知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

源頼朝の実像

2019年12月28日 16時58分37秒 | 歴史
中学生時代、「いい国(1192年)造ろう鎌倉幕府」と語呂合わせで年代を覚えたことを記憶しています。
もう、40年以上も前になるのですねえ。
世界の国とその首都を覚え、友達同士でクイズに出し合ったことも。
今でも結構覚えています。

私はもともと、歴史に名を残す人物にはあまり興味がなく、歴史を底辺で支えてきた“ふつうの人々”の方に興味があるものですから。
なので、柳田国男、宮本常一、五木寛之氏などの本が好きです。

というわけで、源頼朝という武将について知っていることは、教科書の範囲内にとどまります。
ふと録画してあった番組を視聴したので感想を書き留めておきます。

頼朝が歴史の舞台に踊り出たとき、その年齢は13歳。
“保元の乱”で挙兵し、その後役職をもらいます。
しかし間もなく平清盛に追い出され、ふつうは打ち首になるところを母方の血筋の恩恵を被って流人として生き延びることができました。

流刑先の伊豆で約20年間過ごすことになりますが、慎重に時流を読んで平家打倒に挙兵します。
身内である親戚の木曽義仲や、弟の義経との確執もありましたが、結局勝ち残ったのは頼朝で“征夷大将軍”として政権を握ります。
しかし自分の娘を天皇家に嫁がせて覇権を握る一歩手前で病死してしまい、鎌倉幕府は長くは続きませんでした。

番組を通じて感じたのは、
・昔の人は簡単に死んでしまう。
・武士はどちらの味方に付くのかで運命が決まるので、空気を読む能力がないと生き残れない。

それから、義経との確執について。
頼朝は唯一の肉親である義経を信頼しかわいがり、鎌倉に呼び寄せて近くに置いておきたかったが、義経は京都から離れなかったため、自分の意に沿わぬ義経を徐々に危険視するようになり、最後は敵と見なして追討することになったと解説していました。
義経はAsperger症候群だったので、頼朝の心情を理解できずに単純明快な行動したので頼朝の反感を買った、という説もありますね。



にっぽん!歴史鑑定「流人から将軍へ!源頼朝の生涯」
2019年12月23日 BS-TBS
 今回は流人から将軍となった源頼朝の生涯を徹底鑑定!平清盛との戦いに父と共に参戦するも賊軍となり敗走!処刑される運命だったにも関わらず、頼朝はなぜ、伊豆への流罪で済んだのか?平家打倒を胸に秘めながら20年もの流人生活!伊豆での意外な暮らしぶりとは?そして、そこから如何にして味方を集め、挙兵したのか!?さらに、平家を滅亡させた功労者、弟の義経とまさかの対立!頼朝が実の弟を死に追い込んだ真相とは!?


<参考>
WEB歴史街道「源頼朝の生涯~流人から征夷大将軍へ
 久安3年4月8日(1147年 5月9日)、源頼朝が生まれました。河内源氏・源義朝の三男で、鎌倉幕府初代将軍です。
 熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前を母に生まれた頼朝は、父・義朝が保元の乱で勝利すると、母の家柄を背景に昇進を重ね、平治元年(1159)には13歳にして右近衛将監、二条天皇の蔵人に補任されました。しかし同年末の平治の乱で義朝は敗れ、東国へ落ちる途中で討死。捕らえられた頼朝は平清盛に処刑されるところを、池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆に流されたといわれます。
 父や源氏一統の菩提を弔う伊豆での流人生活は、しかし決して楽なものではありませんでした。関東の豪族の中には父・義朝に力づくで臣従させられた者もおり、源氏の嫡流とはいえ一族の後ろ盾のない頼朝など、その気になればいつでも殺すことができます。頼朝にすれば、相手を侮らず、隙を与えず、己の面目を保たなくてはなりません。そうした緊張関係が、後の鎌倉幕府の厳格な御家人統制につながっていくことになります。
 治承2年(1178)頃、頼朝は地元の豪族・北条時政の娘・政子と婚姻を結びます。時に頼朝、32歳。2年後の治承4年、以仁王の平家追討の令旨を受け、頼朝は東国の諸豪族に参集を呼びかけて挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れて安房へ逃亡。しかし房総、武蔵の武士を味方につけることに成功し、父や兄・義平とゆかりの深い相模国鎌倉を本拠とします。
 これに対し、平氏の追討軍が迫りますが、富士川の戦いでほとんど戦わずに勝利。また奥州から駆けつけた弟・義経を得て、東国の基盤を固める一方、義経らを代官として木曾義仲や平家一門を討たせました。さらに功を挙げた義経が頼朝の許しを得ずに任官すると、これを追放。義経が奥州藤原氏を頼ると、平泉に攻め込み、制圧しました。時に文治5年(1189)10月、治承4年以来、10年近く続いた内乱はここに幕を閉じます。
 文治元年には全国に守護・地頭を置くことの勅許を得て、武家政権の強化を着々と進める頼朝の前に、最後まで立ちはだかったのは後白河法皇でした。建久元年(1190)、頼朝は上洛し、征夷大将軍就任を望んだものの認められず、代わりに権大納言、右近衛大将に任ぜられます。しかし頼朝は任官から一月も経たぬうちに辞官して、鎌倉に戻りました。これについては後白河法皇が征夷大将軍を授けることを拒んだためとされますが、むしろ拒んだのは頼朝の方であったともいいます。
 実は幕府を開くについては、右大将もしくは辞官した後の前右大将でも可能でした。しかし頼朝はそれでよしとせず、後白河の崩御を待って征夷大将軍に就任するのです。なぜか。まず右近衛大将でよしとしなかったのは、職の性格が朝廷の近衛府の長官であり、朝廷から独立した武権の主の地位としては相応しくないと考えたからと見られます。その点、征夷大将軍は朝廷から独立して臨時軍政を布く権限を有しており、武家政権に適していました。
 また後白河の崩御を待ったのは、法皇によって将軍に任命されるかたちを避けるためです。法皇に任命されれば、逆に解任する権限も法皇が持つことになります。頼朝は特定の個人ではなく、国家から征夷大将軍に任命されることで、実は「天皇をも例外としない」統帥権を獲得しました。後の承久の乱において、その権限が機能するわけです。頼朝の狙いは外れなかったというべきでしょうか。

日本の縄文時代 〜定住し奇跡の大集落を形成〜

2018年02月16日 08時14分59秒 | 歴史
アジア巨大遺跡 第4集「縄文 奇跡の大集落」~1万年 持続の秘密~
2015年11月8日:NHK

 昔々、私の世代が学校で教えられた“縄文時代”は、狩猟採集生活で、人々は定住せずに不安定な流浪の生活をしていた、その後稲作が大陸から伝わり、弥生時代を迎えた・・・というイメージです。

 しかし近年、発掘調査が進むとともに、専門家の間で縄文時代のイメージ・捉え方が激変してきました。
 番組の中でジャレド・ダイアモンド博士も登場。
 稲作が入ってきても、それになびかず狩猟採集生活を続けた。
 「狩猟採集生活をしながら定住し、文化的にも豊かだった」という、世界規模で考えても稀な生活様式を達成していたらしいのです。
 ある集落は1000年も続いていたらしい。

 それを支えたのは、日本の自然です。
 氷河期を終えつつある時代に、木の実が豊富な照葉樹林の森が日本列島を覆い、“縄文時代”を可能にしたというのです。

 スリリングな内容で、久しぶりに日本の歴史にドキドキワクワクしました。




<内容>
シリーズ最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。
この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。
なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。

THE歴史列伝「間宮林蔵」

2017年11月12日 08時14分09秒 | 歴史
 2年前以上に録画しておいたTV番組を見てみました。

 それまでの私の間宮林蔵に対するイメージは「北方探検をして間宮海峡を発見した人物」という教科書的な知識のみ。
 この番組を見て、そのイメージがよい意味で崩れ去りました。

 間宮林蔵は頭脳明晰な神童と呼ばれ、とくに算術に秀でたため10代で江戸に迎えられて地図作成のための測量に従事するようになりました。
 幕末の北海道はロシアから開国を迫られ、それを拒否すると海賊的実力行使に出てくるロシアが脅威となっていました。
 しかし江戸幕府にはその北方の情報が乏しいため、松前藩の管轄から幕府直轄へ移すとともに、林蔵に調査を命じたのでした。
 つまりこの段階では「探検」ではなく「業務」だったのです。
 
 蝦夷(北海道)の調査を終えると、次の指令は「樺太が半島なのか島なのか、それからロシアの脅威がどこまで迫っているのか確認すべし」というものでした。
 しかし極寒の樺太行きの中、凍傷も煩い、途中で断念して戻らざるを得ませんでした。
 
 負けん気の強い林蔵は、再挑戦を申し出ます。
 ここからは「業務」というより「探検」の要素が強くなってきます。
 そして樺太が島であることを確認し、樺太に住む原住民とともに中国大陸に渡り、アムール川沿いの町でロシアの脅威がまだ迫っていないことを確認して帰国の途についたのでした。

 その後、生涯の師と仰いだ伊能忠敬の仕事の日本地図作成の北海道部分を完成させました。
 あの地図は伊能忠敬と間宮林蔵の合作だったのですね。

■ THE歴史列伝「北方探検 間宮林蔵」
2015年6月12日:BS-TBS
<ゲスト>
作家:北方謙三、探検家・作家:髙橋大輔
<内容>
 今回の列伝は、江戸の探検家・間宮林蔵。幕命を受けて、蝦夷地を調査することになった林蔵がみたものは、ロシアの脅威・・。時代は江戸後期、ロシアが日本に迫っていた。さらなる幕命は、蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。
 極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。



<詳細>
 今回は、江戸時代・北方探検を行なった間宮林蔵。未開の地・樺太を探検し間宮海峡を発見。さらに世界で初めて詳細な樺太の地図を作成した。しかし、それを成し遂げるまでは苦難の連続だった。ロシア帝国の攻撃や凶暴な異民族の襲撃。凍傷となり死をも覚悟。そして林蔵は間宮海峡を越えアジア大陸の大探検へ。そこで見たものとは・・・!?不屈の探検家、間宮林蔵の波乱の人生に迫る。



立身出世の思い
 間宮林蔵は1780(安永9年)年、常陸国の農村で生まれた。先祖は武士だったが戦に敗れ農民となる。家は貧しく農業だけでは生活できないため、父は箍職人として家計を支えた。そんな父の背中を見ながら育った林蔵は、いつしか立身出世の思いを抱くようになった。

算術小僧
 7歳頃、寺子屋に通い始めると林蔵はたちまち利発さを発揮。特に算術の才能に長けていた。また、身近にあるものをなんでも測ってしまうという変わった趣味の持ち主でもあった。
 そして15歳の時、立身出世への道が開ける。村に流れる川に堰を造るため、治水工事の役人が訪れた際、林蔵は算盤を使って計算する役人を一笑。得意の暗算で堰を作るのに必要な計算を即座に行なったという。役人たちは驚き、「筑波に算術の神童あり」と林蔵の存在は江戸にまで知れ渡った。そして全国の測量や地図製作に関わる不審役、村上島之允の弟子として江戸へ行くこととなったのである。

蝦夷地の測量
 故郷をあとにして4年、林蔵は師匠の村上島之允に付き、各地で測量に明け暮れていた。そんな林蔵と島之允に、幕府は蝦夷地の調査・開墾を命じる。領土拡大をはかるロシア帝国の脅威に備えてのことであった。しかし当時、蝦夷地は未開の地。測量しようにも、まずは広大な地に道を作ることから始めなければならなかった。さらに冬には氷点下の寒さが襲う。作業は遅々として進まなかった。そんなある日、林蔵はある男と出会う。
 幕府の天文方として蝦夷地に地図作りに来ていた伊能忠敬だった。若き林蔵は30歳以上年上の伊能の知識と根気に感服。伊能を師と仰ぎ、測量術を学んだ。そしてその後、蝦夷地の開墾・測量という大事業にまい進していく。
ところが・・・蝦夷地に来てから7年。測量で訪れた択捉島で突如ロシア帝国の軍艦から大砲で攻撃を受ける。それは開国をしない幕府に対する報復だった。圧倒的な火力に為す術なく逃げる日本人たち。林蔵も択捉島の測量を断念して帰国。異国の脅威を身を持って体験したのだった。

樺太探検
 1808年(文化5年)、林蔵は幕府から樺太探検を命じられる。ロシア帝国はいったいどこまで迫っているのか?それを知るため、蝦夷の北にある樺太を調べ、ロシア帝国との国境を確認する必要があった。
 しかし樺太は遠浅の海が続き潮の流れが早いため船が近付けず、謎に包まれていた。そのため半島という説と、島という説があるほど。林蔵は故郷に自分の墓を作り死を覚悟して樺太探検に挑んだ。
5月8日、林蔵は上役・松田伝十郎と二手に分かれ、船で樺太沿岸を調査する。林蔵が東海岸を北上、松田伝十郎は西から進んだ。しかし荒れ狂う海や複雑な地形に行く手を遮られ、林蔵と伝十郎は島か半島か確かめることができないまま、無念の帰国を余儀なくされたのだった。

第二次樺太探検
 一度蝦夷に戻った林蔵は、再探検を奉行所に願い出る。そして今度は一人で樺太探検へ出発した。しかしその途中、凶暴な異民族に襲われたり、予想よりも早く訪れた樺太の冬に足止めを食らった。林蔵は凍傷にかかり、命からがら樺太アイヌの村に避難した。そこで林蔵は村人たちに助けられる。彼らの知恵を借り、犬の毛皮を身に付け、生肉を食べる林蔵。そして樺太で越冬した後、再び探検へ。今度は現地の人々の船を借りたことで最北の集落まで到着。その先は海が広がり、樺太は大陸と繋がっていない“島”であることを確信した。と同時にそれは、後に自分の名が付けられる間宮海峡の発見の瞬間でもあった。

海峡を渡り中国大陸へ
 樺太の測量を終えた後も林蔵は江戸に戻らず、樺太北部の村にいた。もう一つの目的、ロシアの国境を探るためである。そんなある日、村長が清国へ貢ぎ物を上納するため、大陸へと渡ることを知った。林蔵は同行を願い入れ、村人たちと共に中国大陸へ渡る。間宮海峡を7日間かけて渡った後、船を担いで山を越える。そして再び船に乗ってアムール川を遡ること約100キロ、ようやく目的地であるデレンに到着した。そこで清国の役人から、ロシア帝国の力が及んでいないことを聞き出す。
 樺太再探検から一年半。林蔵は樺太が島であることを確認し、ロシア帝国の勢力も見極めること。自分の目的を見事に成し遂げたのだった。



「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」
 1810年(文化7年)、帰国した林蔵は探検の詳細を二冊の本にまとめ、幕府に献上する。「東韃地方紀行」と「北夷分界余話」である。これを見た幕府の役人たちは驚愕した。いまだ誰も目にしたことのない樺太の正確な地図と、謎に包まれていた北方の人々の暮らしぶりが描かれていたからだ。
 そして世界が知りたがっていた樺太周辺の地図は当時日本に訪れていたドイツ人医師・シーボルトによって西洋に伝わる。林蔵の発見した間宮海峡は、その後、世界中の人々が知ることとなったのである。


 見ていて「おや?」と感じたこと。
 樺太探検中に原住民の「○○民族」という名称がいくつか出てくる一方で、樺太行きに同行して案内を勤めた人々は「樺太アイヌ」と呼ばれる人々でした。
 「えっ、アイヌ民族は樺太にも住んでいたんだ」という新鮮な驚き。
 歴史の教科書には出てこない事実です。

 それから林蔵が残した書籍の挿絵がまことに興味深い。
 下図は子どもをあやしている図(児童虐待ではありません)。



<参考>
■ Wikiwand「アイヌ
■ 「東韃地方紀行」(国立公文書館)
■ 「北夷分界余話」(国立公文書館)

「乙巳の変 蘇我氏はなぜ滅ぼされたのか?」

2017年05月04日 07時12分49秒 | 歴史
前項の蘇我氏つながり。
物部氏との抗争に勝利し、4代100年に渡り繁栄を謳歌した蘇我氏は「乙巳の変」であっけなくその座から引きずり下ろされました。

「乙巳の変」ってなに?
それが起きたのは645年・・・ん? これって歴史の授業で覚えた「大化の改新」の年号ではないの?

そうなんです。
近年、大化の改新は645年にまとめた行われたのではなく、乙巳の変をきっかけにゆっくりと整備されたことが判明し、分けて呼ぶようになったそうです。

■ 英雄たちの選択「古代史ミステリー 乙巳の変 蘇我氏はなぜ滅ぼされたのか?」
BSプレミアム:2017年4月20日
出演者ほか【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】倉本一宏,小島毅,宮崎哲弥,【語り】松重豊
<番組内容>
 西暦645年、クーデターによって、蘇我蝦夷・入鹿父子は死に、権力をほしいままにしていた蘇我氏はあっけなく滅亡した。古代史最大のミステリー乙巳の変の真相に迫る。
<詳細>
 今年3月、飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになった。一辺70メートルの方墳は、石舞台古墳より大きい。蘇我一族の蝦夷の墓ではないかとして注目を集めている。およそ100年にわたって権力の中枢で、キングメーカーであり続けた蘇我氏がなぜわずか2日で滅びたのか?日本書紀の記述が、蝦夷・入鹿父子を逆臣として、悪人と位置づけているのはなぜか?最新の研究成果を交えて、乙巳の変にまつわる謎に徹底的に迫る。


磯田氏による「日本でクーデターが成功するポイントは3つある」という解説を興味深く聞きました。
そしてクーデターが起きた後、大変革がなされるかというとそうでもなく、同じようなことを繰り返しているという指摘も頷けました。
要は、改革はゆっくりやらないと成功しない。
急いで強引にやると、周囲が付いてこれないので不平不満がたまってしまう。

なるほど。

乙巳の変 〜 大化の改新
秀吉の天下統一 〜 家康の江戸幕府
幕末の開国政策 〜 明治維新

これらのすべてが、先鞭を付けた人は引きずり下ろされ、跡を継いだ人がゆっくりと(内容はそう変わらない)改革を実行しています。
ロシアのゴルバチョフとエリツィンもそうかな。

また、蘇我氏は一族・親族で合議を牛耳りましたが、族長は常に蘇我氏直系が握る一人勝ち状態で、親族に譲らなかったことも不満分子を育てる一因になりました。

そこにつけ込んで内部崩壊を企んだのが中臣鎌足。
彼が起こしたクーデターが「乙巳の変」です。

では鎌足はどんな政治を行ったのか?
蘇我氏が行おうとした改革を、急がずゆっくりと行っていったのです。
中臣氏は藤原氏と名を変え、栄華を誇ることになりました、とさ。

現在も名字に「藤」のつく人々は、みんな藤原氏の末裔ですよ。

韓国人の怒りの行方

2016年12月11日 08時08分41秒 | 歴史
 韓国の朴大統領の弾劾案が可決されました。

 韓国は不思議な国で、権力を掌握した大統領が任期末期には批判され、退任後は犯罪者として扱われることが繰り返されてきました。
 これは道教の影響もあると指摘されています。
 道教は家族・親族を大切にする宗教ですが、それがえこひいき、はては汚職に広がり収拾がつかなくなる、と。

 韓国は政府が批判されるようになると「反日」を掲げて国民の怒りの矛先をそらすのが今までの常套手段です。
 今回は「反日」に向かわせる余裕はなかったようで、大統領自身を直撃しました。

 韓国の目覚ましい世界進出は誰しも認めるところですが、それで韓国国民が幸せにはなれなかったようです。
 むしろ、急激な発展がもたらす社会の歪みの大きさにつぶされた印象が拭えません。

 国民全体・世界全体が幸せになる方法は、あるのでしょうか?

■ 韓国大統領の弾劾案可決、職務停止に 賛成8割弱
2016/12/9:日本経済新聞
 【ソウル=山田健一】韓国国会は9日の本会議で、野党と無所属議員が提出した朴大統領の弾劾訴追案を賛成多数で可決した。朴大統領の職務権限は同日中に停止する。職務停止に伴い黄教安(ファン・ギョアン)首相が大統領権限を代行する。韓国で大統領弾劾案が可決するのは2004年の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領以来2度目。
 朴槿恵(パク・クネ)大統領の友人、崔順実(チェ・スンシル)被告の国政介入疑惑を受け、「共に民主党」「国民の党」「正義党」の野党3党と無所属議員が弾劾案を提出していた。投票総数は299で、在籍議員数(300)のうち可決に必要な3分の2を大幅に超す234が賛成した。
 結果は憲法の規定に従って直ちに憲法裁判所に送付される。憲法裁判所は原則180日以内に弾劾の可否を審理する。
 9人いる裁判官のうち6人以上が賛成すれば弾劾が成立し、大統領は罷免される。賛成が5人以下なら大統領は職務に復帰する。弾劾が成立すると、60日以内に大統領選が実施される。
 野党は朴大統領の即時辞任要求を強める見通し。朴大統領は6日に与党セヌリ党の李貞鉉(イ・ジョンヒョン)代表らと会談した際、弾劾案が可決した場合の対応について「憲法が決めた手続きに従う。自分ができる努力をする」と語った。辞任せず憲法裁の判断を見守る考えとみられる。
 朴氏と崔被告を巡る一連の疑惑の発覚後、それまで30%以上を保っていた朴大統領の支持率は急落。検察が経済界に資金拠出を強要した罪などで崔被告を11月20日に起訴した際、大統領も「相当な部分で共謀関係にあった」と認定したことで野党の攻勢が強まり、支持率は歴代大統領で最低の4%まで下がった。
 6日にソウル大学社会発展研究所が公表したインターネット調査では、朴大統領が「即時退陣」するか「弾劾されて憲法裁判所の審理を受ける」ことを支持する意見が、回答者の77%を占めた。
 朴大統領を巡る疑惑は大統領の弾劾訴追にまで発展し、韓国政界の混乱の長期化は避けられない。サムスン電子など大手財閥のトップ8人が国会で聴聞され、一部財閥は検察の家宅捜索も受けた。国政の混乱は経済の停滞につながり、減速基調にある韓国経済にも打撃となる。

「苦海浄土」(石牟礼道子著)

2016年10月01日 15時13分33秒 | 歴史
 5年ほど前でしょうか、石牟礼道子さんの本を集めたことがありました。
 水俣病を扱ったドキュメンタリー、というイメージでこの「苦海浄土」を読み始めましたが、ピンとこなくて読むのを途中でやめてしまいました。

 今回、NHKの「100分de名著」でこの本が取り上げられたので、興味を持って見てみました。
 昔読んだとき、なぜ心に響かなかったのだろう? と。

 解説が進むにつれ、そのすさまじい内容にひれ伏すしかありませんでした。
 久しぶりに魂を揺さぶられる経験。

 石牟礼道子さんは、詩をたしなむ一介の主婦でした。
 その彼女が、水俣病を知ったとき、まるで彼女の体に憑依した神が託宣をするかのような現象が起きたのです。
 「苦海浄土」とは、豊かな自然である神の領域を人間が侵した壮大な叙事詩なのでした。

 いや、それだけではない。
 それ以上のものが語られている・・・。
 番組の放送分を見終わっても、まだ自分の中で消化不良を起こしています。
 


NHK番組の解説
国などの救済対象となった被害者だけでもおよそ5万人にも及び、世界に例をみないほど大規模な公害問題を引き起こした水俣病。その被害者である漁民たちの運動や患者たちの苦悩・希望を克明に描ききった一冊の本があります。「苦海浄土」。1950~60年代の日本の公害問題を知る上での原点ともいうべき本であるとともに、そこに込められた深い問いやメッセージの普遍性から「20世紀の世界文学」という評価も受けている名著です。「100分de名著」では、水俣病公式確認から60年の節目を迎える今年、「苦海浄土」に新たな光を当て、現代の私たちに通じるメッセージを読み解いていきます。
著者の石牟礼道子(1927-)はもともと一介の主婦でした。しかし自らの故郷を襲った惨禍に出会い、やむにやまれない気持ちから水俣病患者からの聞き書きを開始、「苦海浄土」を書き始めます。以来、水俣病患者や彼らにかかわる人々に寄り添い続け、全三部完結まで足かけ四十年以上、原稿用紙にして二千二百枚を越える文章を書き継ぎました。第一部が出版された1969年の日本は高度経済成長の只中。いわば経済発展の犠牲者ともいえる水俣病患者たちは、まだメディアで断片的にしか伝えられることはなく、その全貌はほとんど知られていませんでした。そんな中での「苦海浄土」出版は、経済成長に酔いしれる日本人たちに大きな衝撃を与えたのです。
この書は単に公害病である「水俣病」を告発するだけにとどまりません。「苦海浄土」に描かれた人々の生き方からは、「極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳」「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望」が浮かび上がってくます。さらには、公害を生んだ近代文明の根底的な批判や、そうした近代の病を無意識裡に支えてきた私たち一人一人の「罪」についても鋭く抉り出します。この本は、単なる公害告発の書ではなく、文明論的な洞察がなされた著作でもあるのです。
 番組では、批評家・若松英輔さんを講師に招き、新しい視点から「苦海浄土」を解説。そこに込められた「人間の尊厳」「近代文明批判」「歴史観と生命観」「罪とゆるし」など現代に通じるテーマを読み解くとともに、想像を絶する惨禍に見舞われたとき、人はどう再生し、生きていくことができるかを学んでいきます。

第1回 小さきものに宿る魂の言葉
【指南役】若松英輔 …「井筒俊彦―叡智の哲学」「生きる哲学」「悲しみの秘儀」等の著作で知られる批評家。 
【朗読】 夏川結衣(俳優) …NHKドラマ「トップセールス」で主演。
「水俣病」の真実の姿を世に知らしめようと書かれた名著「苦海浄土」。石牟礼道子がとりわけこだわったのは、言葉すら発することができなくなった患者たちの「声なき声」だった。「ものをいいきらんばってん、人一倍、魂の深か子でござす」。例えばそう語られる患者の一挙手一投足に目を凝らし、彼らが本当にいいたいことに耳をすます。その結果記録されたのは、魂の奥底から照らし出されるような力強い言葉だった。その言葉の数々は、苦しみや悲しみの底にあってもなお朽ちることのない何かがあることを私たちに教えてくれる。第一回は、石牟礼道子が「苦海浄土」に記録し続けた患者たちの「声なき声」の深い意味を読み解くことで、想像を絶する惨禍に見舞われたとき、人はどう再生し、生きぬいていくことができるかを学んでいく。

第2回 近代の闇、彼方の光源
「生命の根源に対してなお加えられつつある近代産業の所業とはどのような人格としてとらえなければならないか」。そう宣言し、石牟礼は「みんながやったんです」「私の責任じゃないんです」といった責任回避の論理を徹底して否定してみせる。そういう曖昧な捉え方をしていては、今起こっている出来事の正体を見過ごしてしまう。近代には、我々が普通に考えている人格とは違う、「化け物」のような人格があるということを見極めることが大事だと石牟礼はいう。第二回は、近代産業社会が解放してしまった人間の強欲、自然をことごとく破壊しても何かを成し遂げようとする人間の業といった、「近代の闇」と向き合うすべを学んでいく。

第3回 いのちと歴史
「苦海浄土」に描かれているのは人間だけではない。魚や貝や鳥たち…最も弱き者たちから傷つけられていくのが「水俣病」なのである。この状況を見つめるとき、人間は、自分をはるかに超えた大きな生命の一部だという厳粛な事実に気づかされる。こうした生命観を回復しなければ人は再び同じ過ちを犯してしまうかもしれないということを「苦海浄土」は教えてくれる。一方で、水俣病患者や彼らにかかわる人たちは、大きな問題に直面したとき「足尾鉱毒事件」という公害問題の原点というもいうべき歴史に立ち帰っていく。そのときの情報や知識だけではなく、歴史の叡知に立ち戻ってもう一度問題を考え直してみるのだ。第三回は、自然や歴史という大いなるものを見つめぬいたからこそ得られる叡知の大切さを学んでいく。

第4回 終わりなき問い
「苦海浄土」は魂のリレーのように今に受け継がれている。水俣病患者であるにもかかわらず「チッソは私だった」と自分自身の内なる罪をも同時に告発しようとする緒方正人さん。言語を絶する苦しみにさらされながらも「私たちは許すことにした」と語る杉本栄子さん。「絶対に許さないから握手をするんだ」「終わりはないけど一緒に終わりのない道を歩くから握手をするんだ」といって原因企業であるチッソと対話をしようとする患者たち。そこには、憎悪の連鎖を断ち切ろうとする水俣の叡知があり「苦海浄土」の残響がはっきりと読み取れる。第四回は「苦海浄土」と今を生きる水俣病患者たちの声をつないで読み解くことで、「水俣病」という未曾有の出来事が、私たち現代人に何を遺したのか、そして、そこから何を受け継いでいくべきかを深く考えていく。


英雄たちの選択「女王・卑弥呼 “辺境”のサバイバル外交」

2015年10月10日 17時15分46秒 | 歴史
 NHK-BSで1年以上前(2014年4月)に放映された番組です。
 私が持つ卑弥呼のイメージは「半分伝説上の人物でシャーマンでもある怪しい女王」でした。邪馬台国の位置も未だに諸説紛々ですし。
 しかしこの番組では、卑弥呼の存在を“史実”として捉えようとしており、危うい地位を維持するために当時の近隣各国との間の外交を有効に利用したとか、詳しく分析していることに驚かされました。
 
■ 英雄たちの選択「女王・卑弥呼 “辺境”のサバイバル外交」
 邪馬台国の女王・卑弥呼。魏、呉、蜀が争う三国時代に突入した大陸の動向を見据え、卑弥呼は巧みな外交戦略を展開した。卑弥呼の選択に“辺境”国家の外交の原点を探る。
 3世紀、倭国とよばれた日本に君臨した邪馬台国の女王・卑弥呼。同じ頃、中国大陸では、魏、呉、蜀が争う三国時代に突入していた。卑弥呼は、倭国の安定のため、北方の帝国・魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号を得たと史書は伝える。しかし、当時の倭国は、南方の呉とも交流し、卑弥呼には別の選択肢もありえたという。卑弥呼の選択は、その後の日本にどのような影響を与えたのか?“辺境”国家・日本の外交の原点を探る。
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,松木武彦,宮崎哲弥,中野信子,【語り】松重豊


 日本では3世紀に“倭国大乱”という大きな内戦があったのですね。
 それから、弥生時代は祭祀に青銅器が用いられており、卑弥呼の活躍した古墳時代には“鏡”を用いるようになり、“魔鏡”という使い方もあったという情報は新鮮でした。

 昔も今も、近隣諸国(中国・朝鮮半島)との関係は平穏ではなく、その勢力図の中で複雑な駆け引きして日本は生き抜いてきたのですね。
 それにしても、マンガ家の里中満智子さんは博識ですねえ。

「二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~」

2014年08月02日 18時27分06秒 | 歴史
2014年7月26日放映、NHK

番組紹介
「日本人は何を目指してきたのか」~2014年度「知の巨人たち」
第4回 二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~

 戦後、日本人に最も愛された歴史小説家、司馬遼太郎。その作品を、“22歳の自分への手紙”と述懐した司馬は、学徒出陣し、22歳で戦車兵として敗戦を迎えた。
“どうして日本人はこんなに馬鹿になったんだろう”―
 8月15日に抱いた関心が原点となり、司馬は、幕末から明治の国民国家の歴史をたどっていく。しかし、ノモンハン事件について多くの聞き取り調査を行いながら、昭和の戦争を書くことなく、この世を去った。
 なぜかー。生前のインタビューや半藤一利さんや編集者たちの証言などから探っていく。さらに、古代史研究者の上田正昭さんや在日の友人・姜在彦さんらの証言からは、司馬の、アジア共生への思いが浮かび上がる。
 「日本人とは何か」を問い続けた司馬の思索を、戦争体験、アジアの視点からたどる。


 一言でまとめると「昭和を書けなかった司馬」という内容でした。

 近代日本の成り立ちを知りたくて取材を重ね小説にしてきた司馬。
 「龍馬がゆく」「坂の上の雲」が代表作です。
 日本は日露戦争を契機にアジアへ進出し、植民地化、戦争へと突き進んでいきます。
 現地の軍部が暴走し、それを本部が追認し、政府も追認するという、収拾のつかないシステムの中でとうとう太平洋戦争まで起こし敗北を迎えました(何となく今の中国と似ていて危機感を感じざるを得ません)。

 昭和という時代を書こうとノモンハン事件を中心に取材をしてきた司馬は「龍馬がゆく」の坂本龍馬、「坂の上の雲」の秋山好古、秋山真之の兄弟と正岡子規のような「主人公となるべき日本人がいない」という壁にぶつかり、とうとうそれを越えられませんでした。
 つまり、ずるずると戦争の深みにはまることを止めようとした人物がいなかった、ということです。
 
 その忸怩たる思いをぶつけたのが「21世紀に生きる君たちへ」です。

 世界の中で日本人として生き抜くには「アジア人」たれ。
 優しさや思いやりは訓練して得られるもの、本能ではない。

 
 ~ということが書かれているそうです。

 隣町の栃木県佐野市植野小学校が出てきて驚かされました。
 その校庭には大きな鈴掛の木(=プラタナス)があり、巨樹フリークの私は訪ねて写真を撮ったことがあります。
 今から70年前、鈴掛の木陰で司馬が休憩の際にタバコをくゆらせていたそうです。



 それから、歴史学者の上田正昭氏も登場し、こちらも驚きました。 
 生前の司馬と親交があったとのこと。

 いろんなところで不思議な繋がりがあるものですね。

「謎の都・飛鳥京発掘~よみがえる”水の都”~」

2010年08月01日 15時48分04秒 | 歴史
2001年、NHK-BS放映(今回再放送を拝見しました)

~番組紹介より~
奈良県明日香村。7世紀ごろ、日本の国造りの出発点といわれる古代の都・飛鳥京がここに置かれていました。長い間、謎に満ちた石造物の都として知られてきましたが、近年の発掘調査によって「水の都」という新たな姿が浮かび上がってきました。考古学者たちは宮殿庭園の一角を占める巨大な池の調査から、当時の飛鳥京の姿を描き出そうとします。8か月にわたる発掘調査に密着し、映画監督の河瀬直美が現地を訪れて報告します。

飛鳥京は日本で初めて計画的に造られた都です。その発掘現場から、当時の都の様子を推理するスリリングな内容でした。

飛鳥京の西北にあった「苑池」(えんち)と呼ばれる大きな池。従来は天皇が自然を眺めて心を癒す程度のモノと考えられてきましたが、発掘を進めると想定外の構造が次々と明らかになり、逆に考古学者を混乱させました。
発掘を邪魔する湧き水、池の場所により深さが異なる・・・なぜ?
飛鳥人からクイズを出され、知恵を試されているような印象さえ受けました。

考古学者の知識ではカバーできず「水利学者」「古環境学者」などがチームを組んでお知恵拝借。すると、とてつもない計画的・機能的な「水の都」像が浮かび上がってきたのです。

飛鳥京は縦横に水路が張り巡らされていました。夏場に涼を取る目的と火事対策と推定されます。しかし、その水路は都の西を流れる飛鳥側に流れ込むわけではなく、「苑池」に繋がれているのです。

古環境学者の調査により、苑池の深い部分(約4m)は、地下水路と繋がっていることがわかりました。池の底の土のプランクトンの分析から、キレイで入れ替わる水を好む種類が見つかったのです。

また、水利学者の調査から、飛鳥京には豊富な地下水路が存在することも調査からわかりました。その位置は「苑池」に見事に一致。つまり、都に水が枯渇すると地下水路から水が供給され、都に水が溢れると地下水路に流れ込む・・・自然を巧みに利用した「都市の水管理法」がそこにありました。
脱帽!

コンクリートで固めてヒートアイランド化した現代の東京より優れているのではないでしょうか?

それから、苑池には植物園もありました。池の土から植物のタネが発見されたのです。桃やナツメ・・・主に果樹ですね。さらに、池の土から木簡が発見され、そこに病気の症状と処方箋が書いてありました。

一般の方はピンと来ないかもしれませんが、漢方を扱う私は「なるほど!」と頷きました。
桃やナツメは古代日本では果物ではなく薬だったのです。つまり「管轄の薬性植物園」ということ。
現在でも漢方医学(日本の伝統医学)では生薬として使われています。桃のタネは血液の流れを良くし、ナツメは赤ちゃんの夜泣きに効きます。

「温故知新」とは使い古された言葉ですが、今回も古代日本人に「一本取られた」気がしました。

「廃墟美」

2010年04月25日 10時07分42秒 | 歴史
 NHKクローズアップ現代で「大人気 ”廃墟"の旅」という特集を放映していました。
 近年、明治以降の廃棄され放置された施設が若者に人気で、一部は観光の対象になってきているとのこと。

~番組解説より~
打ち捨てられた炭鉱跡、巨大な製鉄所、役目を終えた水力発電所など、いわゆる「廃虚」が今、新たな観光地として、若者を中心にブームとなっている。中でも、去年4月に一般公開された長崎市にある端島(はしま)・通称「軍艦島」は、1年間に7万人が訪れ、15億円の経済効果が上がっている。しかし一方、歴史がさほど古くないものは文化財としての評価が難しく、保存は容易ではない。朽ち果て安全性に問題を抱えるものも多い。欧米では、「近い歴史を学ぶことは未来を生きるヒントを得ることだ」と考えられており、「廃虚」を公害など負の遺産も含めて残し、教育や地域の活性化に利用している。番組では、今、脚光をあびる「廃虚」が語りかけるメッセージと、その利用の課題を探る。(ここまで)
 
 似たような現象は昔からありました。
 鉄道マニアの「廃線めぐり」もその一つでしょうし、近いところでは足尾銅山跡も観光化されています。

 そして今、何が若者達をブームと呼ばれるほど惹きつけるのか・・・
 番組の中のインタビューでは、
 「一生懸命生きて仕事をしていた空気を感じる」
 「ヒトとヒトとの距離が近い生活感の名残り」
 など、現代失われつつある人間関係を感じたいという想いが見え隠れしていました。

 一方、解説者(国立科学博物館 参事:清水慶一氏)はこれらに「産業遺物」と名付け、
 「大きな建造物に当時の産業の勢いを感じる」
 「兵どもが夢の跡~という滅びの美学」
 などを指摘していました。

 私自身の記憶を辿ってみると、「廃墟美」を感じ取ったのは中学生の頃でした。
 確かSF作家の小松左京さんの短編集に描かれていた一場面;

・・・子ども同士で遊んでいて迷い込んだ先に洞穴(トンネルだったかな?)を見つけた。そこを通り抜けると、突然、赤茶けた土埃が舞う廃墟が眼前に広がった・・・

 この文章を読んだとき、「ハッ」として背筋に稲妻が走り、脳裏にこの殺伐とした情景が鮮やかに浮かんだのでした。
 「感動」に似ていますが微妙に異なる印象。
 言葉に言い表せない、体の奥底に眠っていた切なく哀しい感覚が呼び出されたよう。
 既視感(デジャブ)?
 何だったのだろう。

 私は古代遺跡や、縄文時代の土器や石器も好きでコレクションしています。
 1万年前に生きていた日本人の影を感じるから。
 でも、それとはちょっと違う。

 「産業遺物」は、ほんの40~100年前の日本人が暮らし働いていた場所。
 年表に書かれる偉人達の歴史ではなく、自分たちと同じ庶民の息づかいを身近に感じて安堵感を得たいのかもしれません。

 いろんな思いが巡り、自分の中でまだ「廃墟美」の魅力が何なのか、つかめないでいます。