知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

新日本風土記「八戸」

2018年02月03日 20時13分49秒 | ふるさと
 手元に「イタコ“中村タケ”」というCD集があります。
 彼女が唱えた祭文や口寄せ、マジナイとウラナイを収録した内容です。

 なぜそんなものを持っているかというと、私は昔から民俗学に興味があり、イタコさんも守備範囲。
 大学生時代には「民俗研究部」というマイナーな文化部に所属し、フィールドワークなんぞに参加しました。
 歴史の教科書に載らない、フツーの人々の暮らしに興味があったのです。
 核家族で祖父母の存在が稀薄だった自分のルーツを知りたいという漠然とした思いがあったように感じています。

 弘前市の久渡寺(くどじ)の「オシラ講」や恐山の大祭で、イタコさんを見たこともあります。
 あの独特の節回しを聞いていると、自分が今いる場所が日本なのか、わからなくなった記憶があります。

 先日のNHK番組「新日本風土記」は「八戸」でした。
 すべて興味深い内容でしたが、一番インパクトがあったのがイタコの中村タケさん本人が登場したこと。貴重な映像です。

 大学1年生の夏、八戸市外から離れた漁村のフィールドワークに参加しました。
 村の空き家を借りて1週間泊まり込み、古老達から話を聞いて採集し、それを本にまとめる作業。
 私の担当は「信仰」でした。
 八戸市は江戸時代、南部藩と呼ばれ、馬の産地でした。
 調査時は馬を飼っている家は見当たりませんでしたが、家の構造に厩が残り、家の中には馬頭観音が祀られていました。
 
 その日捕れた魚介類を差し入れしてくれました。
 その中でも記憶に残っているのが、バケツ一杯のツブ貝の差し入れ。
 生まれて初めてツブ貝を食べた私、そしてもう要らないと言うほどたくさんたくさん食べました。
 それ以来、ツブ貝を食べたことはありません(一生分を食べてしまった・・・)。

 八戸の「南部弁」は「津軽弁」と大きく異なります。
 津軽弁の語尾は「だっきゃ〜」ですが、南部弁のそれは「んだなす〜」です。
 フィールドワークの後、しばらく部員の間で「んだなす〜」調会話が流行りました。

■ 新日本風土記「八戸」(2018年1月19日放送)

番組内容
 青森県の港町、八戸。
 海からヤマセと呼ばれる冷たい風が吹き荒れかつては何度も飢きんに襲われる不毛の地だった。そんな八戸で人々が活路を見いだしたのが海。戦後、埋め立て工事により港は大規模な漁港へと変貌。イカは現在も水揚げ量日本一を誇る。高度経済成長期以後は北東北一の臨海工業都市に成長した。
 八戸発展の象徴がけんらん豪華な八戸三社大祭の山車だ。常に変化しながら厳しい風土を生き抜いてきたたくましき人々の物語。

詳細
 青森県の東、太平洋に面する東北屈指の港町、八戸。
 「やませ」と呼ばれる寒風が吹き荒れ、かつては何度も飢饉に襲われる不毛の地だった。
 発展のため人々が活路を見出したのは海だった。戦後、埋め立て工事により大規模な漁港へと変貌し、昭和41年から43年にかけては、3年連続で水揚げ日本一を記録。中でもよく取れるのがイカで、現在も水揚げ量日本一を誇っている。
 高度経済成長期には臨海工業地帯としても発展。北東北一の工業都市へ成長した。
 港で開かれる巨大朝市には2万人が集い、ユネスコの無形文化遺産に登録された祭りの豪華絢爛な山車は、人を呼び込み街に活気をもたらそうと、毎年、進化を続ける。
 飢餓の記憶は今も農家に受け継がれ、田に捧げる祈りが絶えることはない。常に変化しながら厳しい風土を生き抜く、たくましき人々を見つめる。

▼"やませ"と"けがじ"の民…受け継がれる飢饉の記憶と田に捧げる祈り
▼馬産地の栄光…「戸」は平安時代からの馬産地の証。その栄光を守る人々の物語
▼日本一のイカ…日本一の漁獲量を誇るイカ漁。不漁にも屈しない漁師の誇りとは
▼海に開けた夢…港の礎を築いたのは2代目の八戸市長。夢にかけた軌跡を追う。
▼自慢の山車に集まる夏…賞を競い、進化を続ける豪華絢爛な山車作りの舞台裏。
▼ホトケサマ、呼続けて…厳しい風土で人々の心に寄り添ってきたイタコの秋。
▼朝市で歩み続ける…震災被害から立ち上がろうと巨大朝市に立ち続ける人々の思い

番組担当者のつぶやき
 八戸の回を担当した坂川です。
 私事ですが、青森に転勤してきたのは4年ほど前。失礼ながら、青森のイメージは、りんごとねぶたと太宰治。全部、県の西側・津軽地方のことばかり。それでも、八戸についてかろうじて知っていたのが、港町だということでした。今回取材を進めると、この港は、絶えずヤマセに脅かされてきた八戸暮らしと経済を救おうという、先人の壮大な夢の結晶だとわかりました。ロマンあふれる港のお楽しみスポット、ご紹介します。
 今、八戸で最も活気に満ちた場所と言えば、番組でも紹介した館鼻岸壁朝市(たてはながんぺきあさいち)。しかし、1月と2月は、寒さが強くお休み・・・。残念・・・?!いえいえ、そんなことはありません。朝市が開催される館鼻岸壁には、冬の間も港気分に浸れるスポットがあります。
 「浜のスーパー 漁港ストア」。レトロな空気感漂うこの店は、漁船向けに製氷工場を経営している会社がタバコ屋として創業。やがて県外から長旅の漁に訪れる漁師たちのために、洗剤や歯ブラシなどの日用雑貨品を売るようになったのだとか。人気なのが、昭和56年に併設された蕎麦屋。夜の漁を終えた漁師たちに朝ごはんを提供するため営業を始めました。今は漁師だけでなく、サラリーマンがお昼を食べに来たり、休日に家族連れが訪れたりなど、八戸市民が広く訪れる憩いの場に。
 そんな漁港ストア、冬ならではの限定メニューが「鍋焼きうどん」です。イカゲソのだしが出たつゆが、冷えた体をぽかぽかに温めてくれます。冬の漁師たちも、きっとこうやって体を温めたに違いない。大音量でかかる演歌を聴けば、気分は完全に海の男。あつあつのおでんも一緒に。締めはワンカップをどうぞ。

 次にご案内するのは、“もう1つの朝市”。東北新幹線の「八戸駅」を降りたら、JR八戸線で「陸奥湊(むつみなと)駅」へ向かいましょう。駅を降りると出迎えてくれるのが、マスコットキャラ「イサバのカッチャ」。
 このキャラの由来を少々。「イサバ」とは、魚の行商のこと。漢字では「五十集」と書くように、どんな魚も集めて、背中にしょった籠に入れ、売り歩きました。この「陸奥湊駅」から、町中へ、山中へ、県外へ。まだスーパーなどなかったころ、港でとれた魚を家庭に届けたのが、イサバの女性(カッチャ)たちだったのです。
 今は行商をすることのなくなった女性たち。しかし、かつて県内外へ送り届けるための魚を買っていた市場は、まだ健在。陸奥湊駅前には、今も多くの魚の卸売り店が軒を連ねます。中でも最も大きいのが、駅の目の前にある「八戸市営魚菜小売市場」。これこそ、“もう1つの朝市”です。
 鮮魚に刺身、珍味に加工品まで、なんでもそろいます。買った魚は、もちろん持って帰るものよし。ですが、店内奥のテーブルで、ご飯を注文し、そのままおかずにいただくことができるんです。カッチャたちにお薦め商品を聞いたり、値引き交渉をしたりして、自分のお気に入りの一皿を作るのが、また一興。買うのに夢中になりすぎると、食べきれなくなりますので、ご注意下さい。
 最後に2つ注意。1つ、こちらの朝市は、日曜日がお休みです。2つ、売り場のカッチャたちは、夜2時には起きて、3時には商売を始めるというかなりの早起き。お昼近くになると、店じまいしてしまっているお店もちらほら。なので、おでかけの際は、お早めに!
 個人的には、「本八戸駅」から始発電車で「陸奥湊駅」へ向かうのがお薦め。夜明け前のせわしい市場の港風情、ぜひご堪能ください。



<参考>
□ みちのく建物探訪 〜青森県弘前市 久渡寺 オシラ様の歴史刻む
毎日新聞2017年12月19日
◇ 約250体が並ぶ観音様の石像群
 青森県弘前市中心部から南に約10キロ。久渡寺(くどじ)山(標高約663メートル)の山腹に、津軽三十三観音の一番札所の久渡寺が見えてくる。山門の先には、227段の石段。老杉に囲まれた立地が神秘的な空気を醸し出している。
 石段を上ると目の前に聖観音堂があり、すぐ後ろ手には約250体の観音様の石像が連なっている。須藤光昭住職(44)によると、石像群は地蔵と勘違いされ、「心霊スポット」と言われることもあるというが、実は歴史が隠されている。
 1970年代、土砂災害で境内の一部が被害に遭い、多くの人々から援助を受けた。寄付をした人たちの家内安全を祈願しようと、当時の住職がこれらの石像を寄進したのだという。
 そんな久渡寺の歴史は1191(建久2)年にさかのぼる。唐僧・円智上人が、慈覚大師作の聖観音を本尊として建立。江戸時代には津軽真言五山の一つとして、藩の祈願所となり、手厚い保護を受けた。だが、明治維新の神仏分離で藩からの援助が受けられなくなった。檀家(だんか)制度を持たない同寺は運営困難に陥る。そこで、東北に伝わる民間信仰「オシラ様」をまつるオシラ講を始めたという。
 オシラ様とは桑の木で作った30センチほどの棒に男女の顔や馬の頭を彫るなどし、衣装を着せたご神体。久渡寺では明治以降、家や村でまつっているオシラ様を人々が持ち寄り祈とうしてもらうオシラ講を執り行ってきた。その信仰に寺は支えられてきた。須藤住職は「信仰の強さと歴史の重さを実感する」と言う。
 須藤住職によると、引きこもりの我が子を案じた親が何度も祈願に来たことも。後に元気になった子を連れてお礼参りに訪れたといい、「ほっとした笑顔を見ると、住職冥利に尽きる。誰かを思う人たちの姿を見ると、人のつながりを再確認する」と話す。毎月、寺を訪れるという弘前市内の80代女性は「家族の幸せを思ってオシラ様をまつります。久渡寺に来ると曇っていた気分も明るくなる」と話した。
 本堂では毎年5月に集団祭祀(さいし)を開催。県内外から多くの人がオシラ様を持ってやって来る。祈とうを受けるオシラ様は年間2000~3000体に上るという。木造の本堂は約70年間、多くの人々が願いを託す場所として親しまれてきた。
 須藤住職は「信仰を伝え、受け継いでいくことも寺の責務。人々の心のよりどころである祈願寺として、今後もこの信仰を歴史に刻んでいきたい」と話している。【岩崎歩】


「デホヘ〜、デホヘ!」

2017年11月04日 17時28分56秒 | ふるさと
 これは愛知県の山奥、奥三河の花祭の掛け声です。
 花祭は国の重要無形文化財に指定されています。
 秋から冬にかけて、各村で順番に神(≒荒ぶる厳しい自然)を舞を奉納する祭りは、修験者の山伏が伝えたとされています。
 天竜川支流の山村は自然が厳しく、その昔、人々は住んでいませんでした。
 密教〜修験道〜熊野信仰が日本全国を席巻した平安時代になると、厳しい自然の中で修行する山伏にとって奥三河は理想郷でした。その頃から開拓が始まり、人々が住み始めたようです。
 修験者が執り行った大神楽(三日三晩舞続けた)が簡略化したものが花祭であり、神に奉納する役割に加えて山伏の修行という要素も含むため、その舞は激しく、朦朧とした意識状態で舞い続けるという特徴があります。

 近年(といっても20年以上前)にプロの太鼓集団「志多ら」(しだら)がこの地域の東園目に住み着きました。
 太鼓を思う存分練習できる環境を探し求めてたどり着いたそうです。
 現在はメンバーの子どもも花祭に参加するようになり、地域に溶け込んでいます。

 この番組を見ていると、子どもが大人たちに、大人たちは厳しい山の自然に「抱(いだ)かれている」という印象を強く持ちました。

 昔、元服する13歳までは子どもは神の子と考えられていました。
 稚児の舞は、それを地域で見守る温かい大人たちの視線見守られている様子が見て取れました。
 13歳になると自立できたことを感謝する舞に代わります。
 3世代、いや4世代が一堂に会して命をつないでいくことを言葉ではなく体で理解する貴重なイベントですね。
 村に住む人々の縦と横のつながりを結ぶ“絆”という字を体現するのが氏神を祭る神社の祭りであることを改めて感じました。

 私の住む地域・世代には村祭りの経験がありません。

■ パナソニックスペシャル「鬼が舞う!鬼は神!人も舞う!」〜奥三河・天竜の懐に残る花祭〜
2016年6月4日:BS朝日
<番組概要>
 かつて隠れ里といわれた奥三河に伝わる国指定重要無形民俗文化財…4Kカメラで撮影した圧巻の映像美と1年以上にわたる長期取材で克明に描く!
 
【花祭とは?】
 かって、民俗学者の柳田國男、折口信夫らも深い関心を寄せ、”花(花祭)に入らずば、日本の伝統芸能は語れない”ともいわれる奥三河の花祭。
 太陽の力の復活を願って八百万の神々を勧請し行われる『霜月神楽』の一種とされ、その起源は700年以上前にさかのぼるという。
 7日7夜通した祭事から発展したとされ、祭場の清めの神事からはじまり、神迎え、湯立て、宮人の舞、青年の舞、稚児の舞、巨大な鬼の面をつけた鬼の舞、禰宜や巫女・翁などの神々の祝福、少年の舞、湯で清める湯ばやし、清めの獅子舞、そして神送りまで、数々の次第を休む暇なく、ほぼ一昼夜をかけて、村人、近在の人々、そして、遠来の客までを巻き込んで行う祭りである。
<放送内容>
 愛知県境の山間をながれる天竜川水系。奥三河と呼ばれるその山奥で不思議な祭りが行われている。それは花祭、地元では“花”と呼ばれている。
 現在、愛知県の奥三河で、伝承地域は15か所。11月から3月の間に、それぞれの集落の独自性をもって伝えられている。
 かって、民俗学者・柳田國男に民間芸術を談ずるものは之を知らなければ恥とまで称された花祭。柳田らが着目してから100年近く、日本の精神風土も国の姿も大きく変化した現在。この古典芸能のルーツを窺わせる花祭に、今もまだ人々は熱心に打ち込み、当地のもの以外でも、一度でも触れたことがある者たちを、惹きつけている。その揺さぶられる私たちの心の奥底にあるものとはなんなのだろうか。
 この花祭に深い関心を抱いたのは、歴史小説を通じ日本人の魂を描き続ける葉室麟さん。 “営々と受け継がれた祭りは昔の日本人の心をそのまま現代に伝える“生きた歴史”なのではないか?”と語ります。私たちの全てから、音も無く、砂が零れ落ちるがごとく、失われつつある遠くからの記憶、生活の基盤、生き方のしぐさ、それこそが私たち日本人の風儀なのではないだろうか、、、その日本人の風儀がこの祭りにはあるのではないだろうか、、、
 そんな思いを抱いて、葉室さんと共に、一年以上にわたり、花祭、それに関わる人々、この山間の地区の生活への取材を行い、何故これほどの祭りが人里離れた山奥に伝わったのか、何故山深い里に遺され行い続けてきたのか、そして人々はなぜ今だに祭りを継承し舞い明かすのか、を感じ、考える。花祭に寄せる人々の想いとともに、古来日本人が受け継いできた魂の源流を辿ります。

ナビゲーター : 葉室麟、ナレーター : 小雪


<参考>
OKUMIKAWA HANAMATSURI 奥三河の花祭

『潜れ~潜れ~ 対馬の海女さん物語』

2017年08月24日 22時19分45秒 | ふるさと
第25回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
潜れ~潜れ~ 対馬の海女さん物語』 83歳で現役!離島・対馬の伝統海女
(制作:テレビ長崎)
(2017.8.21:フジテレビ)



 海女さんは絶滅危惧種の職業です。
 その消えゆく文化の一部を見せてくれた番組内容でした。

<番組紹介>
 対馬で最高齢の海女・梅野秀子さんは83歳!自ら船を操縦しアワビやサザエを素潜りでとる。長崎県対馬市の漁業は島の基幹産業であり、サザエは日本一、アワビは全有数の水揚げを誇る。その一端を担っている秀子さんは、かつて島の殿さまから特権を与えられた島全域の海を知る対馬伝統の海女の一人。若い頃は全国でも名高い裸海女として活躍し、結婚後は海女の稼ぎで家族を養ってきた。一人暮らしの今は地域の人たちと触れ合いながら、冬でも大好きな海に潜る。底抜けに明るい海女さんの日常から島の姿が見えてくる。厳しい自然の中、今も潜り続ける理由とは?
 800年に及ぶ対馬の海女の歴史を受け継ぐ海女さんが、今も潜り続けている。このことがきっかけとなり取材が始まった。九州の最北端・玄海灘に浮かぶ長崎県対馬市、人口3万2千人、約9割が険しい山林に覆われている。韓国までの距離はわずか49.5キロの国境の島。かつて大陸との交通の要所として栄え、地理的な背景から国の天然記念物ツシマヤマネコを始め、数多くの希少な動植物が数多く生息している。独自の歴史や文化、手つかずの自然は島の観光資源として広く知られている。しかし、対馬に伝統の海女がいることは地元長崎県内でもほとんど知られていない。ある日、対馬で電器店を営む通信員から「近所にすごい海女さんがいる、83歳で海に潜っている」という話を聞いた。なんでも自分で船を操縦したり、車を運転し、真冬でも海に潜るそうだ。今まで対馬の海女にスポットが当たったことがない、しかも83歳の海女さんとは、なんてパワフル!きっと誰もが元気をもらえるだろうと島に飛んだ。
 梅野秀子さん、83歳。15歳のときに母親から言われたある言葉で海女になり、今もその言葉を大切にしているという。大きな声で「海が好きで好きでたまらない」と話し、1枚のモノクロ写真を見せてくれた。海に向かってフンドシ1枚で堂々と立つ20歳頃の秀子さんが写っていた。自然と一体になった美しくたくましい海女の姿に圧倒された。「昔はね、フンドシで対馬全域を潜りよったと。雪の降る日でもね、だけん今でも元気かと。ハハハハ」その写真とキュートな人柄に引き込まれ、撮影を決めた。すると対馬で最高齢の現役海女であること、ほかにも興味深いことが次々とわかってきた。
 対馬の海女文化は800年前、日本の海女発祥の地とされる福岡県鐘崎の海女が対馬の曲(まがり)という地区にやってきたことから始まったと伝えられていた。曲の海女たちは島の殿さまにある理由から優遇され、対馬全域での海女漁が特別に許されていたのだ。曲の海女は一年中船で暮らし、島を一周しながら漁に励んだ。真冬でも潜水を優先させフンドシ一枚、全国屈指の潜水技術でたけだけしく海に潜った。そして、その歴史は戦後まで脈々と受け継がれていた。実は秀子さん、戦後まで続いていた対馬全域の海を知る由緒ある曲の海女だったのだ。番組の見所は伝統の海女・秀子さんの潜り。そして島で暮らす日々から見えてくる海女としての人生、対馬の現状。
 83歳の秀子さんは夫を亡くし一人暮らし。近所に住む幼なじみの海女・愛子さんや隣に住む小学4年の百花ちゃん、地元漁協、地域に住む人たちと触れ合いながら過ごしている。海に入れることが何よりの幸せ、しかし昔に比べ海の環境は変わり、思うような漁はできない。対馬全域の海を知る由緒ある海女はわずか3人になった。島に伝わる珍しい風習や祭りはどんどん失われていく。日本の10年先の姿を映すといわれる離島、対馬の過疎・高齢化も深刻だ。
 その一方で韓国人観光客は人口の6倍以上、年間21万人を超し、低迷する経済を支えている。自然と周りが変わっていく中、秀子さんは潜り続ける。一日でも長く潜れるよう無理はしない。自分の身体のことは自分が一番よく分かっている。都会で働く二人の息子はそれぞれ家庭を持ち、めったに帰ってこられない。そうしたある日のこと、長男が数年ぶりに島にやってきた。離れて暮らす親子には考えなければならい現実があった。自然にあらがわず、たくましく生きる海女さんを通し、自然、家族、人生を問いかける。





★ディレクター・安田朝香(テレビ長崎制作部)コメント
「細長い手足でぐんぐん潜る様子はまるで人魚のようでした。現役海女の梅野秀子さんは83歳、今も1分半以上息を止め、真冬でも大好きな海に潜ります。いつも底抜けに明るくユニーク、なんてパワフルなおばあちゃん、元気の源はなんだろうと取材を重ねました。すると、ただ明るいだけではなく自然を敬い、1日1日を愛おしく大切に暮らしていることが見えてきました。そしてそこには厳しい海女の修行に耐え家族を養ってきたこと、毎日命がけで生きてきたからこそ、全てのことに感謝して暮らしていることがわかったのです。自然や伝統、当たり前にあったものが失われていく世の中で、秀子さんは自然にあらがわずあるがままたくましく生きています。そのまっすぐな姿勢から、忘れてしまっている大切な何かを感じとってもらえたらと思います」

水俣病/水銀汚染関連記事

2016年11月12日 07時38分19秒 | ふるさと
 NHKクローズアップ現代などから水俣病関連の項目をセレクトしました。
 これらに目を通すだけで、水俣病が透けて見えてきます。

 また「水銀」という化学物質の使われ方が、原発と共通するところがあることに気づきました。
 産業(金の採掘・精製には水銀が使われることを今回初めて知りました)に必要だけど、その有毒廃棄物の処理法がずさんなために公害を引き起こした歴史、そして現在も中国を中心に世界を汚染し続けている事実。

■ 2012年7月25日(水)放送 水俣病“真の救済”はあるのか ~石牟礼道子が語る~
■ 2013年11月7日(木)放送 動きだした水銀規制 ~水俣の教訓をどう生かす~
■ 2015年6月4日(木)放送 “病の姿”が見えない ~新潟水俣病の50年~
■ 2015年12月7日(月) 汚れた黄金~金採掘村の児童労働の実態~
■ 2016年8月23日(火)放送 “加害企業”救済の裏で~水俣病60年「極秘メモ」が語る真相~
■ 2016年11月2日(水) 山間部で「水俣病」 いったいなぜ?

「名古屋めし」

2015年09月06日 07時31分32秒 | ふるさと
 NHK-BSの新日本風土記で放映。

■ 「名古屋めし」
2015年7月17日:NHK
 関東でもなく、関西でもない、独自の食文化が育まれてきた名古屋。味噌カツ、味噌煮込みうどん、きしめん、ひつまぶし、モーニング等々...。百花繚乱、どこかB級テイスト漂うその豊かなメニューは、いつしか「名古屋めし」と総称されるようになっている。「名古屋めし」には、「味が濃い」、「量が多い」を初めとした様々な特徴があるが、その底流にあるのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の所謂「三英傑」を生んだこの土地の風土である。米作りに向かない土地で大豆作りが奨励され、大豆100%の豆味噌が造り続けられ、人びとに浸透していったのだ。また、尾張徳川家が、庶民の間にも茶の湯を広めたことから、様々な和菓子が生まれ、今の小豆好き、喫茶店文化につながったとされる。番組では、バラエティに富む名古屋めしのルーツや魅力を紹介しながら、名古屋めしをこよなく愛する人たちに迫っていく。


 私の名古屋の食のイメージはドテ鍋です。
 その秘密を教えてくれる内容でした。

 ポイントはやはり「味噌」。
 味噌は米と小麦で造られていると思い込んでいた私。
 しかし事実は違いました。
 それは、原料から大きく3種類に分けられるそうです。
 一般的な「米味噌」の他に、九州を中心とした「麦味噌」、そして東海地方限定の「豆味噌」。
 豆味噌は大豆しか使わず、熟成がゆっくりなので完成までに3年もかかるそうです(他の味噌は1年)。
 
 その「豆味噌」を使った料理が、おなじみの味噌煮込みうどん、どて、串カツ、味噌おでん、味噌カツ等々。
 中でも、味噌おでんの名店が大根を10日間かけて下ごしらえしている様子は圧巻で「美味しいと言われる理由は、それなりのことをしているからや」というご主人の言葉に説得力がありました。

 豆みそは徳川家康の好物でもあったとか。

「限界集落株式会社」(NHKドラマ)

2015年03月01日 13時04分03秒 | ふるさと
 2015年1月31日から毎週土曜日にNHK総合で放映された5回シリーズのドラマです。
 原作は黒野伸一氏の小説



番組紹介
■ 山深い限界集落の村を「農業」で再建!?
 寄せ集めのポンコツチームが、村唯一の産業「農業」で起死回生の村おこしに挑む!
 関東地方の奥、山深く囲まれた小さな集落「止村」。人口50人ほどの小さなこの村は、市町村合併後、病院・バスも廃止に向かい、消滅寸前の限界集落と化している。農家の大内正登(おおうちまさと)は、かつて20代の頃、有機農業に挑戦したが失敗。多額の借金をつくり、両親と娘を置いて、東京に逃げていた。13年たった今、父・一男が亡くなり、一男の畑を継ぐと言い出した娘・美穂と年老いた母・弥生を助けるため故郷に戻った。だが、そこに待っていたのは「農業」をとりかこむ低収入の壁だった。そんな中彼らの前に謎の経営コンサルタント・多岐川が現れる。多岐川はあの手この手を使って農業の活性化を計るが...。

■ 原作者のことば...黒野伸一
 地方に元気を取り戻してほしい。その思いを込めて書き上げた『限界集落株式会社』を、最高の配役とスタッフで映像化していただき、ありがとうございます。ドラマ版は原作小説とはやや異なりますが、訴えたかった地域の活性化というテーマはきちんと貫かれています。何よりも、主人公・大内正登役の反町隆史さんが、カッコいい! 一途で無骨な農家の男をよく演じておられると思います。このドラマ、絶対にヒットしますよ!


 現在、日本各地で「年寄り達が死んだら村がなくなる」という同じような状況に置かれた村々がたくさんあると思われます。
 そんな流れに一石を投じる農村の起死回生ドラマ。
 あくまでもフィクションなので、現実にこうはいかない! というご意見もあるかもしれませんが、農村問題を考えるきっかけとなるインパクトは十分、と感じました。

 何より、俳優陣が素晴らしい。
 主人公の「カッコいい」反町さんは「無口で実直な農家の男」を表情だけで演じきっていましたね。
 むしろ私が注目したのは、脇を固めるベテラン俳優達。
 とくに平泉成、寺田農、長山藍子さん達の味わい深い演技にはただただ脱帽するしかありません。

「失われた日本の風景」by 園部澄、神崎宣武

2010年03月19日 06時42分20秒 | ふるさと
河出書房新社、2000年発行。写真:園部 澄(きよし)、文:神崎 宣武

園部さん(故人)は長らく「岩波写真文庫」を担当された写真家で、風景写真・民俗写真の第一人者と紹介されています。
神崎さんは宮本常一氏(故人)に師事した民俗学者です。現在の肩書きは「文化庁文化財保護審議会専門委員」「旅の文化研究所運営評議委員」等々。NHKの「日めくり万葉集」にも登場され、万葉集の歌を当時の民俗(庶民の生活)を推論しながら解釈する手法に唸って感心した私でした。

この写真集は今から約50年前(昭和20~40年代)の日本の地方の風景を収めた作品です。
「失われた」というタイトル通り、どうしてこれほど変わってしまったのか、と驚くことしきり。
中には「江戸時代の写真です」と云われてもわからないものもあります。
おそらく、過去の歴史の中でも密度の濃い激変の50年だったと思われます。
一方、ああ、子どもの頃こんな風景あったなあ、と回顧・郷愁をそそるものもありました。

人々は皆動いています。
子どもは遊び、大人は肉体労働(肥満体が皆無!)、老人は手仕事。
牛や馬も働いています。
しかも、機械に使われているのではなく、すべて自然のペースで行われているようです。

当時は現代より貧しく、娯楽の少ない生活だったと思われますが、そこにいる人々の目つきは今より生き生きしています。
子ども達の目はいたずらっぽい中に未来への夢が光っていますし、日々の労働に打ち込んでいる大人の目に迷いは微塵もありませんし、老人は全てを経験して次世代に託して余生を送る穏やかな表情をしています。

風景と共に、それに同化していた日本人の表情も失われてしまったのですね。

印象に残った箇所を抜き出してみます。

■ 働く子ども達
 農山村にあっては、子ども達の働きが家族内の役割として決められていた。
 例えば「子守」。
 年長の娘達は、幼い弟や妹を背負ってあやしていた。学校へ行くのにも、兄姉が弟妹の手を引く。当たり前の光景だった。
 体力がつく年頃になると、水くみ作業が割り当てられる。はじめはバケツ。やがて天秤棒で水桶を運ぶようになる。ピチャピチャと跳ねる水をこぼさないよう、その足運びを覚えるとあとは簡単。
 買い物やお使い。峠を越えたり、川を渡ったりしたところには、決まってガキ大将が待ち受ける。恐いけれど、避けられない。へつらわず、けんかせず。むつかしいところだ。子ども達なりに、外の世界を知ることになった。
 と、かように回顧すれば、子どもを労働に使うべきでない、と人権擁護の関係筋からお叱りを受けるかもしれない。が、それで子ども達が得るものがあった、そのことをあわせ考えて欲しい。

■ 夜なべ
 冬の夜は、長い。寒くもあるので、家族が囲炉裏ばたに座している時間が長くなる。
 囲炉裏は、暖をとる装置であると同時に、調理の装置でもあった。自在鉤と鉄輪がその道具。自在鉤に鍋を吊し、鉄輪に鍋を置く。その鍋を囲んで、家族が食事をした。
 鍋の中には汁や雑炊、あるいは芋煮など。夕食の残りがまだある。それを夜食に回す。これが「夜なべ」。それまでの時間、なんやかやの手仕事に励むのが夜なべ仕事である。

■ 主婦の力
 早朝から深夜まで、主婦達は気ぜわしく働いた。昼間の農作業に加えて家事労働の負担があった。毎日それをどう切り盛りするか、それが主婦達の力量というものだった。その後ろ姿を見て育つ子どもたちは、多分その力量に圧倒されたはずだ。畏敬の念さえ抱いたに違いない。そのあたりが、現代の母子関係と違うように思えるのである。
 最近流行のジェンダー論の中で、主婦は不当に虐げられ過酷な労働を強いられてきた、と見る向きがある。たしかに、社会的に女性の地位が抑えられてはいた。しかし、家庭内の労働においては、必ずしもそうではない。主婦が家事にいそしんでいる時間、夫もまた屋外の作業に早出をしたり居残りをしたりで労働を分担していたのである。
 そのことも、農村や漁村の子ども達は、よく見て知っていたはずなのだ。


・・・付け加えることは、ありません。


「豊饒の海 “家船”の暮らし」

2010年02月23日 22時45分43秒 | ふるさと
NHK-BSのシリーズ「こんなすてきなにっぽんが」の一つとして放映された番組を観ました。

~解説より~
 「瀬戸内海に浮かぶ広島県呉市の豊島に“家船(えぶね)”と呼ばれる漁船があります。
 家船には、生活用具一式が積まれ、夫婦で乗り込んで、瀬戸内海各地を魚を追いながら漁を続けます。最近では、日帰り操業に切り替える漁師が増える中、いまも夫婦で泊まり込みの漁を続ける漁師がいます。伝統の一本釣りでタチウオ漁をしながら、寄港先でさまざまな人たちとふれあう、家船の漁師たちの日々を見つめます。」

「エッ? まだ存在したんだ・・・」というのが私の第1印象でした。
実は「家船」と云う名称に聞き覚えがありました。
確か、五木寛之さんの著作に出てきたはず。
本棚を探して引っ張り出してきました。
あったあった、『日本人のこころ』シリーズの「サンカの民と被差別の世界」(講談社、2005年)という本がそれです。

五木寛之さんの世界には昔から惹かれました。
「放浪」「漂泊」のイメージを纏う作家です。
学生時代(四半世紀前)には東欧の連作小説を読み耽り、映画「戒厳令の夜」に感動し、最近は「日本」を独自の視点で探る著作を読むに至っています。
根がアマノジャクなので、ヒット作「大河の一滴」や「百寺巡礼」は読んでいませんが。

五木さんは書いています;
 この『日本人のこころ』シリーズでは、土蜘蛛(ツチグモ)や隼人(ハヤト)や熊襲(クマソ)や蝦夷(エミシ)などと呼ばれた先住民のことを書いた。そこまで踏み込んで隠された歴史のひだを見なければ、”日本人のこころ”を考えたことにならないのではないか、そんな思いが私の中にはある。
 歴史の表舞台に出てこない人々。歴史の細かいヒダに隠れて陽が当たらないままになっている人々。
 そういう人々に惹かれてしまう。

 ・・・この言葉にウンウン頷いてしまう私です。歴史に名を残すことなどに関心なく、黙々と日々の生活を営んできた人々、それが私の祖先です。
 ジブリ映画「千と千尋の神隠し」に『顔なし』と千尋が電車に乗っておばあさんに会いに行く場面がありますよね。電車に乗っている静かな人たちは黒い影として描かれ、表情も読み取れません。あの描き方に感動してしまう私です。

 「サンカ」を山の漂白民と捉えるなら、「家船」は海の漂白民である、と五木さん。
 明治維新、第二次世界大戦後と歴史の節目節目で、政府は家船民を戸籍で拘束し税を徴収しようと働きかけてきました。その度にその文化が削られ、失われてきました。

 今は夫婦だけの船上生活が一般的なようですが、昔は家族全員での船上生活でしたので、当然、子ども達は学校教育に縁がありませんでした。
 文字も読めないし(漁には必要ない?)、学校へ行っても海という自然現象や仕事を覚えることはできません。
 子ども達にとって「船上生活=学校」でもあったのですね。

 でも、そういう時代は過ぎ去りました。
 おそらく今の世代が最後の「家船」継承者になるのでしょう。
 細々と残ってこれたのは、瀬戸内海という狭い漁場が大型船の網を使った漁に適さなかったからだと思われます。

 番組を見ていて感じたのは、競争して他人より豊かになりたいという雰囲気が皆無であること。
 漁場を教え合い、獲物を分け合い、行く先々の港でなじみの家がたくさんあり、皆助け合って生活しています。
 その表情は明るく「仲間と自然に抱かれて生きる喜び」に溢れていました。
 都市生活する現代人が失ってしまったものです。
 「ウツ」なんて無縁なんだろうなあ。

「太宰治の『津軽』」

2009年12月20日 13時19分52秒 | ふるさと
NHK-BSで太宰治生誕100年を記念した番組を放映していました。
俳優の村田雄浩さんが太宰を演じる郷土の舞台『津軽』を題材に取材した内容です。
県民参加型の演劇で、プロは村田さんと川上麻衣子さんだけ、他は皆オーディションで合格した素人さんです。
金木町にある太宰の生家が主人公となりひとり語りの形式で進みました。

『津軽』は小説でありながら、紀行文でもあります。
古い友人を訪ね歩く下りには創作は必要ありません。
むしろ、その部分の文章は太宰にしては伸び伸びしています。

脚本・演出担当の長谷川孝治さんの言葉が印象に残っています。
「太宰を初めて読んだとき、自分だけに語りかけてくれると感じ、大学生の時再読したら、なんて女々しい小説なんだと感じ、大人になって読んだら心に沁みてきた・・・読む年代・回数により様々なインパクトを与えてくれる作家」
「『津軽』という小説の中では、地元の人達の言葉を標準語に直して書いている。でも今回は、元々の津軽弁に戻して公演した」

『津軽』の中で一番大切な場面は、津島家の奉公人で修治(太宰の本名)の育ての親とも云えるタケとの再会です。
成人後小説家で名を挙げても苦しい思いを抱えて生活し、何度も自殺未遂した太宰がタケの前では純粋で素直な幼児になってしまう・・・「タケの側に座っているだけで、もう、何がどうなっても良くなってしまった、これが平和というものか・・・」

太宰にとっての母性とは・・・実母の影は薄く、奉公人の女たちはチヤホヤするだけ、大人になって縁を持った芸者やカフェの女中に母性を求めても所詮無理、・・・親身になってくれたのはタケだけ。
太宰は狂おしく『母性』を求め続けたんだなあ、と感じ入りました。
現在も太宰の作品が支持されている背景には、日本人が皆、同じような気持ちを少なからず抱えている現実が隠れているのでしょう。

再開を果たした小学校の校庭には、正座して前を見つめるタケとその横でくつろぐ太宰の銅像があるそうです。
太宰は穏やかなよい表情をしています。

その数年後に太宰は入水自殺して自らの人生に幕を引きました。

※ 大学生時代に金木町へ行ったことがあります。
芦野公園、水子地蔵尊と巡りました。太宰の生家も見たような見なかったような・・・当時は「斜陽館」という名前の旅館でした(現在は金木町所有の資料館)。

「ブラ・タモリ」

2009年12月13日 09時57分42秒 | ふるさと
NHKのお散歩番組です。
タレントのタモリが東京を節操なく歩き回り、街角のふとしたモノに昭和・大正・明治・江戸~果ては縄文・弥生時代の記憶を辿ります。
タモリは「坂マニア」としても知られ、本も書いて出版しています。

こういうの、好きなんですよねえ。
歴史に出てくる偉人の話は置いておき、名も無き庶民はどんなことを思い、どんな生活をしていたのか・・・分野で云えば「民俗学」ですが、私を魅了してやみません。

■ 例えば、東京大学のある本郷台地のお話;
 大地と平野の境はヒトが居住する最適空間。坂を上り下りして今でもたくさんの平成人が生活していますが、それは昔人も同じ。台地の縁には弥生式土器と住居跡がたくさん残されています。そうそう、弥生式土器が初めて発見された場所は今は東京大学の構内だそうです。
 また、本郷台地には旧街道の「中山道」が通ります。
 街道の始まりに「見送り坂」と「見返り坂」という名前が残っているそうです。文字通り、旅人を見送り、名残惜しそうに振り返りながら旅立っている光景が見えるようではありませんか。
 江戸五街道の起点は「日本橋」。
 現在は首都高が真上を走っていて景観が損なわれていますが、江戸時代は「全ての街道は日本橋に通じる」中心地でした。

■ 例えば、オタク文化発信の地「秋葉原」;
 古くは終戦後、アメリカ軍の払い下げの電気製品を部品単位で小売りする商店街が他の土地から関東大震災後の原っぱに移動してきたらしい。
 私がパソコンや高級オーディオの中古を探してさまよった10数年前は電気街でした。それも家電ではなく、中古部品を集めて自分でラジオなどを組み立てる「オタク」の聖地。
 ある時からアニメを扱ったお店が増えてきたなあ、と感じました。覗いてみると、青年オタクたちの汗のすえた臭いが充満して逃げるように店を出てきた記憶があります。今はもっと清潔になっているのでしょうが・・・。
 メイド喫茶には行ってみたいような、行ってみたくないような。
 そういえば、マイケル・ムーア監督が秋葉を訪問してメイド喫茶を初体験し、「お帰りなさいませ、ご主人様!」と云われて「私はあなたのご主人様ではない」と真面目に反論していましたね(苦笑)。
 交通博物館は無くなってしまいましたが、鉄道ファンの聖地でもありました。

■ 例えば、「お台場」;
 「台場」は「大砲の台」であることを初めて知りました。
 江戸時代末期にペリーが黒船軍団で来航した後、江戸幕府が対抗するために江戸湾を一部埋め立てて大砲の台を設置したことが語源です。その石垣が今でも残っているのが奇跡です。
 天王洲アイルで浮かれている平成文化、その土台は大砲を設置したきな臭い時代の跡なんですね。

□ 例えば、横浜。
 横浜の中華街は通りの角度が周囲の街と45度ずれていることを知っていますか? コレで結構迷ってしまいがちですね。
実は、ちゃんとした歴史・理由があります。
 横浜はほとんど江戸時代以降に埋め立てた土地。元々は100軒程度の鄙びた漁村だったそうです。周囲に先立って埋め立てられた中華街は海岸線に沿って平行に道路が造られました。しかしその後、周囲が広範囲に埋め立てられた際、道路は東西南北に整備されましたが、中華街の部分だけはそのまま残ったというわけです。
 それから、横浜は関東大震災の大きな被害を受けた土地でもあるのですね。
 公園の地下1mに線路が見つかったり、学校の校庭の地下にビール工場の貯水槽が見つかったり・・・皆震災で崩れた瓦礫を埋めたため地下に眠っていたそうです。
 知らなかった・・・。


 ・・・過去を振り返りがちなのは年のせいかなあ、と思うことがあります。
 でも、最近違うのではないかと考え始めました。
 明治維新後、日本人は過去を捨てて西欧化一辺倒の文化・文明を目指してきました。
 戦争にも負けてしまい、ますます自国の文化・歴史に自信を失いました。
 「心のよりどころ」が存在しない国民になってしまったのかもしれません。
 自分の根っこを知りたいという本能のようなモノなのかなあ。

 この番組の中で「節操ない」という表現が話題になりました。
 タモリは「節操」にこだわると心が自由になれないから節操はない方がいいんだ、とおっしゃる。
 御意!
 他にも似たような表現がありますよね。
 「いい加減」「適当」は、どちらかというと「だらしない」「手抜き」という意味で使用されます。
 でも、元々は「良い加減」であり、「適切・適度」という良い意味であったはず。
 ひたすら頑張る日本人は、マイペースで行動するとサボっていると批判される風潮があるのかも。
 安息の時空間が必要ですね。

■ (追加)六本木
 江戸時代の六本木は大名屋敷がひしめき合い、その間を埋めるように武家屋敷がありました。
 高台には大名、窪地には武家という配置。
 明治維新後、大名屋敷跡は軍隊の基地となり、第二次世界大戦後はアメリカ軍に接収されました。
 つまり近代は「軍隊の街」だったのですね。
 今の若者文化の賑わいからは想像不可能。
 あの「二・二六事件」で戦車が市道を走る写真を見たことありますよね。
 その場所はなんと六本木なのです。
 六本木ヒルズは窪地を埋め立てて底に立てたモノ。ヒルズは丘の意味だから、ちょっとウソが入ってます。
 窪地は再開発予定地が多く、生活している人がちが徐々に去り、忘れられた街になりつつあります。
 昭和時代を感じられる町並みが見られる最後のチャンスだと番組の中でタモリが云ってました。

「おらが村」(矢口高雄作)

2009年11月22日 07時46分22秒 | ふるさと
「釣り吉三平」で有名な漫画家、矢口高雄の初期の作品です。
昭和49年~51年の間「Weekly漫画アクション」誌上で連載されました。
私が小学校高学年の頃ですね。
矢口さん自身が「私の作品の中で一番愛着のあるものです」とあとがきに書かれているように、矢口漫画の原点とも言える内容です。

舞台は東北地方の鄙びた山村。
過酷な自然の中、人々は助け合いながら農業を中心に日々の生活を営んでいます。
季節の移ろいと共に変化する山村の生活を情感豊かに描ききっています。
矢口漫画の真骨頂ですね。
しかし、日本の原風景を美化するだけの内容ではありません。

折しも日本は経済成長に沸き、コメが余って減反政策が開始され(昭和45年)、農家の働き手は冬の草履作りなどの内職を捨てて都会へ出稼ぎに出るようになった時期に重なります。
都会との格差に悩む村民、農家に嫁が来ない現実的な問題なども扱っており、当時反響を呼んだそうです。

こんな場面が出てきます。
東京に出ている息子の友達が田舎暮らしを経験したいと冬に遊びに来た際、長男が
「たまに来て『田舎っていいなあ~』と暢気にいっているが、ここで暮らす大変さが都会モンにわかるのか?!」

私は大学生時代を青森県の弘前市で過ごしました。
「雪国の生活を経験してみたい」という気持ちも少しあってその大学を選びましたが、浮かれたのは最初の1年だけで、その後は雪で行動が制限される生活にうんざり。地元の人は「雪は白いゴミ」と表現していました。街中でもこうですから、山村の生活も推して知るべし。
当時の同級生に秋田の山村出身の人がいましたが、その村では冬の積雪量が3m(!?)に達するそうです。
局地的に雪が吹きだまる地形とか・・・文字通り、雪に閉ざされる生活ですね。

原作が書かれてから30年以上経過した今、私が読んでみても違和感はありません。
この30年間、農山村の状況は変わらず、農家は同じ問題を抱え続けたことになります。

昨今、TVで農業問題も多く報道されるようになりました。
先日視聴した討論番組ではこんな意見が飛び交いました。
「今までは農業の大規模化、効率化を目標に進めてきたが、日本の地形からして限界がある。」
「これ以上コメの単価が下がれば、大規模化ではなく縮小せざるを得ない。」
「効率化をして多少安くすることができても、輸入品にはとても太刀打ちできない。」
「産地直送や無農薬野菜など付加価値をつけて地産地消に方向転換が必要だ。」
生産現場からは悲鳴にも聞こえる声がたくさん聞かれました。

それから、忘れてはならないことがあります。
農業が衰退するということは、「里山の景観」も失うことを意味します。
農家の方々が守っている無形文化財・・・これは、他では代償できない貴重な財産です。
「心のふるさと」を失う危機にあることを、日本人は認識すべき時であると感じました。

<余談>
江戸時代の農民や民までも独自の視点で書かれた「カムイ伝」という漫画をご存じですか?
忍者アニメの走りである「サスケ」を描いた白土三平さんの作品です。
その内容は奥深く、社会の深部にもメスを入れており、私も大学生時代に夢中で読みました。
最近、ホントに大学の講義で使うテキストになっていることを知り、驚きました。

その流れの作品である「カムイ外伝」は2009年秋、映画化されましたね。
原作のイメージが消化不良を起こすほど強大なので、私はまだ観ていません(落胆するのが怖いのです)。