始めると林蔵はたちまち利発さを発揮。特に算術の才能に長けていた。また、身近にあるものをなんでも測ってしまうという変わった趣味の持ち主でもあった。
 そして15歳の時、立身出世への道が開ける。村に流れる川に堰を造るため、治水工事の役人が訪れた際、林蔵は算盤を使って計算する役人を一笑。得意の暗算で堰を作るのに必要な計算を即座に行なったという。役人たちは驚き、「筑波に算術の神童あり」と林蔵の存在は江戸にまで知れ渡った。そして全国の測量や地図製作に関わる不審役、村上島之允の弟子として江戸へ行くこととなったのである。

蝦夷地の測量
 故郷をあとにして4年、林蔵は師匠の村上島之允に付き、各地で測量に明け暮れていた。そんな林蔵と島之允に、幕府は蝦夷地の調査・開墾を命じる。領土拡大をはかるロシア帝国の脅威に備えてのことであった。しかし当時、蝦夷地は未開の地。測量しようにも、まずは広大な地に道を作ることから始めなければならなかった。さらに冬には氷点下の寒さが襲う。作業は遅々として進まなかった。そんなある日、林蔵はある男と出会う。
 幕府の天文方として蝦夷地に地図作りに来ていた伊能忠敬だった。若き林蔵は30歳以上年上の伊能の知識と根気に感服。伊能を師と仰ぎ、測量術を学んだ。そしてその後、蝦夷地の開墾・測量という大事業にまい進していく。
ところが・・・蝦夷地に来てから7年。測量で訪れた択捉島で突如ロシア帝国の軍艦から大砲で攻撃を受ける。それは開国をしない幕府に対する報復だった。圧倒的な火力に為す術なく逃げる日本人たち。林蔵も択捉島の測量を断念して帰国。異国の脅威を身を持って体験したのだった。

樺太探検
 1808年(文化5年)、林蔵は幕府から樺太探検を命じられる。ロシア帝国はいったいどこまで迫っているのか?それを知るため、蝦夷の北にある樺太を調べ、ロシア帝国との国境を確認する必要があった。
 しかし樺太は遠浅の海が続き潮の流れが早いため船が近付けず、謎に包まれていた。そのため半島という説と、島という説があるほど。林蔵は故郷に自分の墓を作り死を覚悟して樺太探検に挑んだ。
5月8日、林蔵は上役・松田伝十郎と二手に分かれ、船で樺太沿岸を調査する。林蔵が東海岸を北上、松田伝十郎は西から進んだ。しかし荒れ狂う海や複雑な地形に行く手を遮られ、林蔵と伝十郎は島か半島か確かめることができないまま、無念の帰国を余儀なくされたのだった。

第二次樺太探検
 一度蝦夷に戻った林蔵は、再探検を奉行所に願い出る。そして今度は一人で樺太探検へ出発した。しかしその途中、凶暴な異民族に襲われたり、予想よりも早く訪れた樺太の冬に足止めを食らった。林蔵は凍傷にかかり、命からがら樺太アイヌの村に避難した。そこで林蔵は村人たちに助けられる。彼らの知恵を借り、犬の毛皮を身に付け、生肉を食べる林蔵。そして樺太で越冬した後、再び探検へ。今度は現地の人々の船を借りたことで最北の集落まで到着。その先は海が広がり、樺太は大陸と繋がっていない“島”であることを確信した。と同時にそれは、後に自分の名が付けられる間宮海峡の発見の瞬間でもあった。

海峡を渡り中国大陸へ
 樺太の測量を終えた後も林蔵は江戸に戻らず、樺太北部の村にいた。もう一つの目的、ロシアの国境を探るためである。そんなある日、村長が清国へ貢ぎ物を上納するため、大陸へと渡ることを知った。林蔵は同行を願い入れ、村人たちと共に中国大陸へ渡る。間宮海峡を7日間かけて渡った後、船を担いで山を越える。そして再び船に乗ってアムール川を遡ること約100キロ、ようやく目的地であるデレンに到着した。そこで清国の役人から、ロシア帝国の力が及んでいないことを聞き出す。
 樺太再探検から一年半。林蔵は樺太が島であることを確認し、ロシア帝国の勢力も見極めること。自分の目的を見事に成し遂げたのだった。



「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」
 1810年(文化7年)、帰国した林蔵は探検の詳細を二冊の本にまとめ、幕府に献上する。「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」である。これを見た幕府の役人たちは驚愕した。いまだ誰も目にしたことのない樺太の正確な地図と、謎に包まれていた北方の人々の暮らしぶりが描かれていたからだ。
 そして世界が知りたがっていた樺太周辺の地図は当時日本に訪れていたドイツ人医師・シーボルトによって西洋に伝わる。林蔵の発見した間宮海峡は、その後、世界中の人々が知ることとなったのである。


 見ていて「おや?」と感じたこと。
 樺太探検中に原住民の「○○民族」という名称がいくつか出てくる一方で、樺太行きに同行して案内を勤めた人々は「樺太アイヌ」と呼ばれる人々でした。
 「えっ、アイヌ民族は樺太にも住んでいたんだ」という新鮮な驚き。
 歴史の教科書には出てこない事実です。

 それから林蔵が残した書籍の挿絵がまことに興味深い。
 下図は子どもをあやしている図(児童虐待ではありません)。



<参考>
■ Wikiwand「アイヌ
■ 「東韃地方紀行」(国立公文書館)
■ 「北夷分界余話」(国立公文書館)

「デホヘ〜、デホヘ!」

2017年11月04日 17時28分56秒 | ふるさと
 これは愛知県の山奥、奥三河の花祭の掛け声です。
 花祭は国の重要無形文化財に指定されています。
 秋から冬にかけて、各村で順番に神(≒荒ぶる厳しい自然)を舞を奉納する祭りは、修験者の山伏が伝えたとされています。
 天竜川支流の山村は自然が厳しく、その昔、人々は住んでいませんでした。
 密教〜修験道〜熊野信仰が日本全国を席巻した平安時代になると、厳しい自然の中で修行する山伏にとって奥三河は理想郷でした。その頃から開拓が始まり、人々が住み始めたようです。
 修験者が執り行った大神楽(三日三晩舞続けた)が簡略化したものが花祭であり、神に奉納する役割に加えて山伏の修行という要素も含むため、その舞は激しく、朦朧とした意識状態で舞い続けるという特徴があります。

 近年(といっても20年以上前)にプロの太鼓集団「志多ら」(しだら)がこの地域の東園目に住み着きました。
 太鼓を思う存分練習できる環境を探し求めてたどり着いたそうです。
 現在はメンバーの子どもも花祭に参加するようになり、地域に溶け込んでいます。

 この番組を見ていると、子どもが大人たちに、大人たちは厳しい山の自然に「抱(いだ)かれている」という印象を強く持ちました。

 昔、元服する13歳までは子どもは神の子と考えられていました。
 稚児の舞は、それを地域で見守る温かい大人たちの視線見守られている様子が見て取れました。
 13歳になると自立できたことを感謝する舞に代わります。
 3世代、いや4世代が一堂に会して命をつないでいくことを言葉ではなく体で理解する貴重なイベントですね。
 村に住む人々の縦と横のつながりを結ぶ“絆”という字を体現するのが氏神を祭る神社の祭りであることを改めて感じました。

 私の住む地域・世代には村祭りの経験がありません。

■ パナソニックスペシャル「鬼が舞う!鬼は神!人も舞う!」〜奥三河・天竜の懐に残る花祭〜
2016年6月4日:BS朝日
<番組概要>
 かつて隠れ里といわれた奥三河に伝わる国指定重要無形民俗文化財…4Kカメラで撮影した圧巻の映像美と1年以上にわたる長期取材で克明に描く!
 
【花祭とは?】
 かって、民俗学者の柳田國男、折口信夫らも深い関心を寄せ、”花(花祭)に入らずば、日本の伝統芸能は語れない”ともいわれる奥三河の花祭。
 太陽の力の復活を願って八百万の神々を勧請し行われる『霜月神楽』の一種とされ、その起源は700年以上前にさかのぼるという。
 7日7夜通した祭事から発展したとされ、祭場の清めの神事からはじまり、神迎え、湯立て、宮人の舞、青年の舞、稚児の舞、巨大な鬼の面をつけた鬼の舞、禰宜や巫女・翁などの神々の祝福、少年の舞、湯で清める湯ばやし、清めの獅子舞、そして神送りまで、数々の次第を休む暇なく、ほぼ一昼夜をかけて、村人、近在の人々、そして、遠来の客までを巻き込んで行う祭りである。
<放送内容>
 愛知県境の山間をながれる天竜川水系。奥三河と呼ばれるその山奥で不思議な祭りが行われている。それは花祭、地元では“花”と呼ばれている。
 現在、愛知県の奥三河で、伝承地域は15か所。11月から3月の間に、それぞれの集落の独自性をもって伝えられている。
 かって、民俗学者・柳田國男に民間芸術を談ずるものは之を知らなければ恥とまで称された花祭。柳田らが着目してから100年近く、日本の精神風土も国の姿も大きく変化した現在。この古典芸能のルーツを窺わせる花祭に、今もまだ人々は熱心に打ち込み、当地のもの以外でも、一度でも触れたことがある者たちを、惹きつけている。その揺さぶられる私たちの心の奥底にあるものとはなんなのだろうか。
 この花祭に深い関心を抱いたのは、歴史小説を通じ日本人の魂を描き続ける葉室麟さん。 “営々と受け継がれた祭りは昔の日本人の心をそのまま現代に伝える“生きた歴史”なのではないか?”と語ります。私たちの全てから、音も無く、砂が零れ落ちるがごとく、失われつつある遠くからの記憶、生活の基盤、生き方のしぐさ、それこそが私たち日本人の風儀なのではないだろうか、、、その日本人の風儀がこの祭りにはあるのではないだろうか、、、
 そんな思いを抱いて、葉室さんと共に、一年以上にわたり、花祭、それに関わる人々、この山間の地区の生活への取材を行い、何故これほどの祭りが人里離れた山奥に伝わったのか、何故山深い里に遺され行い続けてきたのか、そして人々はなぜ今だに祭りを継承し舞い明かすのか、を感じ、考える。花祭に寄せる人々の想いとともに、古来日本人が受け継いできた魂の源流を辿ります。

ナビゲーター : 葉室麟、ナレーター : 小雪


<参考>
OKUMIKAWA HANAMATSURI 奥三河の花祭