知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

日本の縄文時代 〜定住し奇跡の大集落を形成〜

2018年02月16日 08時14分59秒 | 歴史
アジア巨大遺跡 第4集「縄文 奇跡の大集落」~1万年 持続の秘密~
2015年11月8日:NHK

 昔々、私の世代が学校で教えられた“縄文時代”は、狩猟採集生活で、人々は定住せずに不安定な流浪の生活をしていた、その後稲作が大陸から伝わり、弥生時代を迎えた・・・というイメージです。

 しかし近年、発掘調査が進むとともに、専門家の間で縄文時代のイメージ・捉え方が激変してきました。
 番組の中でジャレド・ダイアモンド博士も登場。
 稲作が入ってきても、それになびかず狩猟採集生活を続けた。
 「狩猟採集生活をしながら定住し、文化的にも豊かだった」という、世界規模で考えても稀な生活様式を達成していたらしいのです。
 ある集落は1000年も続いていたらしい。

 それを支えたのは、日本の自然です。
 氷河期を終えつつある時代に、木の実が豊富な照葉樹林の森が日本列島を覆い、“縄文時代”を可能にしたというのです。

 スリリングな内容で、久しぶりに日本の歴史にドキドキワクワクしました。




<内容>
シリーズ最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。
この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。
なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。

「今よみがえるアイヌの言霊」「石狩川」

2018年02月12日 12時17分58秒 | 日本人論
NHK ETV特集「今よみがえるアイヌの言霊」(2017.3.25放送)

 日本人はなんとなく「日本は単一民族国家である」と思っている節があります。
 しかし北海道中心に、日本人とは異民族である「アイヌ」が住んでいます。

 放送を見て、北海道におけるアイヌ迫害の歴史は、アメリカ大陸におけるインディアンの迫害の歴史と重なるものがあると感じました。

 アイヌは狩猟採集民族でした。
 自然の恵みが豊かであったために、稲作を必要しなかった環境で生きてきたのです。
 ですから、自然恵みに感謝し、自然がもたらす災害を恐れました。
 あらゆるものに魂が宿り、人間の力の及ばないすべての自然に「神」が宿ると考えて、それを「カムイ」と呼びました。
 八百万の神の起源は、アイヌ文化にあるのではないか、と私は感じました。

 明治時代になり、北海道に本土人が入職し、農業を始めます。
 それに伴い、アイヌも狩猟採集をやめて農業に従事するよう仕向けられます。
 さらに明治半ばに「北海道旧土人保護法」により、さらに生活が制限され、アイヌ語を学校で教えることさえ禁じられました。

※ 下線は私が引きました。

■ 「今よみがえるアイヌの言霊〜100枚のレコードに込められた思い〜」
2017年12月17日放送:日本放送協会



 NHK札幌放送局の資料室に眠っていた100枚のレコード。そこには、太平洋戦争直後に北海道の各地で録音したアイヌの人々の肉声、歌や語りが残されていた。そのままでは再生が困難な古いレコードの汚れを注意深く取り除き、原音が消えないようにノイズだけを消して整音する地道な作業が続けられ、70年の時を経てアイヌの言葉がよみがえった。鮮明に再現されたアイヌの人々の声はぬくもりを感じさせる優しさを伴って伝わってくる。
 もともとアイヌ民族の文化は口伝えで受け継がれており、文字としては残されていない。明治32年に制定された「北海道旧土人保護法」により、アイヌ独自の文化継承が妨げられ消滅の危機にさらされるなか、道内各地で録音された歌や語りの音源はかけがえのない記録となった。独自の文化を継承するために孤軍奮闘してきたアイヌの人々、研究者、そして録音に携わった技術者たち、それぞれの努力が紡がれて貴重な文化遺産を守ることとなったその意味は大きい。
 修復したレコードには、もてなしの心を伝える祝詞のような挨拶、祭りや儀式の時などに披露される歌、神や英雄が活躍する叙事詩などが記録されている。その音声に耳を傾けながら、昔の祭りや生活の様子を映し出すモノクロ動画や写真、さらには研究者が言葉を読み解いて書き起こした内容をあわせ読むと、当時の人々の暮らしや思いに心を通わすことができる。
 大自然と共に暮らし、身の回りの万物に感謝しつつ、人間の能力を超えたあらゆるモノに「カムイ」という神が宿ると考えてきたアイヌの人々。彼らはかつて「旧土人」と差別され、政府の同化政策で自らの言語や風俗習慣を変えざるをえなかった歴史を背負っている。失われつつある彼らの文化を未来に残していこうと、地元北海道の小学校では昨年度から子どもたちにアイヌ語を教える試みを始めているという。


 
 NHK-BS「新日本風土記」の「石狩川」でもアイヌが扱われていました。
 こちらは、明治以降に北海道へ入植した本土人と、もともと800年前から住んでいたアイヌの両方の視点で描かれています。

■ 新日本風土記「石狩川」
2018年1月5日:NHK-BS
 全長268キロ、北海道中央部の大雪山系に源を発し日本海に注ぐ大河・石狩川。アイヌの人々が「イシカリペッ」(激しく曲がりくねった川)と呼んだ通り、もともとは平地を大きく蛇行しながら流れる暴れ川だった。しかし明治以降、大規模な河川改修と農地開発が行われ、流域は日本有数の米どころへと生まれ変わった。また、石狩川はサケの宝庫。毎年秋に遡上する大量のサケは、縄文時代から人間の生活の糧となってきた。アイヌの人々はサケを「カムイ・チェプ(神の魚)」と呼び、毎年秋にサケを迎える儀式を行い敬ってきた。サケは現在では、人工ふ化した稚魚を毎年放流することで資源が維持されている。
米などできないと言われた極寒の地で石狩川の水を引き、米作りに情熱を傾けてきた開拓農民。百年以上途絶えていた伝統のサケ漁を復活させたアイヌの人々。明治以来150年の石狩川の急激な変貌は、そのまま北海道の歴史と重なる。先住民族アイヌの人々と和人の開拓民が歩んだ苦難の歴史を石狩川の風土と共に描いていく。

◇ 旅のとっておき 〜番組制作者による「私のおすすめ石狩川」〜
 石狩川を担当した田中と申します。取材でお世話になったみなさま、本当にありがとうございました。
 北海道民は、感謝の思いを込めて「母なる川」と呼びます。取材すればするほど、北海道で生き抜いてきた人たちと石狩川との深いつながりを実感しました。
 石狩川は、北海道随一の大河。長さはもちろん北海道1位。流域面積も、広大な北海道の6分の1にまで及びます。
 石狩川を訪れる際には、とても1日では回りきれませんから、何日もかけて、じっくり旅するのが良いのではないでしょうか。
 北海道の歴史とゆかりのある、石狩川のおすすめスポットをご紹介します。

 石狩川の河口・石狩市でおすすめするのは、創業明治13年、老舗のサケ料理専門店です。番組でもご紹介した数々のサケ料理のほか、実は、全国的にも知られた「石狩鍋」発祥のお店でもあります。
 石狩鍋というと、どんな料理を思い浮かべるでしょうか?
 私は、サケの入った味噌味の鍋、くらいのイメージしかありませんでしたが、美味しくするコツがあるんだとか。
 本場の石狩鍋は、キャベツを入れたり、イクラを添えたり。中でも、代々、女将さんに受け継がれてきた一番の秘訣が、必ず石狩川の河口付近で取れたサケを使うこと。何でも、河口で取れるサケは、これから長い距離をさかのぼるため、一番脂が乗っていて、味もいいとのこと。サケの町だからこそ味わえるご馳走をぜひ一度ご賞味ください。

 石狩川中流域でおすすめするのは、美唄市にある宮島沼。
 ここは、年に2回、渡り鳥のマガンが飛来し、羽を休める中継地です。早朝になると、7万羽ものマガンがエサを求めて、一斉に飛び立ちます。その光景は、本当に壮観です。
 この宮島沼は、石狩川の氾濫によって生まれた沼のひとつ。
 かつての石狩川は氾濫を繰り返してきた暴れ川でした。石狩川は、勾配の緩やかな平野部を流れています。そのため、もともと大きく蛇行しながら流れていました。「石狩」の語源は、アイヌ語で「イシカラペッ(回流する川)」であるとも言われています。石狩川がひとたび氾濫すると広大な面積が水没したため、明治以降、曲がりくねった川筋を工事でショートカットし、直線化することで治水を図ってきました。そのため、現在は全長268キロ、日本第3位の長さですが、かつては100キロ以上も長かったといいます。
 氾濫の減った石狩川の流域には、今や北海道の人口の半分以上が暮らしています。治水工事が行われる前の石狩川は、信濃川を超えて、日本1位の長さだった?かもしれません。

 石狩川の上流でのおすすめは、旭川市にある、アイヌ文化の資料館、川村カ子トアイヌ記念館です。北海道と名付けられる前から、石狩川とともに歩んできたのが、アイヌ民族の人たち。そのアイヌの暮らしと歴史を伝える資料が数多く展示されています。
 敷地の一角には、チセと呼ばれるアイヌ伝統の家屋も建てられており、アイヌの伝統文化を伝える行事などに使われています。
 旭川と言えば、寒さが厳しく、冬はマイナス20度まで下がります。今のように生活環境も整っていない中、自然の恵みを使って、生き抜いてきた知恵と工夫に頭が下がります。
 この資料館が作られたのは、今から100年前の大正5年。日本最古のアイヌ資料館です。今、昔ながらのアイヌの暮らしをしていらっしゃる方は、ほとんどいらっしゃいません。しかし、そうした暮らしや文化を大切に残そうとされた方々や、これからも伝えようとしている人たちの思いに触れてみてはいかがでしょうか。


「京都の食 8つの秘密」

2018年02月11日 12時22分48秒 | 震災
2016.1.3:NHK-BSにて放送。
NHKドラマ「鴨川食堂」の原作者とヒロインが京都の味巡り。

聞いたことはあるけど、自分では説明できない用語や、聞いたこともない言葉がしっくりくるようになりました。
各コーナーで有名料理店が出てきますが、名前は写っているけどNHKなのでアナウンスはされませんね。




番組内容
 長い歴史に育まれてきた京都の食文化。その秘められた魅力を京弁当・おもたせ・仕出し・豆腐・お茶・和菓子・漬物・お番菜の8つのキーワードを頼りに、女優の忽那汐里と作家の柏井壽が探っていく。例えば、お茶席で使われる和菓子は特別な形をしており、連想ゲームの道具だった!漬物の代表格しば漬けは、おもてなしの原点だった!そして、お番菜の知られざる本当の意味。目からうろこの話満載、京都の食のエンターテインメント。
【出演】忽那汐里,柏井壽

1.京弁当
 花見弁当にお月見弁当…。京都では江戸時代以降、自然を楽しむためのお供としてお弁当の文化が発達してきた。5色の色合いを大切にし、おかずの配置に趣向を凝らすなど、そこには食べる人を楽しませるさまざまな工夫がほどこされている。京弁当という小宇宙に秘められた京都ならではの文化とは。
★ 老舗料理店「菱岩」さんが登場。

 お重の箱の中に、四季の自然の花鳥風月が凝縮されていることを初めて知りました。
 ご飯がモコモコ盛られているのは「山」をイメージしていたのですね。


2.おもたせ
 訪ねてきた知人や友人が持ってきた手土産を、そのままもてなしに使う「おもたせ」は京都で生まれた言葉だという。京都ではさば寿司が、その代表格。人々は、さば寿司を食べながら話を弾ませる。では、一体なぜ、おもたせが京都で生まれたのか。そこには、京都ならではの特別な理由があった。
★ 「いづ重」さんの鯖寿司が登場。

 この言葉、知りませんでした。勉強になりました。

3.仕出し
 京都では、人生の節目や大勢の来客の時に、専門の店や料亭に作らせた料理で客をもてなす“仕出し文化”が根づいている。普通の出前料理と違うのは、客から意見をもらい、客の好みに合わせて料理を作るということ。仕出しとは、料理人と客がコラボして作り出し、高めあってきた食文化だった。
★ 「木乃婦」さん登場。

 北関東の当地で「仕出し弁当」というと、出来合いの定番メニュー、というイメージですが、京都では客と仕出し専門店とのやり取りで作り上げていく過程があることを知り、驚きました。
 仕出し専門店の主人が心がけているのは「冷めても美味しいもの」だそうです。


4.豆腐
 湯豆腐に精進料理…。京都では豆腐は料理の主役として、また他の料理を引き立てる脇役として、長い間親しまれ続けてきた。そのおいしさの秘密は、なんと言っても水。京都の地下には無数の水脈が走っていて名水を生み出している。どんな食材ともけんかしない豆腐の魅力を探る。
★ 「入山豆腐店」さん登場。

 もどき料理としての「普茶料理」に多用された食材「豆腐」。
 妻と結婚した当時、奮発して京都の街中の「俵屋」さんに一泊したことがあります。
 そこの朝食で出てきた湯豆腐の味が忘れられません。


5.和菓子
 和菓子と言えば花や葉っぱなど自然をモチーフにした形のモノが多いが、京都の茶会に出される和菓子は抽象的でわかりにくい形をしている。そこには、京都ならではの理由があった。茶会の席で客人たちは、その和菓子にどんな意味が込められているのか、想像して楽しむのだという。
★ 「紫野源水」さん登場。

 茶会で出される和菓子は、主人が和菓子店にイメージを言って職人がそれを表現するという創作の世界。客人は和菓子を食し、お茶を点ててもらっている間にその名前“菓名”を当てるというゲーム性もあるのですね。
 京都らしい、風流な遊びだと思いました。


6.お茶
 お茶の産地・宇治が近くに位置することから、京都ではお茶の文化が花開いた。そんな京都の庶民が一番親しんでいるのは、抹茶でも緑茶でもなく、実は、ほうじ茶。「食事の最後にほうじ茶でしめると気持ちが安らぐ」というのは作家の柏井壽さん。京都人とお茶との少し意外な関係を見つめる。
★ 「山本園茶舗」さん登場。

 私もほうじ茶の香ばしい香りは大好きです。
 京都に住んでみたいなあ。


7.漬け物
 京都人は漬物が大好きだが、中でも特に好まれるのがしば漬け。しば漬けの産地、京都市の北部に位置する大原では中国から伝えられた赤しそを800年以上にわたって守り継いできた。そして、おもてなしの原点とも言われる“しば漬けとある女性に関する物語”が語り継がれてきた。その物語とは…。
野呂本店の「御所しば」が登場。

 柴漬けは寂光院の住人であった平清盛の娘である建礼門院を慰めるために大原の人々がおもてなしに提供したもの。「この土地にはこんなものしかありませんが・・・」という一歩引いたスタンスがおもてなしの精神だそうです。
 柴漬けは京土産の定番ですね。でも食べ頃が1週間くらいで、それ以降は味が落ちてしまいます。


8.おばんざい
 最近、お料理やさんでも人気の京都のおばんざいだが、もともとは、家庭で作る質素なおかずのことを意味していた。毎日の食事が重ならないように料理の順番を決めていたことから、「お番菜」と呼ばれるようになったという。おばんざいには、京都のお母さんの知恵や工夫が詰め込まれていた。


 以前やはりNHKで拝見した老舗呉服問屋「杉本家」の『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』が出てきました。商売をしていた杉本家で働く人々の賄い料理は、限られた素材で、倹約して、でも飽きないように工夫され、毎月出す料理の“順番”が決められていたのでした。
 また、保存が利いて応用しやすい食材としてがんもどき、湯葉などが紹介されていました。やはり蛋白源の大豆は偉大です。

「山折哲雄」氏と「ひろさちや」氏

2018年02月04日 14時51分52秒 | 日本人論
 両者ともに、現代日本を代表する宗教学者です。

 本日、山折哲雄氏(86歳)のインタビュー番組を見ました。
 ちょうど、彼の講話集「やすらぎを求めて」をドライブ中に聞いていたタイミングです。
 
 キーワードは「ひとり」。
 昨今、コミュニケーション能力が重視される社会環境ですが、「ひとりで生きる知恵・強さ」を持つべきである、と説かれます。
 これは三木清の「人生ノート」にも共通する思想ですね。
 この「ひとり」という言葉は、古くは『万葉集』にも使われており、歴史に名を残す仏教思想家の残した言葉にも垣間見える、とのこと。

 山折氏の話は、時に説教的に聞こえがちです。
 彼の中には「清く正しく美しく」という日本神道の精神があるのだと感じます。
 曲がったこと、だらしないことが大嫌い。
 講話集CDの中でも、大学生が授業を聞かない様子を嘆いていました。
 ヘルマンヘッセの「知と愛」(ナルチスとゴルトムント)に例えると、まさしくナルチス・タイプですね。

 インタビューの中で、ある時蔵書を処分しようとしたけれど、柳田国男全集、長谷川心全集、親鸞全集だけは捨てられなかった、と告白していました。
 私も敬愛する民俗学者・柳田国男の影響を多大に受けていることを知り、ちょっとうれしくなりました。

■ こころの時代~宗教・人生~「ひとりゆく思想」(山折哲雄インタビュー)
2018年2月4日:NHK-Eテレ



<番組内容>
 宗教学者として、日本人の死と生の思想を見つめ続けて来た山折哲雄さん。親鸞や一遍、歌人の西行など、先人たちの「ひとり」の哲学を、老いの日々の中で語っていただく。
<出演者>
【出演】国際日本文化研究センター名誉教授…山折哲雄,
【きき手】西世賢寿
<詳細>
 山折哲雄さん、86歳。宗教学者として、日本人の死生観や無常感を見つめ続けて来た。今、山折さんの心を捉えるのは、鎌倉の動乱の世を生きた親鸞や一遍、そして歌人の西行や、後世の俳人芭蕉など、信仰と美に生きた、はるかな先人たちの姿だ。1年前、心臓の大手術をした山折さんは、自らの「存在の軽み」を感じたという。老いの体験を交えながら、彼らの生と死の哲学、その「ひとりゆく」思想について語っていただく。


 山折哲雄氏の前に聞いていたのが、ひろさちや氏の講話集CD「日本の神さま仏さま」です。
 ひろ氏の著書もいくつか所有しているのですが、文章がくどくて受けつけません。
 でも彼の考え方には興味があり、CDなら聞けるかな、と数年前に購入。
 ひろ氏は話が上手です。「何でも知っているおじさん」という印象。
 仏教にも神道にも通じているので、話も膨らんで飽きさせません。
 
 中でも記憶に残っているのは、仏教と神道の関係です。

「仏教が伝来したとき、それまでの日本の宗教(というか習俗)を神道と呼ぶようになった。その後仏教が習俗化して神道に近づき、二つは混ざり合って発達したが、明治政府がそれをバリバリと無理矢理剥がすように分け、神道を国家神道に作り上げた。戦後国家神道の考え方は捨てられ、現在に至る。」

 それから、仏教の考え方で頷けた部分;

「勉強が好きな人は出世して幸せになれる、しかし勉強が苦手な人にもその人に会った幸せがあると説くのが仏教」

 これは「ナンバーワンよりオンリーワン」の精神と同じですね。

 山折氏とひろ氏が並んで大学で講義をしたら、おそらくひろ氏の方が人気が出るだろうなあ。

 山折氏の講話集CDをもう一つ手に入れました(「日本人の心と祈り」)。
 聞くのが楽しみです。

新日本風土記「八戸」

2018年02月03日 20時13分49秒 | ふるさと
 手元に「イタコ“中村タケ”」というCD集があります。
 彼女が唱えた祭文や口寄せ、マジナイとウラナイを収録した内容です。

 なぜそんなものを持っているかというと、私は昔から民俗学に興味があり、イタコさんも守備範囲。
 大学生時代には「民俗研究部」というマイナーな文化部に所属し、フィールドワークなんぞに参加しました。
 歴史の教科書に載らない、フツーの人々の暮らしに興味があったのです。
 核家族で祖父母の存在が稀薄だった自分のルーツを知りたいという漠然とした思いがあったように感じています。

 弘前市の久渡寺(くどじ)の「オシラ講」や恐山の大祭で、イタコさんを見たこともあります。
 あの独特の節回しを聞いていると、自分が今いる場所が日本なのか、わからなくなった記憶があります。

 先日のNHK番組「新日本風土記」は「八戸」でした。
 すべて興味深い内容でしたが、一番インパクトがあったのがイタコの中村タケさん本人が登場したこと。貴重な映像です。

 大学1年生の夏、八戸市外から離れた漁村のフィールドワークに参加しました。
 村の空き家を借りて1週間泊まり込み、古老達から話を聞いて採集し、それを本にまとめる作業。
 私の担当は「信仰」でした。
 八戸市は江戸時代、南部藩と呼ばれ、馬の産地でした。
 調査時は馬を飼っている家は見当たりませんでしたが、家の構造に厩が残り、家の中には馬頭観音が祀られていました。
 
 その日捕れた魚介類を差し入れしてくれました。
 その中でも記憶に残っているのが、バケツ一杯のツブ貝の差し入れ。
 生まれて初めてツブ貝を食べた私、そしてもう要らないと言うほどたくさんたくさん食べました。
 それ以来、ツブ貝を食べたことはありません(一生分を食べてしまった・・・)。

 八戸の「南部弁」は「津軽弁」と大きく異なります。
 津軽弁の語尾は「だっきゃ〜」ですが、南部弁のそれは「んだなす〜」です。
 フィールドワークの後、しばらく部員の間で「んだなす〜」調会話が流行りました。

■ 新日本風土記「八戸」(2018年1月19日放送)

番組内容
 青森県の港町、八戸。
 海からヤマセと呼ばれる冷たい風が吹き荒れかつては何度も飢きんに襲われる不毛の地だった。そんな八戸で人々が活路を見いだしたのが海。戦後、埋め立て工事により港は大規模な漁港へと変貌。イカは現在も水揚げ量日本一を誇る。高度経済成長期以後は北東北一の臨海工業都市に成長した。
 八戸発展の象徴がけんらん豪華な八戸三社大祭の山車だ。常に変化しながら厳しい風土を生き抜いてきたたくましき人々の物語。

詳細
 青森県の東、太平洋に面する東北屈指の港町、八戸。
 「やませ」と呼ばれる寒風が吹き荒れ、かつては何度も飢饉に襲われる不毛の地だった。
 発展のため人々が活路を見出したのは海だった。戦後、埋め立て工事により大規模な漁港へと変貌し、昭和41年から43年にかけては、3年連続で水揚げ日本一を記録。中でもよく取れるのがイカで、現在も水揚げ量日本一を誇っている。
 高度経済成長期には臨海工業地帯としても発展。北東北一の工業都市へ成長した。
 港で開かれる巨大朝市には2万人が集い、ユネスコの無形文化遺産に登録された祭りの豪華絢爛な山車は、人を呼び込み街に活気をもたらそうと、毎年、進化を続ける。
 飢餓の記憶は今も農家に受け継がれ、田に捧げる祈りが絶えることはない。常に変化しながら厳しい風土を生き抜く、たくましき人々を見つめる。

▼"やませ"と"けがじ"の民…受け継がれる飢饉の記憶と田に捧げる祈り
▼馬産地の栄光…「戸」は平安時代からの馬産地の証。その栄光を守る人々の物語
▼日本一のイカ…日本一の漁獲量を誇るイカ漁。不漁にも屈しない漁師の誇りとは
▼海に開けた夢…港の礎を築いたのは2代目の八戸市長。夢にかけた軌跡を追う。
▼自慢の山車に集まる夏…賞を競い、進化を続ける豪華絢爛な山車作りの舞台裏。
▼ホトケサマ、呼続けて…厳しい風土で人々の心に寄り添ってきたイタコの秋。
▼朝市で歩み続ける…震災被害から立ち上がろうと巨大朝市に立ち続ける人々の思い

番組担当者のつぶやき
 八戸の回を担当した坂川です。
 私事ですが、青森に転勤してきたのは4年ほど前。失礼ながら、青森のイメージは、りんごとねぶたと太宰治。全部、県の西側・津軽地方のことばかり。それでも、八戸についてかろうじて知っていたのが、港町だということでした。今回取材を進めると、この港は、絶えずヤマセに脅かされてきた八戸暮らしと経済を救おうという、先人の壮大な夢の結晶だとわかりました。ロマンあふれる港のお楽しみスポット、ご紹介します。
 今、八戸で最も活気に満ちた場所と言えば、番組でも紹介した館鼻岸壁朝市(たてはながんぺきあさいち)。しかし、1月と2月は、寒さが強くお休み・・・。残念・・・?!いえいえ、そんなことはありません。朝市が開催される館鼻岸壁には、冬の間も港気分に浸れるスポットがあります。
 「浜のスーパー 漁港ストア」。レトロな空気感漂うこの店は、漁船向けに製氷工場を経営している会社がタバコ屋として創業。やがて県外から長旅の漁に訪れる漁師たちのために、洗剤や歯ブラシなどの日用雑貨品を売るようになったのだとか。人気なのが、昭和56年に併設された蕎麦屋。夜の漁を終えた漁師たちに朝ごはんを提供するため営業を始めました。今は漁師だけでなく、サラリーマンがお昼を食べに来たり、休日に家族連れが訪れたりなど、八戸市民が広く訪れる憩いの場に。
 そんな漁港ストア、冬ならではの限定メニューが「鍋焼きうどん」です。イカゲソのだしが出たつゆが、冷えた体をぽかぽかに温めてくれます。冬の漁師たちも、きっとこうやって体を温めたに違いない。大音量でかかる演歌を聴けば、気分は完全に海の男。あつあつのおでんも一緒に。締めはワンカップをどうぞ。

 次にご案内するのは、“もう1つの朝市”。東北新幹線の「八戸駅」を降りたら、JR八戸線で「陸奥湊(むつみなと)駅」へ向かいましょう。駅を降りると出迎えてくれるのが、マスコットキャラ「イサバのカッチャ」。
 このキャラの由来を少々。「イサバ」とは、魚の行商のこと。漢字では「五十集」と書くように、どんな魚も集めて、背中にしょった籠に入れ、売り歩きました。この「陸奥湊駅」から、町中へ、山中へ、県外へ。まだスーパーなどなかったころ、港でとれた魚を家庭に届けたのが、イサバの女性(カッチャ)たちだったのです。
 今は行商をすることのなくなった女性たち。しかし、かつて県内外へ送り届けるための魚を買っていた市場は、まだ健在。陸奥湊駅前には、今も多くの魚の卸売り店が軒を連ねます。中でも最も大きいのが、駅の目の前にある「八戸市営魚菜小売市場」。これこそ、“もう1つの朝市”です。
 鮮魚に刺身、珍味に加工品まで、なんでもそろいます。買った魚は、もちろん持って帰るものよし。ですが、店内奥のテーブルで、ご飯を注文し、そのままおかずにいただくことができるんです。カッチャたちにお薦め商品を聞いたり、値引き交渉をしたりして、自分のお気に入りの一皿を作るのが、また一興。買うのに夢中になりすぎると、食べきれなくなりますので、ご注意下さい。
 最後に2つ注意。1つ、こちらの朝市は、日曜日がお休みです。2つ、売り場のカッチャたちは、夜2時には起きて、3時には商売を始めるというかなりの早起き。お昼近くになると、店じまいしてしまっているお店もちらほら。なので、おでかけの際は、お早めに!
 個人的には、「本八戸駅」から始発電車で「陸奥湊駅」へ向かうのがお薦め。夜明け前のせわしい市場の港風情、ぜひご堪能ください。



<参考>
□ みちのく建物探訪 〜青森県弘前市 久渡寺 オシラ様の歴史刻む
毎日新聞2017年12月19日
◇ 約250体が並ぶ観音様の石像群
 青森県弘前市中心部から南に約10キロ。久渡寺(くどじ)山(標高約663メートル)の山腹に、津軽三十三観音の一番札所の久渡寺が見えてくる。山門の先には、227段の石段。老杉に囲まれた立地が神秘的な空気を醸し出している。
 石段を上ると目の前に聖観音堂があり、すぐ後ろ手には約250体の観音様の石像が連なっている。須藤光昭住職(44)によると、石像群は地蔵と勘違いされ、「心霊スポット」と言われることもあるというが、実は歴史が隠されている。
 1970年代、土砂災害で境内の一部が被害に遭い、多くの人々から援助を受けた。寄付をした人たちの家内安全を祈願しようと、当時の住職がこれらの石像を寄進したのだという。
 そんな久渡寺の歴史は1191(建久2)年にさかのぼる。唐僧・円智上人が、慈覚大師作の聖観音を本尊として建立。江戸時代には津軽真言五山の一つとして、藩の祈願所となり、手厚い保護を受けた。だが、明治維新の神仏分離で藩からの援助が受けられなくなった。檀家(だんか)制度を持たない同寺は運営困難に陥る。そこで、東北に伝わる民間信仰「オシラ様」をまつるオシラ講を始めたという。
 オシラ様とは桑の木で作った30センチほどの棒に男女の顔や馬の頭を彫るなどし、衣装を着せたご神体。久渡寺では明治以降、家や村でまつっているオシラ様を人々が持ち寄り祈とうしてもらうオシラ講を執り行ってきた。その信仰に寺は支えられてきた。須藤住職は「信仰の強さと歴史の重さを実感する」と言う。
 須藤住職によると、引きこもりの我が子を案じた親が何度も祈願に来たことも。後に元気になった子を連れてお礼参りに訪れたといい、「ほっとした笑顔を見ると、住職冥利に尽きる。誰かを思う人たちの姿を見ると、人のつながりを再確認する」と話す。毎月、寺を訪れるという弘前市内の80代女性は「家族の幸せを思ってオシラ様をまつります。久渡寺に来ると曇っていた気分も明るくなる」と話した。
 本堂では毎年5月に集団祭祀(さいし)を開催。県内外から多くの人がオシラ様を持ってやって来る。祈とうを受けるオシラ様は年間2000~3000体に上るという。木造の本堂は約70年間、多くの人々が願いを託す場所として親しまれてきた。
 須藤住職は「信仰を伝え、受け継いでいくことも寺の責務。人々の心のよりどころである祈願寺として、今後もこの信仰を歴史に刻んでいきたい」と話している。【岩崎歩】