知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「京都御所~秘められた千年の美~」(NHKスペシャル)

2018年04月22日 17時03分10秒 | 日本の美
NHKスペシャル「京都御所~秘められた千年の美~」(2015.1.1放送)

 私は京都へ出張へ行くと、京都ブライトンホテルに泊まります。
 このホテル、とにかく朝食が美味しいのです(確か西日本ホテルランキング第1位)。
 そして京都御所まで徒歩5分という立地。
 宿泊の際には、朝食前の御所散歩が日課になります。

 私にとっての京都御所は、大きな木がたくさんあることが魅力。
 巨樹好きも私にはたまりません。

 とくに、御所内に鎮座する「宗像神社」にはフクロウが営巣するケヤキの巨木と、奥にあるご神木(樹齢600〜800年、ただし塀の向こうで近づけません)が見所です。
 宗像神社境内にある摂社・末社も屋根が檜皮葺なので日本人DNAが反応します。

 さて、録画してあったNHKの「京都御所」という番組を見てみました。
 私の興味とは方向が異なり、御所内部を撮影した貴重な映像です。
 秋の紅葉が見事で、優雅な王朝時代を彷彿とさせました。

 三種の神器(の分身)を収めていた部屋も映されるとは想定外(いいのかなあ)。
 三種の神器は歴代天皇さえも直視することはなかったそうです。
 現在、これらは東京の皇居に移されています。
 天皇即位の儀の際には、玉座の両側に用意される映像もありました。

 三種の神器の本物は、八尺瓊勾玉以外は皇居以外の場所にあります。
 草薙の剣は名古屋の熱田神宮に、八咫鏡は伊勢神宮。



<内容>
 京都の中心にある広大で神聖な空間、京都御所。平安時代の華麗な文化が厳格に守り継がれ、建物から調度品一つ一つに至るまで、伝統工芸の粋が集められている。一方、御所は平安貴族の王朝絵巻はもとより、信長、秀吉の戦後時代から幕末維新の動乱まで、千年の長きにわたり日本の歴史の檜舞台でもあった。今回NHK京都放送局では、非公開の京都御所の内部を、高精細4Kカメラで通年取材する許可を得た。
 代々の帝が即位の時に座った玉座「高御座(たかみくら)」は、麒麟や鳳凰が描かれた台座に螺鈿(らでん)の椅子、その上に金銀をちりばめた6mの覆いがかかる巨大な美術品だ。帝の“応接室”と呼ばれる一間は、当時大陸から運ばれた群青(ぐんじょう)や金など貴重な絵の具をふんだんに使った極彩色の障壁画に囲まれ、輝きを放っている。そして、源氏物語や枕草子の舞台ともなった御殿・清涼殿は、帝が暮らした時代の様式を大事に守り伝えている。
 今回は御所の美しい姿を保ち、後世に伝える、匠たちの技も取材。奥山で採取した樹齢100年の檜の皮で、屋根の優美な曲線を作る技術や、御所・離宮にだけ伝わる壁塗りの技法などを記録した。京都に残された、最後の聖域、京都御所。その全容を明らかにする。

(ディレクターのつぶやき)
 「日頃見ることができないものを見て、立ち入ることのできない場所に行く」という素朴な好奇心から、今回の番組の取材はスタートしました。
 年間5千万人以上の観光客が世界中から訪れる大観光都市京都の中心にある不可侵な空間、京都御所。広大な敷地の中にはほとんど人の気配がなく、重々しい障壁画に囲まれた薄暗い御殿の中は他の場所にはない独特の空気が流れています。無人の中咲き誇る千年前の歴史を秘めた桜や一木一草まで極上の献上品で作られた庭。
 言葉では言い尽くせない御所独特の空気感を表現するために、今回導入したのが高精細4Kカメラです。まだまだノウハウが確立されていないため、一日の撮影で数テラバイトに及ぶ素材をどう管理するか、被写体に対しどのレンズを選びどういうライティングをするかなど日々試行錯誤の連続でしたが、なんとか無事放送にこぎつけることができました。
 今回の番組が21世紀初頭の京都御所の姿を後の世に伝える記録となってくれれば、制作者としてこれに勝る喜びはありません。
 最後になりましたが、1年間の長期取材におつきあいいただいた宮内庁京都事務所の皆様に厚く御礼申し上げます。


※ 「京都御所 至高の美の守り人」(2018年放送)は題名は少し異なりますが、同じ内容のようですね。

記紀神話に登場する神々

2018年04月15日 21時31分11秒 | 神社・神道
 古事記と日本書紀を合わせて“記紀”と表現します。
 そこに記されている神話を“記紀神話”と呼びます。
 記紀神話にはいろいろな神々が登場します。
 そしてそれらは日本各地の神社にまつられている神の名前としても馴染みがありますね。

 でも私は以前から不思議に思ってきました。

 「村の鎮守様」になぜ全国規模・全国共通の神様がまつられているのか?
 村の鎮守には村の神様(産土神・氏神)でいいのではないか?

 神社の歴史をひもとくと、やはりもともとの神社は産土神(その土地の神)・氏神(その氏族の神)をまつっていたようです。
 しかし歴史の流れの中で、ありがたい有名な神様を“勧請”という形で取り込んでいきます。
 遠くの本社に参拝できないので、神様に来てもらって地元でも拝める便利なシステムです。
 すると、もともとの神様は摂社や末社に追いやられ、または消滅してしまいました。
 それを国家レベルで行ったのが明治政府であり、国家神道という政策のもと、記紀神話の神をまつることを強制した歴史もあます。

 記紀は、著者・編纂者が目的を持って著した書物です。
 この場合、編纂者とは天皇家です。
 この場合、目的とは天皇家の正当性を国民に信じ込ませること。

 つまり、記紀神話は天皇家が自分の家系を正当化させるために著した書物なのです。
 この認識を忘れずに、読み解く必要があると感じています。

 私は記紀神話に登場する神々の名をなかなか覚えられません。
 当てられた漢字もふつうのパソコンの辞書では変換してくれませんし。
 一度整理しておきたいな、と思っていたタイミングで、下記の本に出会いました。
 逸話中心に書かれているので、他の本より頭に入りやすいかな。
 でもしばらくすると、やはり細かいところは忘れてしまいます・・・。


よくわかる祝詞読本」(瓜生 中:著)角川ソフィア文庫、第四章「神話に登場する神々」より

<備忘録>

造化三伸:日本の国土のエレメントを作った国常立(くにのとこたち)の神などの三柱の神

イザナギ、イザナミ:国常立の神から七代目に当たる二神。

アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト:出産で命を落としたイザナミを追って黄泉の国へイザナギは向かったが、そこで出会ったイザナミは腐乱しておぞましい姿であった。これを目にしたイザナギはほうほうの体で黄泉の国から脱出した。地上に逃げ帰ったイザナギはアハギ原という所で、黄泉の国の汚れを落とすために川で身を清めた(禊祓えの起源)。このときに左目を洗って生まれたのが天照大神、右目を洗って生まれたのが弟のツクヨミノミコト、花をすすいで生まれたのが末弟のスサノオノミコト。
 イザナギはこの三柱の神を三貴子と名付け、アマテラスには高天原(天界)を、ツクヨミには夜の世界を、スサノオには大海原を治めるように命じた。アマテラスとツクヨミは復命して早々に任地に赴いたが、スサノオだけはこれに反発して絶対に行きたくないと駄々をこねた。長期にわたって駄々をこねて号泣し続けるスサノオに愛想を尽かしたイザナギは、スサノオを勘当して、自分は滋賀県の多賀大社に引退してしまう。
 父親に勘当されて途方に暮れたスサノオは、何はともあれ姉のアマテラスに暇乞いをしようと思い、高天原に昇っていった。それを見たアマテラスはスサノオが高天原を乗っ取りに来たのだと疑った。到着したスサノオは暇乞いしに来たことを説明したが、アマテラスの疑いを払拭することができない。
 二神は“誓約”(うけい)という呪術的な儀礼で正邪の判定をすることにした。スサノオに女神が生まれれば身の潔白が証明されることにし、首尾よくスサノオが如神を生んで身の潔白が証明された。
 身の潔白が証明されたスサノオはうれしさのあまり慢心してとんでもない乱暴狼藉を働いた。アマテラスははじめは弟をかばったものの、死者も出てかばいきれなくなり、岩屋の奥に隠れて岩戸を閉めてしまった。

□ 宗像三女神:アマテラスとスサノオが誓約をした際にスサノオから生まれた女神達。

□ アメノウヅメノミコト、アメノタヂカラオノカミ、フトタマノミコト
 岩屋に籠もってしまったアマテラスを引き出すために、高天原の神々は知恵を絞った。岩屋の前に大きな鏡(伊勢神宮の御神体である八咫鏡)を設え、その横に大きな榊に勾玉(まがたま)や大麻を取り付けたものを立てた。そしてアメノウヅメが逆さにした桶の上に立ち、岩屋の前の止まり木(鳥居の起源?)に止まっていた常世の長鳴鳥(鶏)のけたたましい鳴き声を合図に踊り始めた。
 これを見ていた神々は歓声を上げ、外の喧騒に不審を抱いたアマテラスは岩戸を少し押し開くと一気に光が広がった。アマテラスがアメノウヅメに何事かと問うと、「高貴な神がいでましになられたので、みな歓喜に酔いしれているのです」と答えた。八咫鏡に映った自分の姿を高貴な神と勘違いしたアマテラスは茫然自失となり、その瞬間を捉えてアメノタヂカラオという怪力の神が力任せに岩戸をもぎ取り、アマテラスを無理矢理外に連れ出した。
 そしてフトタマノミコトという神が、アマテラスが二度と入らないように岩戸の前に注連縄を張り巡らせた(注連縄の起源)。
 そしてアメノタヂカラオが岩屋の傍らにあった岩戸を力任せに遠くに投げた。岩戸ははるばる長野の戸隠まで飛んで落下した。これが戸隠神社の起源で、“戸を隠した”ことに由来し、アメノタヂカラオを主祭神としてまつっている。
 岩戸の前で乱舞したアメノウヅメは芸能の祖神として各地の神社にまつられ、今も歌手やタレントなどの芸能人に厚く信仰されている。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛稲田姫(くしいなだひめ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)
 高天原を追放されたスサノオは、出雲の斐伊川に天下った。一軒の家にたどり着くと老夫婦(足名椎:アシナヅチ、手名椎:てなづち)と少女(櫛稲田姫:クシイナダヒメ)が泣いている姿に出会う。老夫婦は山の神の総元締めの大山祇神(おおやまづみのかみ)の子だという。
 老夫婦には8人の娘がいたが、八岐大蛇(やまたのおろち)に7人の娘を食べられてしまい、今年は最後の娘が食べられてしまうと聞いて、クシイナダヒメに一目惚れしたスサノオは八岐大蛇退治を申し出る。
 八塩折の酒(やしおりのさけ:8回醸した上等な酒)で酔わせた八岐大蛇の首を切り退治したが、その際に八岐大蛇の胴体から一降りの剣が出てきた(天叢雲剣:あまのむらくものつるぎ、後に“草薙の剣”と呼ばれる)。この剣は後にスサノオがアマテラスに献上して三種の神器の一つとなり、今も名古屋の熱田神宮の御神体としてまつられている。
 八岐大蛇を退治したスサノオはクシイナダと結婚して宮殿を建てた(八重垣神社)。2人は子どもを作って出雲の地の開拓に励み繁栄に導き、国神(くにつかみ)の元祖となり、スサノオから6代目の孫が大国主神である。
 オオクニヌシは大己貴神(おおなむちのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、葦原醜男(あしはらしこお)などなど様々な別名があることで知られる。ナムチは蛇のこと(大ナムチは大蛇)。オオモノヌシはオオクニヌシが国造りに励むと同時に温泉や鉱山を開発し、薬や酒を作ったとされることから、物造りの神という意味で着けられた名である。葦原醜男(※)は豊葦原中国を統括する色男というほどの意味だ。
※ 「醜男」は「醜い男」という意味の他に「強くたくましい男」という意味もある。
 奈良の大神(おおみわ)神社は酒造の神として知られ、杉玉は大神神社がルーツである。この神社には酒造の祖としてオオモノヌシ(=オオクニヌシ)がまつられている。

□ アマテラスが高天原だけでなく下界を統治しようと思った理由
 天神は天皇家の祖神国神はその他の豪族の祖神である。この話は大化の改新を経て中央集権を強めた天皇家が、他の豪族を席巻して全国支配をする過程を示したもの。
 
□ 「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに);
 日本の古代の美称は「豊葦原瑞穂国」という。
 かつて日本の海岸線や河岸、沼沢の畔には葦が美しく生い茂っていた。古代の人々は1日に15cmも伸びるという葦の生命力に神秘性を感じてこれを大切にしてきた。そして、青々と生い茂る姿を稲田に譬え、稲がすくすくと成長して稲穂がたわわに実る光景を想像した。「瑞穂」とは瑞々しく育った稲穂という意味である。

大国主神の国譲りと建御雷神(たけみかづちのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、天穂日神(あめのほひのかみ)
 下界の支配を目指したアマテラスは、御子神(みこがみ)を遣わせてオオクニヌシと国譲りの交渉をさせることにした。しかし最初に遣わした神はオオクニヌシの人柄に絆されて地上に居着いて一向に帰ってこない。次に遣わした御子神は、こともあろうにオオクニヌシの娘と結婚し、地上に遣わされた目的も忘れて、幸せな生活を営んでいる。
 業を煮やしたアマテラスは雷の神として知られている建御雷神(たけみかづちのかみ)を遣わせた。この神は藤原氏の遠祖で、もともと茨城県の鹿島神宮に鎮座していた。それが藤原氏が大きな権勢を握って藤原不比等が主導して平城京遷都を敢行すると、それに伴って奈良に遷座された。これが春日大社の起源で、タケミカヅチは春日大社の主祭神として今もまつられている。
 復命したタケミカヅチは出雲の稲佐の浜に降り立ち、剣を立てて切っ先の上に胡座(あぐら)をかいて座り、すさまじい形相でオオクニヌシに国譲りを迫った。オオクニヌシは二人の息子の意見を聞くことにした。
 最初に呼ばれたのが事代主神(ことしろぬしのかみ)である。釣りが好きなコトシロヌシは美保関(みほのせき)の磯で釣りに興じていたところから駆けつけたが、タケミカヅチのすさまじい形相に恐れをなして逃げてしまった。青柴垣(あおふしがき)という垣根を作ってその中に入り、美保関の海中深く沈んで、そこから未来永劫に渡って出てこないことを誓った。以来、コトシロヌシは美保関にある美保神社の祭神として鎮座している。
 次に呼ばれたのが次男の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、タケミカヅチに勝負を挑んだがひと太刀交わした途端にタケミカヅチのパワーに気圧されて一目散に逃げ出した。それをタケミカヅチは猛然と追いかけ、信濃の諏訪湖まで追い詰めた。殺されそうになったタケミカヅチはこの力未来永劫に渡って出ないので命だけは助けてくださいと命乞いをした。以来、タケミカヅチは諏訪大社の御祭神として今も崇敬を受けている。
 オオクニヌシは国譲りに同意することにした。このとき、アマテラスに天子(天皇)の宮殿に勝るとも劣らない神殿を建ててくれるよう望み、アマテラスは快諾して出雲の地に壮麗な神殿を建設した。これが出雲大社である。
 このときアマテラスは出雲の地に引退するオオクニヌシに対して、自分の御子神を食事の世話や雑用を担う世話係として遣わした。この神は天穂日神(あめのほひのかみ)といい、アマテラスがスサノオと誓約を行ったときに生まれた五柱の神のうちの次男にあたる。そして、この神の子孫が代々、出雲大社の大宮司職を務める千家家である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)と恵比寿神
 江戸時代頃から事代主神を恵比寿神とする信仰が広まった。これは出雲大社のオオクニヌシが大黒天と同一視されたことによるもので、出雲のエビス、ダイコクとして、出雲大社に参拝した際には必ず美保神社に参拝しないと「片参り」といって御利益が半減すると言われた。
 鯛を釣る姿のエビスは、美保神社のコトシロヌシが釣りが好きだったことに由来する。

少彦名神(すくなびこなのかみ)
 「出雲国風土記」にはオオクニヌシの国造りの神話が記載されている。朝鮮半島の岬に縄をかけ、陸地を引いてきた際、ガガイモの実で造った小さな船に乗って小さな神が近づいてきた。それがスクナビコナで「私にも国造りをお手伝いさせてください」と叫んでいた。
 オオクニヌシはこんな小さな体で手伝いができるものかと思ったが、意外や意外、スクナビコナは大活躍をした。国造りが終わってスクナビコナがたわわに実った粟の穂によじ登って一休みしていたとき、実ってはじけた粟の実に飛ばされて常世の国へ行ってしまった。
 スクナビコナは茨城県の大洗磯崎神社をはじめ、各地の神社の祭神としてまつられている。先に述べたオオクニヌシとの関係から、東京の神田神社(神田明神)などのように、オオクニヌシと相殿(あいどの)でまつられていることも多い。

天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)
 オオクニヌシとその御子神が天孫に国を譲ることに同意したため、アマテラスはアメノオシホミミに豊葦原中国に天下るよう命じた。中国(なかつくに)の混乱が収まるまで待っていたアメノオシホミミであるが、降臨の準備をしている間に新たな神が生まれた。この神こそが天孫邇邇芸命で、アメノオシホミが高木神(たかぎのかみ・・・造化三神の一柱、高御産日神:たかみむすひのかみ、の別名)の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきづしひめのみこと)と結婚して生まれた子どもであり、この神こそ降臨させるのにふさわしいとアメノオシホミミはアマテラスに進言する。
 アマテラスはこの進言を受け入れ、生まれたばかりのニニギノミコトを降臨させることにした。
 さて、アメノオシホミミはアマテラスとスサノオの誓約の結果生まれた、アマテラスの子どもである。これに対して、ニニギノミコトは造化の三神の一柱であるタカミムスヒの娘の子、つまり別天神(ことあまつかみ)の直系の孫に当たる。アメノオシホミミは造化の三神の孫という決闘の正しさを理由に、ニニギノミコトの方が自分よりも天下るにふさわしい存在であると判断したのかもしれない。
 ニニギノミコトは正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)という名前である。「天邇岐志国邇岐志」は天地が豊かに賑わうという意味、「天津日高」は天神の美称、「日子」は男性の美称、「番能邇邇芸」は稲穂が豊かに実る様をあらわしている。つまり、ニニギノミコトの長いフルネームには、穀物を豊かに実らせる穀物神をいう意味が込められている。
 万物を創造する造化の神であるタカミムスヒと、作物の成長にとって不可欠の太陽神であるアマテラスの血を引くニニギノミコトは、豊葦原中国の守護神として最もふさわしい神であった。

猿田毘古神(さるたびこのかみ)
 ニニギノミコトが降臨する際、道の辻にサルタビコという異形(七握もある長い鼻を満ち、身長七尺あまり、口の端が明るく光り、目は八咫鏡のように光り輝いている)の神がいた。彼の先導により、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、天宇受売神(あめのうずめのかみ:アメノウヅメ)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)を加えた一行が筑紫の日向(ひゆうが)の高千穂の霊峰に降臨した。
 このとき、アマテラスは「三種の神器」である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙(くさなぎ)の剣をニニギノミコトに授けた。これら三つの神宝は現在に至るまで歴代天皇の証として継承されている。
 道案内をしたサルタビコは道案内の神、あるいは交通安全の神として各地にまつられており、バスや鉄道など交通関係に携わる人々に今も厚く信仰されている。

□ 天孫降臨に従った神々と氏族(しぞく)
 天孫降臨には前述の五柱の神の他にも数柱の神が従った。それらは天皇家と関係の深い氏族の族長となった。
・アメノコヤネ(天児屋根命:あめのこやねのみこと)・・・中臣氏(後の藤原氏)の祖神
・フトダマ(布刀玉命:ふとだまのみこと)・・・忌部(いんべ)氏の祖神
・アメノウズメ(天宇受売神:あめのうずめのかみ)・・・宮中の祭事で舞などを奉納する猿女君(さるめのきみ)の祖神
・イシコリドメ(伊斯許理度売命:いしこりどめのみこと)・・・作鏡連(かがみつくりのむらじ)の祖神
・タマノオヤ ・・・玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖神

 中臣氏と忌部氏は宮中の神事を司る神祇(じんぎ)氏族の中核で、
・中臣の名は神と人の間をつなぐ臣(氏族)の意味、
・忌部氏は神事に欠かすことのできない物忌み(穢れを祓うこと)を司る氏族
・猿女君は歌舞を奉納
・作鏡連と玉祖連は催事に不可欠の鏡や勾玉などの製造に従事する氏族

 そのほかの降臨に従った神々
思金神(おもいかねのかみ)・・・アマテラスを岩屋から引き戻す策を練った、極めて思慮深い神
天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)・・・弓矢や太刀を携えて護衛として
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)

・アメノオシヒ(天忍日命:あめのおしひのみこと)・・・大和朝廷の軍事力を担った大伴氏の祖神
・アマツクメ(天津久米命:あまつくめのみこと)・・・大伴氏に従属して同じく朝廷の軍事を司った久米氏の祖先

木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)と石長比売(いわながひめ)
 降臨したニニギノミコトはコノハナノサクヤビメという美しい少女と出会い、一目惚れをして結婚を申し出る。彼女はオオヤマヅミの娘であり、父親のオオヤマヅミは姉のイワナガヒメとともに姉妹共々娶ってくれるよう懇願したが、醜い容姿のイワナガヒメを見たニニギノミコトは親元に送り返してコノハナノサクヤビメだけと結婚した。
 オオヤマヅミの考えはこうだった。頑強なイワナガヒメとの間には巌のように盤石で永遠に近い寿命を保つ天孫が生まれるであろう、一方、美しいコノハナノサクヤビメは天孫に木の花が咲き誇るような繁栄をもたらすであろう、つまり姉妹をともに娶ることによって、天孫は永遠の寿命と繁栄との両方を手に入れることができたはず・・・しかしニニギノミコトがコノハナノサクヤビメだけを娶ったので、繁栄は手にしたものの、天孫(後の天皇)の寿命は限りあるものになってしまったのである。
 一夜の契りを結んだコノハナノサクヤビメは身ごもったが、それをニニギノミコトに告げると彼は国つ神の児に違いないと疑念を持ち、これに憤慨したコノハナノサクヤビメは産屋に火を放ってその中でお産をすると申し出た(天神の児なら燃えさかる火の中でも無事に生まれてくる)。
 そして三人の子ども(三柱の神)が無事にまれた。その三神とは、
火照命(ほでりのみこと)・・・海佐知毘古(うみさちびこ=海幸彦)
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほをりのみこと)・・・山佐知毘古(やまさちびこ=山幸彦)
 そして、山幸彦の孫に当たるのが初代現人神、神武天皇である。

恵比寿神と恵比須講
 恵比寿神は、記紀神話ではイザナギ・イザナミが最初に産んだ子どもで、クラゲのように骨がなく、三歳になっても足が立たなかったので、葦船に載せて海に流してしまった蛭子(ひるこ)神である。
 蛭子神は日本の沿岸を一周して西宮の岬にたどり着いた(西宮神社縁起より)。
 もともと恵比寿は胡(あるいは夷)とも表記され、中国では夷狄(いてき)、つまり北方の異民族の呼称だった。夷狄の侵攻を防ぐために築かれたのが万里の長城である。一方、夷狄は珍しい文化をもたらした。クルミ、キュウリ、胡坐(あぐら)など。
 このような夷狄の性格が恵比寿神の性格にも取り入れられ、恵比寿は岬の先端などに漂着して福をもたらすと考えられるようになった。このような神を客人神(まろうどがみ)、希人神(まれびとがみ)といい、希にやってきて幸いをもたらすという意味である。恵比寿神が主に岬の先端にまつられるのは漂着神の性格があるからである。
 恵比寿神はかつて豊漁の神として信仰されていたが、室町時代頃から商業が発展すると、町中にも勧請されて商売繁盛の神として盛んな信仰を集めるようになった。
 また、各地で恵比須講も結成され、特に商工業者の間で強固な講が組まれた。彼らの恵比須講はもちろん恵比寿神に対する信仰の結社ではあるが、それ以外に講員が集まって営業上の様々な秘密の取り決めをする組織でもあった。その取り決めの内容(カルテルや出荷調整)は恵比寿神に誓って絶対に口外しない約束をした。
 今も関東を中心に「恵比須講」と称する大売り出しを行っている地方があるが、これは商工業者が闇カルテルなどを組んで日頃消費者に不利益を与えていることを反省して年に1、2回大安売りを行うもので、いわば“罪滅ぼし”なのである。明治になり百貨店ができると、この恵比須講が百貨店のセールの起源となった。

大国主神と大黒天
 大黒天はインドの神話に登場する神で、仏教とともに日本に伝えられた。サンスクリット語でマハー・カーラといい、マハーは偉大な、大きなという意味で、摩訶と音写(サンスクリット語の発音を中国語の音で写したもの)される。カーラは黒色という意味で、文字通り偉大な黒、真っ黒という意味である。
 仏教の大黒天は全身真っ黒で凄まじい憤怒の表情を浮かべた三面六臂(顔が三つ、手が六本)で、後ろの二本の手で生剝ぎにした象の皮を掲げ、中の二本のうち右手には人間の髪をつかんで持ち上げ、左手はヤギの角を握って持ち上げている。そして、一番前の二本の手で剣を持って円盤上に座っている。
 「大黒」の名が出雲の大国主神の「大国」と音が通じることから、鎌倉時代頃から両者が同一視されるようになった。今でも出雲の人たちは大国主神とは言わずに、親しみを込めて「だいこくさま」と呼んでいる。この場合、オオクニヌシと大黒天の両者がミックスされているのである。
 仏教における恐ろしい姿の大黒天がオオクニヌシと同一視されると、オオクニヌシの温和で優しい性格に影響されて、しだいに優しい風貌になっていくのであった。

八幡神は「たくさんの軍旗を持っている神」
 もともと八幡神は軍神として産声を上げた。
 宇佐神宮の縁起では、第29代、欽明天皇治世(6世紀中頃)、九州の宇佐八幡宮の境内にある菱形池の中から3歳の童子が現れて「我は誉田(ほむた)天皇、広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)なり」と言った。誉田天皇は第15代、応神天皇の和風諡号(しごう)で、広幡は大きな軍旗、八幡はたくさんの軍旗を持っているという意味である。
 宇佐八幡の霊験はすでに奈良時代以前から中央にも知られており、天変地異や内乱などの事態が起こると勅使が参向して神意を伺った。また、奈良時代中頃に弓削(ゆげの)道鏡が宇佐八幡の託宣を利用して皇位を狙った事件は有名である。
 平安時代になると、京都に宇佐の八幡神を勧請した。これが石清水(いわしみず)八幡宮である。その場所である男山は京都の南部にあり、この辺りだけ山が切れている。そして京都から流れてきた桂川、木津川、宇治川が合流して淀川となる地で、大阪も目の前にあることから、古くから軍事上の要塞だった。その地に軍神をまつって平安京の警護を固めようとしたのである。
 平安時代末には「武人八幡」と呼ばれて武将に厚く崇敬されるようになった。1062年に前九年の役に出兵する際、石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜の近くに勧請し、源頼義が武運長久を祈った。また頼義の子の義家は“八幡太郎義家”の異名をとり、八幡神の申し子とされている。
 1180年、鎌倉に拠点を置いた頼朝は今の鶴岡八幡宮がある大臣山の下に移し、1191年には山の中腹に社殿を造営して鎌倉幕府の守護とした。鶴岡八幡宮はすでに鎌倉時代に分霊して横浜の富岡にまつられた(富岡八幡宮)。
 関東の八幡宮のほとんどは鶴岡八幡宮の分霊である。江戸時代には富岡八幡宮から深川に勧請され、これが深川の富岡八幡宮である。一方、宇佐八幡宮や石清水八幡宮は西日本を中心に全国に勧請された。

筥崎八幡宮の由来〜神功皇后と応神天皇と武内宿禰
 第14代の仲哀天皇の后である神功皇后は、熊襲成敗のために九州に仲哀天皇に従って遠征したが、天皇が頓死してしまった。当時(7世紀中頃)、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が覇権を争い、緊迫した情勢が続いていた。とくに新羅が熊襲と組んで大和朝廷に侵略してくることが懸念されていた。
 天皇が客死したことが新羅に知れると一気に攻めてくることが危惧された。先手を打って新羅を攻めるべく、神功皇后は速やかに軍備を整えて新羅に遠征した。そのとき、神功皇后は応神天皇を身籠もっており、臨月を迎えていつ生まれるかわからない状態だった。そこで神功皇后は股間に石を挟み、縄でぎゅうぎゅうに縛って出陣した。
 このとき、武内宿禰(たけしうちのすくね)が参謀として出陣し、船は順風満帆で進み、自ら立てた波に乗って新羅の奥深くまで侵攻したという。その光景を見た新羅の王は恐れをなし、戦わずして大和に帰順することを誓ったという。
 凱旋してきた神功皇后は福岡の筥崎八幡宮の前の海から上陸し、縄を解いて股間の石を外した時に生まれたのが応神天皇であるという。“筥崎”の名は、そのとき、応神天皇の胞衣(えな=胎盤)を筥(箱)に入れて埋めて胞衣塚を作ったことに由来するという。筥崎八幡宮の参道の脇には今も応神天皇の胞衣塚がある。
 このように応神天皇は母親のお腹にいるときからすでに実戦に加わった根っからの軍神である。八幡宮には応神天皇を主祭神とし、相殿(主祭神と一緒にまつられるゆかりの深い祭神)として神功皇后がまつられる。そして、軍事参謀として活躍した武内宿禰も摂社として境内にまつられることが多い。

弁才天七変化〜川の神、音楽の神、学問の神、五穀豊穣の神、商売繁盛の神、宗像三女神、宇賀神〜
 七福神の弁財天もその由来はインドの神様である。それが仏教に取り入れられて日本に伝わり、記紀神話に登場する宗像三女神と集合し、さらに民間信仰の宇賀神という蛇神(竜神)と集合して現在に至る複雑な経緯を内包した神である。
 サンスクリット語で弁才天はサラスヴァティーといい、サラスヴァティーは古代インドに実在した河川の名で、それをそのまま神格化したのがサラスヴァティーである。
 一定のリズムや旋律を刻んで流れる川のせせらぎが、音楽になぞらえられて音楽の神となった。そのため、日本に伝えられても弁財天は琵琶を持っている。一定のリズムや旋律は、雄弁な弁舌にたとえられて「弁才」の名が冠された。また、弁舌さわやかに理路整然と語る人は聡明であるということから、学問の神としても信仰を集めている。
 今もインドのヒンドゥー教ではサラスヴァティーが盛んな信仰を集め、とくに音楽関係の人たちに厚く信仰されている。インドのサラスヴァティーは、琵琶の原型となるビーナという民族楽器を持っている。
 サラスヴァティーは仏教に取り入れられて信仰されるようになったのが弁才天である。日本でも音楽の神として琵琶を持った姿に作られ、また、学問の神としての性格も兼ね備えている。さらにもともと水の神という作物の成長を促す性格から、五穀豊穣の神として盛んに信仰され、室町時代頃から商業が発達してくると商売繁盛の神として信仰されるようになった。室町時代末から江戸時代はじめ頃になると、弁才天ではなく、財産の「財」の字を当てて弁財天と表記するようになった
 また、平安時代頃から弁才天はアマテラスがスサノオとの“誓約”(うけい)の結果生んだ三柱の女神「宗像三女神」と集合し、さらには古くから民間で信仰されている宇賀神という蛇神(龍神)とも習合して極めて複雑になった。これらの神はともに水神の性格が強いということで習合したのである。
 このような宗像三女神、弁才天、宇賀神が習合した弁天信仰は、複雑な様相を呈しながら熱狂的に支持された。
 仏教由来でありながら弁才天をまつる社は弁天社と呼ばれている。これは宗像三女神や宇賀神と習合した結果、神の性格が強くなったためと考えられている。外来の神の中ですっかり日本の神として定着することになった弁才天は、日本人の宗教心や民族性に最もマッチした神として親しまれてきたのである。

□ 弁才天をまつる神社〜厳島神社と江島神社
 日本三大弁才天の一つに数えられる広島の厳島神社は、もともと瀬戸内海に浮かぶ弥山という山の麓に宗像三女神を九州の宗像大社から勧請してまつったのが始まりで、後に弁才天がまつられ、宇賀神が加わった。厳島神社の背後にある弥山は瀬戸内海の交通の要衝にあり、その特徴ある山容は古くから瀬戸内海航行の際の目印となる山として、瀬戸内水軍などから崇められてきた。そして、ここは神を「いつく」山と呼ばれた。この「いつく」は「居つく」という意味ではなく「斎く」、つまり「まつる」という意味で、すなわち「神をまつる山」なのである。
 神奈川県の江島神社も平安時代に宗像三女神をまつり、鎌倉時代になってから弁才天と宇賀神がまつられた。

金比羅
 金比羅もれっきとしたインドの神で、サンスクリット語でクンビーラと呼ばれるガンジス川の守護神である。それが仏教に取り入れられて金比羅と音写され、日本にも仏教とともに伝えられてきた。そして、水の神という性格から船の航行を守る守護神、豊漁を約束してくれる神、あるいは五穀豊穣の神として盛んな信仰を集めるようになった。そして弁才天と同じように室町時代頃からの商業の発達に伴って、商売繁盛、金運上昇にも霊験あらたかとされた。

□ 明治以降に定められた祭神
 もともと日本の古来の神々は氏神や産土神で特定の名前を持たなかった。それが明治維新になって国家神道の時代になると、記紀の記述に基づいて神話に登場する神々が祭神として定められるようになった
 維新政府は神道を国教とする国家神道で国民を統制し、富国強兵と近代化を強力に推進した。その過程で「神仏判然令」という法令を明治初年に発し、神と仏を判然と区別する作業を強硬に推し進めた。そのとき、維新政府は各寺社に対して神社として存続するか、仏教寺院として存続させるかを独断で決めていった。
 奈良県の談山(だんざん)神社は、もともと藤原鎌足の菩提を弔う妙楽寺という仏教寺院として創建されたものだが明治初年には鎌足を祭神とした寺社として存続することに決め、談山神社と号することになった。
 また、名古屋の熱田神宮はヤマトタケルを主祭神としてまつったが、戦後は旧に復して熱田大神(あつたおおかみ)を祭神としている。もともと歴史のある神社では、その土地を支配した豪族の氏神をまつり「○○の大神」といっていたのである。


(オマケ)“御幣”(ごへい)とはなにか?
 もともと御幣は幣帛(へいはく)といって神への捧げ物だった。昔、税として納められる絹織物などを木簡や竹簡で挟んで献上したことに由来すると考えられる。本来、御幣は御幣束といって束にして供えるものだった。東北などでは今も御幣を束にして神前に供える風習が残っている。
 時代が少し下ると、御幣は神への捧げ物の意味から、それを目印に神が降臨する依代としての意味合いが強くなった。神社の本殿の前に御幣が供えられているのは依代の意味である。だから、祭神が一柱の神社では一本、三柱の神社では三本の御幣が供えられるのである。また、お祓いの時に神職がはたきのように振る“祓い棒”の起源も御幣にある。祓い棒もはじめは幣束と同じだったが、これで穢れを祓うことからその中に神威が宿ると考えられ、神聖視されるようになった。

「よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)

2018年04月14日 06時33分10秒 | 神社・神道
よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)角川ソフィア文庫、2017年発行

 日本古来の宗教とされる神道にはキリスト教における聖書、イスラム教におけるコーランのような経典が存在しません。
 ただ、仏教ではお経を読むという作業がありますが、それに似ているのが神職が祈祷の際に口にする祝詞(のりと)です。

 祝詞の内容はどんなものなのか、以前から興味がありました。

 随分前ですが、NHKのEテレで「U-29」といういろいろな職業を紹介する番組で「神職」を扱った回を見たことがあります。
 新人女性神職が、ある祈祷を任されて自分で一生懸命に祝詞を考える、という場面がありました。
 「え? 祝詞を考える? 自分で作る?」
 祝詞とは、すでにあるものからTPOで選んで奏上するものと思い込んでいた私には驚きでした。
 しかし実際は、神職の各個人が過去のものを参考にしながら新たに作っていくものらしい。

 それから、以前から私の中には「美しい日本語」を求める気持ちがありました。
 おそらくそれを追求していくと、目で読む文章ではなく「口にして心地よい」「耳にして心地よい」言葉にたどり着くのではないか、と何となく感じてきました。

 古今の中で一番美しい日本語は「平家物語」という説があります。
 琵琶法師が名調子で語る物語に、多くの日本人が涙してきました。
 この視点からも、祝詞は「延喜式」の時代から語り継がれてきたものであり、やはり耳心地がよく洗練された日本語ではないかと思われます。

 祝詞を知る手ごろな本がないか探しているときに、この本に出会いました。



内容紹介
 例文+現代語訳を収録。基礎からわかる文庫オリジナルの必携入門!
 「恐み、恐み」の決まり文句以外、意味や単語すらよく分からないまま聞くことの多い祝詞。日本古来の信仰に根ざし、記紀神話の時代から奏上されてきたそれらの言葉には、どんな由来や役割があるのか。神話と神々との関係や参拝のマナーとともに、祝詞の基礎知識をていねいに解説。月次祭・節分祭などの祭祀、七五三・成人式などの人生儀礼や諸祈願ほか、24の身近な例文を現代語訳とともに掲載する、文庫オリジナルの実用読本。

第一章 神道の基礎知識
第二章 祝詞の基礎知識
第三章 祝詞の例文と現代語訳
第四章 神話に登場する神々
付録 神社参拝等のマナー


 第二・第三章がこの本の中心です。

 祝詞はすでに記紀神話に登場し、天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸隠れをしたときに、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が岩戸の前で祝詞を唱えたという記述がある。
 平安時代に編纂された法令書である『延喜式』には28種類の祝詞が掲載されており、それを参考に今も神職が神事や祭礼ごとに作成している。
 だから、祝詞には仏典などのように校訂本があるわけではなく、神社ごと神職ごとに異なり、時代によっても変遷する。


 ・・・のだそうです。
 そして祝詞の内容は、「崇高な神に対して最大限の敬意を払い、平身低頭して仕えることを約し、恐れ謹んで願い事をする」と書かれています。
 ひたすらに神を褒め称え、感謝するものであることがわかりました。
 神道の教えは「清く、正しく、美しく」に尽きるような気がします。
 ただ、人間が生きていく上で無視できない「ダークサイド」をフォローする視点がなく、そこを仏教が補填して日本の生活宗教・信仰を形成してきたのでしょう。

 私にとって第一・第四章も知識を整理するのに大変役に立ちました。
 記紀神話に登場する神様達の関係も少しわかりました。
 それとともに、記紀神話でさえも、当時の政治と絡んでいることがわかりました。
 天皇家が自分の家系の正当性を訴えるために創作した神話なのです。

 先日、TV番組で「聖徳太子は実在しなかった!」という内容を放送していました。
 聖徳太子は、中大兄皇子達が企てたクーデターを正当化するための虚像であり、架空の人物であったというのです。
 なので、現在の歴史の教科書から「聖徳太子」はなくなりつつあり、そのモデルになった「厩戸王子」に書き換えられているそうです。

 宗教・信仰と政治とは、古今東西の歴史を振り返っても切っても切れない関係なのですね。

 ヤレヤレ・・・。

 私は「山神社」という小さな神社が好きです。
 宮司さんもいないし御朱印ももらえませんが、山里の奥に位置する村の鎮守様に参拝すると、清冽な気持ちになれます。
 「ああ、1000年前の日本人もここに立って私と同じ気持ちになったんだなあ」
 と、祖先達と時空間を共有するタイムトラベルができるのです。

<備忘録>

□ 和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)
 日本の神には和魂と荒魂という二つの側面がある。前者は我々人間に幸いをもたらしてくれる優しい性格、後者は禍をもたらすような荒々しい性格である。
 そういった二面性を持つ神に最大限の敬意を払って丁重に仕えることによって和魂の部分が顕現し、われわれに幸いをもたらしてくれると信じられている。

□ 神道の本質
 仏教伝来(538年)以前から行われていた民俗信仰である。
 アニミズムと呼ばれる原始的な信仰と、祖先信仰が合体したものである。
★ アニミズム(精霊崇拝):近くの山川草木などの自然物に精霊が宿るとして崇拝すること。
 日本では共同体(ムラ)で亡くなった人の霊は、近くの山を彷徨った末に、浄化されてその山頂から昇天すると考えられていた。そして、昇天した先祖の霊と自然物の精霊が融合したものが後世、氏神と呼ばれる共同体の守護神になると信じられてきた。
 このような神が年に一度、共同体近くの山頂などに降臨し、人々がその神を丁重に迎えて神饌(神に捧げる食物)を供え、祝詞を上げたり、舞を舞ったりして神々を敬い、饗応することによって、神々は村人に幸いをもたらしてくれると考えられていた。
 この年に一度の神々の降臨が例大祭で、その構図は今も古代と全く変わっていない。

□ 伊勢神宮の成り立ちと天照大神
 先祖の霊と融合する自然物は、共同体でその神聖さが共有されているものでなくてはならない。
(例)浅間大社:浅間大神(富士山の祭神)は村々の祖先神と霊峰富士山が融合したもの
 伊勢神宮の祭神である天照大神は、天皇家の祖先の霊(皇祖)と太陽を合体したものである。天照大神ももとは天皇家の氏神だったが、5〜6世紀頃にかけて天皇家が他の豪族を凌いで強大な権力を握ると、国家的な神として君臨するようになった。
 そこで、全国津々浦々の豪族や民衆にとってもっとも重要で神聖な自然物である太陽が選ばれた。縄文時代から稲作を営んできた日本民族にとって、太陽は五穀豊穣を約束してくれるありがたい存在である。その太陽と天皇家の祖先の霊とを合体することにより、天皇家の求心力を高めようとした。

□ 神は目に見えない存在
 本来、日本の神々は無色透明で目に見えないものとされている。伊勢神宮の御神体が八咫鏡(やたのかがみ)であることはよく知られているが、御神体は神霊がそれを目印に降りてくる目標となるもので、依代(よりしろ)と呼ばれ、神霊そのものではない。そして依代の神体自体も神聖視され、直視することはタブーとされている。
 一方、我々日本人は、日本古来の神といえば、白い狩衣のような装束で腰に太刀をはいた、素戔嗚尊や大国主命のイメージを持っている。その姿は時代が下ってから、記紀の神話などの記述に基づいて作られたもので、おそらく江戸時代くらいに徐々に普及し、明治維新を迎えて国家神道の時代になり、維新政府が神道の啓蒙用に一流の画家に描かせたものが一気に広がったものと考えられる。
 もともと日本の神に対する信仰は偶像否定で、この観念はキリスト教やイスラム教でも厳格に守られている。キリスト教ではイエスキリストや聖母マリアの像はあるが、全知全能のヤーウェの神の像を造ることはタブーである。また、イスラム教は厳格な偶像否定主義で、絶対神であるアラーの神の像を造ることは決してない。

□ 鎮守の杜〜神が降臨する場所
 日本の神々は、共同体(ムラ)の近くにある山の頂上付近、あるいは海辺の岬の先端のようなところに降臨すると考えられてきた。
 降臨の場所として忘れてならないのが鎮守の杜(もり)である。
 安芸の宮島の背後にそびえる弥山(みせん)の社叢(神社の擁する森林)は「千古斧を入れず」といわれ、社叢内の樹木の伐採はタブーとされてきた。

□ 八坂神社(祇園社)の祭神は牛頭天王(ごずてんのう)、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)?
 京都の八坂神社の御祭神は牛頭(ごず)天王という疫病除けの神で、丁重にまつれば疫病を流行らせないが、粗末にしたり非礼を働くと忽ち疫病を蔓延させる恐ろしい神である。
 牛頭天王は、インドで釈迦がたびたび説法をした祇園精舎の疫病除けの神としてまつられていたものが、仏教とともに日本に伝えられた。八坂神社は江戸時代までは牛頭天王を祭神として牛頭天王社、あるいは祇園社と呼ばれていた。この近くの地域を祇園というのも祇園社にちなむ。
 また、牛頭天王は古くから素戔嗚尊と同一視されていた。疫病神としての性格が素戔嗚尊の荒魂と重なったのだろう。そして、明治維新の神仏分離で牛頭天王は仏教由来の神ということで祭神から外され、同体と見なされていた素戔嗚尊を祭神として、新たに八坂神社と名乗った。
 毎年7月に行われる八坂神社の祇園祭は疫病退散を祈願する祭で、他にも博多祇園山笠などのように「祇園」を関した疫病退散祈願の祭がみられる。また、牛頭天王を祭神として「天王祭」と証する祭りも行われている。こちらも同じく疫病退散祈願の祭である。

□ 言霊信仰と祝詞
 インドでは太古の昔から、祭官の称える呪文が万物を動かすと信じられてきた。そして、これらの呪文を集積して成立したのが密教である。密教では真言、陀羅尼という呪文を駆使して、さまざまな利益を引き出すことができると考えられている。
 祝詞の背景にも言霊信仰があり、これを奏上することによって神の霊力を授かることができると考えられている。祝詞がいつ頃から称えられるようになったのか、はっきりした時期はわからない。おそらく、4-5世紀頃には何らかの形で神に対する祈願や感謝の言葉が読まれていたものと考えられる。そして平安時代の中頃に完成した『延喜式』という法令書には多くの祝詞が収録されており、今も各地の神社では『延喜式』の祝詞が読まれている。

□ 注連縄・神輿・社殿の起源
 注連縄は天照大神が岩屋から出てきたときに、二度と入らないように巡らせたのが起源。つまり、聖域と俗界とを隔てる縄である。
 古代の神社には社殿がなく、榊や依代が神事や祭の中心だった。しかし、時代が下ると仮設の社が登場してくる。神事や祭の時だけの特設の社で、神事が終わると撤去されて次の神事や祭事まで大切に保管された。この仮設の社が、後に神輿担ったと考えられる。ちなみに社(やしろ)とはもともと家代(いえしろ)、家の代わりの意味である。
 538年に仏教が伝来し、その半世紀後には隆盛期を迎え、仏教寺院の大伽藍が誕生すると、日本の神々にも家を建てなければならないという気運が高まってきた。
 最初の社殿は、登呂遺跡の復元などにみられるような弥生時代の高床式の穀倉庫モデルにした。高床式穀倉庫は翌年に蒔く種籾を保存する倉庫で、中には棚を設え、そこに御倉棚の神を祭った。縄文時代から稲作を始めた日本人は古くから、稲の中には穀霊という霊が宿っていると考えていた。伊勢神宮や出雲大社の本殿は、その構造が高床式倉庫に似ている。伊勢神宮社殿の創建は天武天皇の時代(680年頃)、出雲大社はそれより半世紀ほど後である。

□ 基層宗教と成立宗教
 世界の他の民族(例:北米インディアン、アイヌ、イヌイット、アボリジニー、マオリ等)のアニミズムは古代の習俗をそのまま残したもので、規模的にも集落単位である。
 日本の神に対する信仰が他民族のそれと異なるのは、その規模が時代を追って大きくなり、組織も広範にわたるようになったことである。とくに仏教と密接に結びついたことによって、ますます強大化し政治的にも大きな力を持つようになった。
 アニミズムは主として呪いや占い、祈祷などを行う原初的なもので、木や岩や森など身の回りの自然物が我々を守ってくれると信じられている。このような宗教は“基層宗教”と呼ばれるのに対して、仏教やキリスト教、イスラム教などは“成立宗教”と呼ばれて区別される。
 成立宗教には仏典や聖書、コーランなどの聖典があり、教理もしっかりと具えられている。現在、世界の宗教人口は以下のようになっている;
・キリスト教:約20億人
・イスラム教:11億9000万人
・ヒンドゥー教:約8億1000万人
・仏教:約3億6000万人

□ 氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)と記紀神話の神
(氏神)ある特定の地域に住む共同体の祖先神
(産土神)その土地に古くから鎮まる神
 上記が基本であるが、厳密に区別されることなく、一般的には“氏神”と呼ばれている。
 これらの神々は、それを崇拝する共同体の構成員、すなわち“氏子”の繁栄を約束してくれる。もともと氏神は、ごく狭い共同体(ムラ)だけに降臨してそこの構成員を護ってくれる神だった。
 現在では、共同体(ムラ)の鎮守の祭神も八幡神や天照大神などとされているが、もとは祖先神だったものが、作物の生育を助けてくれる太陽や水などの自然現象を神格化したものと結合したと考えられている。こうした神々が、記紀の神話などによって天照大神をはじめとするさまざまな神格に発展したのである。
 時代が下って古墳時代(三世紀末〜六世紀中頃)になると、近隣の共同体を征服して領地を拡大する豪族が出現し、支配された共同体の氏神は支配者の氏神に無理矢理変えられていった。
 豪族の頂点に立ったものが大和朝廷を築き上げた天皇家である。
 この天皇の氏神が天照大神だった。天照大神はもともと太陽神で、太古より稲作を営んでいた我々の祖先の多くは、同種の太陽神を氏神として崇めていたと考えられている。しかし、大豪族の大和朝廷が出現すると、より強力な太陽神像が必要となり、各地に点在する太陽神系の氏神を統合する形で天照大神という強力な神を創り出した。さらにその正統を明らかにするために記紀の神話を作り、いざなぎ・いざなみをはじめとする神々の系譜と地位を不動のものにしたのである。

□ 日本古来の信仰と“神道”は別のものである
 日本の神に対する信仰は、外界のあらゆるものに精霊が宿ると考えるアニミズムと日本古来の祖先信仰が融合したものである。神はいわば自然の摂理のようなもので、人々がそれに逆らわずに行動することにより、自ずと我々を正しい道に導いてくれて幸いをもたらしてくれるという。
 祝詞には「畏(かしこ)み、畏み」という言葉が頻出する。「畏み」とは体を屈(かが)めて精一杯、畏敬の念を表しますという意味である。神事や祈願の折も、祝詞を読む以外はすべて無言で執り行うのが大原則で、鳥居を潜ったら頭を垂れて無言で神前に進む。
 ここに述べた古来の素朴な神社を中心とした神に対する信仰と、いわゆる“神道”とは全く異なるものである。“神道”という言葉は、非常に政治的、政策的意味が強いのである。その最もたるものが明治維新以降の国家神道である。

□ 造られた「伊勢神道」
 室町時代に伊勢神宮の外宮(げくう)の神官が「伊勢神道」というものを提唱した(度会神道とも呼ばれる)。もともと外宮は内宮(ないくう)に鎮座する天照大神の食事の世話をするために、豊受大神が内宮の創祀から約500年後に祀られた。
 昔から外宮先拝先祚(せんそ)と言われるように、参拝に際してはじめに外宮に参拝し、神事や例祭なども外宮から執り行って、大御所の内宮に進むしきたりになっている。また外宮は社殿もやや小ぶりで、何かにつけて内宮に遠慮する形になっている。
 しかし、古くから外宮には優秀な神官が集まった。室町時代になって、その神官らが内宮への劣勢を挽回するために打ち立てたのが伊勢神道である。彼らは『神道五部書』という聖典を作って、内宮よりも遙か昔に創祀された外宮が伊勢神道の起源であると主張した。

□ 室町時代に席巻した「吉田神道」
 室町時代のはじめに京都の吉田神社の神職だった吉田兼倶(かねとも)という人物は、吉田神社を拠点に「吉田神道」を旗揚げした。
 ある日、兼倶は「昨夜、吉田神社の本殿の前の松の木に伊勢の皇大神宮から天照大神が飛来して止まり、本殿の御扉を開けたところ中に入って鎮まった。続いて全国から八百万の神が続々と集まってきて松の木に降臨し、本殿に鎮まった」と言いだした。
 吉田神社の本殿は八角形の独特な建築で、宇宙の根源という意味で太元宮(たいげんきゅう)と呼ばれている。これは宮中に八百万の神を迎えて祈念する八神殿という建物を模したものだ。兼倶はあらかじめ太元宮を建立しておいて、そこに八百万の神が鎮座したと喧伝したのだった。
 律令制の時に整備された神社行政は、律令制の衰退とともにすでに平安時代には機能しなくなり、神社行政を担う神祇官という中央官庁も休眠状態になっていた。兼倶はこのような状況の中で、神社界の再編成を企てたのであった。その結果、兼倶は神祇官代として認められ、日本の神社行政を一手に担うことになり、その後も江戸時代まで吉田神道が日本の神社界を束ねたのであった。

□ 政治的に作られた「国家神道」の悪夢
 明治維新以降に「国家神道」が作られた。
 神道を担ぎ出して幕府を倒し、維新を敢行した勤王派の志士たちは、もともと天照大神を頂点にその子孫(天皇)が国を治めるのが我が国のあるべき姿(国体)であると考えていた。だから神道を国教として政治を司ろうと考えた。
 しかし、この極めて集権的な思惑で作られた国家神道は、多神教であるはずの日本の神々の信仰を一神教にしてしまった。そして、そのことが日清戦争や日露戦争、ひいては太平洋戦争を戦う国家としての原動力となった。とくに太平洋戦争はイスラム教のジハード(聖戦)と全く変わらない様相を呈したのである。

□ 「靖国神社」
 「国家神道」を象徴する靖国神社は明治2年に創祀された。
 幕末の討幕運動の激化で、薩長の勤王の志士たちの間に多くの戦死者が出た。しかし江戸幕府にまだ勢力のあるうちは、殉難の士の鎮魂祭を公に執り行うことはできなかった。そこで、とくに長州(山口県)では、建武の新政の時の騒乱で神戸の湊(みなと)川で討ち死にした楠木正成の鎮魂祭を行い、それに紛れて殉難の士の御霊を鎮めた。この楠木正成の鎮魂祭「楠公祭」(なんこうさい)と呼ばれ、幕末も最末期になって幕府がほとんど死に体になると、長州では招魂社が創建されて公然と殉難の士を鎮める「招魂祭」が執り行われるようになった。
 1867年、大政奉還を迎えて天皇が江戸城に入ると、江戸城内に東京招魂社が創建された。そして明治2年、参拝の便を図るために九段の現在地に新たに社殿を設けて英霊の御霊を祀った。その後、他の招魂社と差別化を図るために靖国神社と社郷を改めた。

□ 神仏習合から神仏分離へ
 神道は八百万の神と言われるように、多神教である。
 一方、仏教はもともと神のいない宗教である。しかし、大乗仏教の時代になると、多くの仏、菩薩、明王、天(神々)などが誕生し、日本に伝来した頃にはすっかり多神教に変容していた。
 多神教は他の信仰と接近しやすい。
 仏教も伝来してまもなく、徐々に神道と接近していき、時代が進むに従って神仏の関係は密接になっていった。
 奈良時代になると、神と仏の関係に「神前読経」(神前で僧侶が今日を唱えるもの)という具体的な形が現れる。各地の神社で盛んに行われるようになり、まもなく“社僧”と呼ばれる神社所属の僧侶が常駐するようになった。
 さらにこのような状況が進むと、「神宮寺」という神社所属の寺院が建てられるようになるのである。
 平安時代になると、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)という究極の神仏習合思想が搭乗する。「本地」とは本来の姿、「垂迹」は仮の姿という意味である。日本古来の神々は、インドの仏、菩薩が衆生を救うために現した仮の姿であるという意味である。
 本地垂迹説は仏教を神道の上に位置づけるもので、言うまでもなくこのような思想は仏教側で作られたものである。
 仮の姿は“権現”といわれ、時代とともに各地の名だたる神々は「○○権現」と呼ばれて盛んな信仰を集めるようになった。権現の権は「仮の」という意味で、文字通り仮に現れることを意味する。
 さらに権現と並んで“明神”(みょうじん)という言葉も普及した。これはもともと「名神」(みょうじん)で、古くは由緒ある神社のことだった。しかし神仏習合が進むにつれて「明神」の字が使われるようになり、各地の名だたる神社は「○○権現」あるいは「○○明神」と呼ばれるようになったのである。
 しかし明治維新を迎えていわゆる国家神道が唱えられるようになり、神道が国の宗教として定められると、国家としては神と仏をはっきりと区別する必要に迫られた。日本の神を拝んだら、その実体は仏、菩薩だったというのでは、日本の神道の面目丸つぶれだからだ。そこで維新政府は「神仏判然令」を出していわゆる神仏分離を徹底した。その結果、「権現」や「明神」という言葉は禁止され、全国に点在していた神宮寺などは撤廃され、神社に祀られていた仏像や境内にあった仏教的なお堂などの施設はすべて撤去された。

□ 檀家(だんか)制度と廃仏毀釈
 明治維新政府の神仏分離政策を敢行した過程で起こったのが廃仏毀釈である。廃仏毀釈は国の政策ではなく、それまでの寺院や僧侶に反感を抱いていた民衆が寺院を攻撃し、仏像を焼き捨てるなど狼藉を働いた。廃仏毀釈は維新政府が意図したものではなく期せずして民衆の側から起こったものだという見方をする専門家も少なくない。
 江戸時代に檀家制度が確立すると、民衆はどこかの寺の檀家になることが定められた。もともと檀家制度はキリシタン締め出しのために作られた戸籍制度だったが、これが確立すると寺院は檀家の葬儀などを行って定期的に布施を受け、経済的に安定した。僧侶は檀家1人1人の身元引受人となり旅行をするにも結婚するにも菩提寺の僧侶を通じて役所に届け出なければならなかった。
 その結果、僧侶の中には檀家に対して不遜な態度をとる者もおり、民衆の中には長きにわたってその抑圧に耐えてきた者もいた。そこで、維新政府が神仏分離政策に着手すると、この政策を仏教撲滅運動と捉えた民衆が、いわゆる廃仏毀釈という暴挙に出たのである。

□ 山岳信仰と密教
 山岳修行者は仏教伝来以前から存在しており、奈良時代以前にはすでに相当数の行者が吉野の金峯山(きんぷさん)、葛城山などで修行に励んでいたと考えられる。
 そして、このような山岳修行者(山伏)の元祖として、今でも修験者(しゅげんじゃ)の間で敬われているのが役小角(えんのおづの)、別名役行者(えんのぎょうじゃ)である。
 役小角は謎に包まれた人物で、歴史上の人物かどうかも判然としない。『続日本紀』の中に(文武天皇の三年:699年)、金峯山や葛城山で修行して超自然的な霊力を身につけ、空中を飛翔したり、妖術を駆使して人心を惑わせた「惑百姓」の罪で捕らえられて伊豆に流された、という記述がある。
 山岳修行者は時代とともに増え続け、平安時代に空海が密教を伝えて、これが短期間のうちに普及すると、護摩などの加持祈祷を取り入れて密教との結びつきを強めることになる。もともと拠点となる寺を持たない行者たちは、ふだんは山中の岩窟や堂などで修行生活をしていたが、積雪期や閉山期になると拠点がなくなる。そこで行者たちは真言宗や天台宗の密教寺院に身を寄せるようになる。
 加持祈祷や占いなどに優れた行者の存在は、受け入れる寺としても信徒を獲得するために好都合だった。その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて密教寺院の数が増えていった。そこで室町時代になってこれらの山岳修行者の集団を独立させて「修験道」という一宗派を立ち上げたのである。
 修験道では神と仏の両方を礼拝の対象にした。

□ 分霊(ぶんれい)される神社の神様
 分霊とは神霊の一部をもらって他所にまつることで、別御霊(わけみたま)とも呼ばれている。
 八幡社や稲荷社など同じ名前の神社が各地に点在するのはそのためだ。
 ただし、仏教界の本山末寺のように、総本社が同じ祭神をまつる他の神社を支配することはない。大小の差はあってもそれぞれ独立している。

□ 摂社と末社
(摂社)本殿の主祭神と関係の深い神(親子や兄弟)を祭った社
(末社)神社の境内にある小さな社で、さまざまな祭神がまつられている。末社は室町時代以降、庶民信仰が盛んになると、それらの本拠地に参詣した人々がその御霊を勧請して地元の神社にまつったもの。

□ 神社、大社、神宮の違い
 これらは神社の規模や由緒によるもので、神社の格式を表すものである。
(神社)村々にまつられているいわゆる氏神の社
(大社)各村々を統治する強力な豪族などの氏神は大神と呼ばれ、その大神をまつった社が大社
(神宮)天子(天皇)の御殿に勝るとも劣らない美麗な社という意味
 もともと神宮号が許されたのは皇祖神(天皇家の祖先神)をまつる伊勢の皇大神宮だけだった。ついで平安時代には関東の鹿島神宮と香取神宮が神宮号を許された。この両神宮は東国(東北)警護の最前線にある極めて重要な社だったからである。
 明治になって各地の神社が神宮を名乗るようになった。明治二年に創祀された札幌の北海道神宮、明治二十二年に創祀された奈良の橿原(かしはら)神宮、明治二十八年創祀の平安神宮、大正九年に創祀された明治天皇と昭憲皇太后をまつる明治神宮など。

□ 鳥居
 鳥居は俗界と聖域を隔てる結界で、記紀神話では岩屋に隠れた天照大神を引き出すときに常世の長鳴鳥(鶏)を止まらせた止まり木が起源で「鳥が止まり居るところ」から鳥居というのだという。
 そのほか、鳥居の起源については諸説ある。

□ 樹木信仰
 神社境内・社域に自生している樹木や草花を伐採したり、摘み取ったりすることはタブーとされている。ほとんどの神社の鎮守の杜は、台風や大雪による倒木の危険を防ぐためなどやむを得ない事情がない限り、決して伐採することはない。
 樹林帯に恵まれた日本では樹木に対する信仰が強く、とくにご神木などに対する霊木信仰が盛んである。ご神木や霹靂木(落雷を受けた木)は霊木と見なされ、伐採することは許されない。そしてその霊木が立ち枯れした場合は、建築材や調度品などの用材としては決して使ってはいけないという掟がある。それらの霊木の多くは仏像や神像をつくるのに用いられ、できあがった像は再び信仰の対象となるのである。


日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」

2018年04月10日 06時08分10秒 | 日本の美
日曜美術館「シーボルト 幻の日本博物館」(2016.7.24:Eテレ)

 幕末の日本(長崎の出島)にオランダ商館員として来日して「鳴滝塾」を開き、西洋医学を日本に伝えた医師・・・シーボルトに関する私の知識はこれだけでした。
 ただ、日本の物産を自国に持ち帰る収集家であったことも耳にしていました。花のスケッチは有名ですね。

(初来日時)

(再来日時)


 シーボルトは、27歳の時に初めて来日しました。有名な「シーボルト事件」で国外追放になるものの、それから30年後に国の外交担当として再来日します。その際に収集した日本の物産・工芸品をドイツで展示していたのでした。ただ、その最中に無理がたたって命を落としたため、それらの品々はお蔵入りし、長らく眠ることになりました。
 近年、それが再評価され、日本の国立博物館などが調査に乗り出し、今回の番組作成につながったようです。

 幕末から明治にかけての日本は、西洋に追いつけ追い越せとしのぎを削って西洋文明・文化を輸入した時代です。その際に、日本古来の伝統は「古くて価値のないもの」として捨て去ってしまいました。現代に生きる我々がそれを知ろうとしても、残っていないのです。
 ところがシーボルトがそれを国外に保管しておいてくれました。
 シーボルトの「日本博物館」は、幕末の日本文化のショーケースです
 それらに触れることにより、当時の日本人の生活をしのぶことができます。







 シーボルトの収集品は高価な美術品ではなく、庶民目線の工芸品が多いようです。
 また、学術的なものもあり、その中の地図が物議を醸し出した一因かもしれません。

 シーボルトは日本の庶民信仰を「パンテオン」(様々なローマ神を奉る万神殿)と表現しました。万物に神の存在を感じる日本の宗教心を、ギリシャやローマのような多神教と共通すると読み取ったのです。
 すばらしい観察眼です。

 特に私が惹かれたのは、日本人絵師(川原慶賀)に描かせた人物画。
 「男伊達」(下図中央)なんて、我々のイメージの源泉ではないでしょうか。



 ふつう、当たり前のことは記録に残りにくいのですが、見聞きすることがすべて新鮮だったシーボルトは、日本人の生活や姿を残しておきたいと描かせたのですね。

 シーボルトさん、ありがとう。


<内容>
 ドイツの古城に、大量の日本の美術品や民俗資料が未調査のまま埋もれていた。収集したのは、幕末の日本から地図を持ち出した事件で知られるシーボルト。彼は、世界初の日本博物館を作ろうとしていたのだ。その内容は今までなぞに包まれ、幻とされてきたが、国立歴史民俗博物館などがその全貌を初めて再現した。西欧のジャポニスムより早く、初めて日本を紹介しようとしたシーボルト。彼は日本のどのような魅力を伝えたかったのか?


<参考>
■「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作」(野藤妙 宮崎克則 西南学院大学国際文化学部)
■「長崎絵師 川原慶賀
■「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(野藤 妙)