知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「画狂老人~葛飾北斎」

2010年12月30日 08時27分56秒 | 日本の美

 葛飾北斎・・・しばらく前までは「富嶽三十六景」くらいしか知りませんでした。
 しかし1999年アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、唯一ランクインした日本人として俄然注目。
 私のつたない”北斎経験”を書き留めておきます;

★  BSベスト・オブ・ベスト ハイビジョンスペシャル「葛飾北斎」      
 ▽4人の文化人がさぐる不朽の名作             
 ▽富嶽36景・北斎漫画など不朽の名作の秘密を読み解く   
【出演】(写真家)浅井愼平、(漫画家)黒鉄ヒロシ、(俳優)板東英二、(作家)いとうせいこう、(画家)平松礼二

 2010年12月に再放送されたものを拝見しました。
 4人の文化人がそれぞれの視点で北斎を語る番組構成。

■ 「赤富士」の分析(担当:浅井慎平)
 富士山を赤く描くなんて、想像上の作りものでは・・・と思いきや、実際に赤富士は存在したのでした。
 ただし、年に数回しか見ることのできない”幻の富士”らしい。”赤富士専門写真家”も存在するとか。なんでも、前日雨が降って岩に水がしみ入り、夜間に止んで朝日が岩を照らすときに赤く見えるのだそうです。番組の中で、実際に富士山から持ち帰った岩に水をかけて実演していました。
 また、北斎の赤富士の頂上付近は黒っぽい配色です。これは、雲の影らしい。
 創作と思い込んでいた赤富士は、変化する富士の一瞬を捉えた芸術だったのですね。
 脱帽!
 さらに、北斎は版画の複製を作る際の細かい指示を残しています。その文章が茶目っ気たっぷりで面白い。
 ”東海道五十三次” で有名な同時代の版画家・安藤広重との比較も紹介されました。広重の版木はシンプルで、後から絵の具で背景に手を入れなければならない一方で、北斎のそれは「指示通り作れば同じものができる」ほど完成度が高かったようです。
 北斎の作品には遠近法が導入されています。でも、約束事にとらわれず、強調したいもの・・・例えば富士山は遠近法の先にド~ンと鎮座させたり、もうやりたい放題。

■ 「北斎漫画」の分析(担当:黒鉄ヒロシ)
 マンガの歴史は北斎にはじまった?
 北斎は「北斎漫画」という膨大なイラスト集を残しています。長年出版し続けて15巻あるそうです。手元に近年発行されたダイジェスト版があるのですが、森羅万象のちょっとした瞬間・表情を見事に切り取ったイラストが満載され、息づかいまで聞こえてきそう。その画力・観察眼に黒鉄ヒロシさんも驚嘆の声を上げていました。

■ 「手絵本」の分析(担当:いとうせいこう)
 北斎は「絵の描き方」の類の教則本も残しています。
 それが堅苦しいものではなく、字をもじって絵にしたり、しりとり風に連想して絵を描いたりと、遊び心にあふれた代物。
 番組の中で、いとうせいこうさんは漫画家二人(しりあがり寿、吉田戦車)を呼んで「北斎絵画教室」を開きました。
 ひらがなの「あ」や「ら」からはじまる絵を描いてください・・・と突然云われてドギマギする漫画家二人。出来上がったものを北斎作品と比べると、一目瞭然、北斎一人勝ちでした。
 瞬間のしぐさを捉える観察眼と画力はマネのできない天性のものなのでしょう。

■ 「肉筆画」の分析(担当:平松礼二)
 私は知らなかったのですが、北斎は晩年に肉筆画も残しました。
 平松さんは日本画家です。アトリエにはおびただしい数の絵の具があり、絵の具フェチでもあるようです(笑)。
 彼は北斎作品が残されている長野県小布施の岩松院に通いました。そこには色彩鮮やかな孔雀の絵が天井いっぱいに描かれているのでした。陰影に富んだ色使いや細かい裏技の数々が紹介されました。
 また、北斎は絵の具の作り方も本に残しています。一度のめり込んだらとことん突き詰めてしまうタイプなんですねえ。


 私は北斎を ”ストイックな求道者として富嶽三十六景を仕上げた絵画職人” というイメージで今まで捉えていましたが、実物は全然違うようです。
 自らを「画狂老人」と称して、もう何でもあり! ・・・ひたすら絵を描くことに88年の長寿をつぎ込んだ北斎像が浮かんできました。
 誰も到達できない境地を見たことでしょう。

 なお、「ホクサイ」という雅号をかっこいいと思っていた私ですが、実は「アホクサイ」をもじったものとか、「屁クサイ」をもじったものという説が有力です。なんてこと!
 あ、番組中の板東英二さんは滝沢馬琴に扮した案内役です。

「風の画家~中島潔」

2010年12月24日 23時13分30秒 | 日本の美


私の好きな画家です。
作風は郷愁漂う背景にあどけない表情の子どもが佇むイメージ。
風になびく髪の毛や木々などの繊細に描き込まれた表情が見る者に「風」を感じさせ、いつの頃からか「風の画家」と呼ばれるようになりました。

2010/12/23にNHKで特集番組を放送していました。
なんと清水寺のふすま絵・屏風を手がけ、その公開が大反響を呼んだそうです。
見に行きたかったなあ。

背景の鮮やかな色彩(時には墨絵のような陰影)と柔らかな広がり感は、確かに屏風絵に向いていますね。

番組は中島潔さんの人生と作品の本質に迫った内容でした。

自分の存在を唯一認めてくれた母への思慕。
18歳の時にその母をガンで失い、しかしその2ヶ月後に再婚した父への憎悪と決別。
彼自身「父への憎悪と、失った故郷への思慕が絵を描く原動力となった」と悲しい事実を告白しています。

そして金子みすゞ作品との出会い。
彼が生涯取り組んだテーマである「大漁」は彼女の詩にインスパイアされたものです。
何度となく鰮(イワシ)の大群を描いてきましたが、その都度画面から受ける表情が異なります。
彼自身、今までは「死」のイメージが「生」に勝っていた、とコメント。
しかし、最新作である清水寺の屏風に描かれた「大漁」の鰮たちは圧倒的な生命力にあふれており、天に向かって上っていくのでした。





清水寺の屏風を作成中に父親の死を知り、そして完成後、彼自身がガンに冒されていることが発覚しました。
何かが吹っ切れ、そして全てが失われた経験。
人生の浮き沈みの果てに、彼の作風が変わりました。

過去の彼の作品の中には「ウメ吉」という可愛らしい子犬がいつもいました。
これは母ウメ子のモチーフで、いつも側にいて見守ってくれる存在。
暖かく包み込む母性的なものが満ちあふれているのは彼の願望を反映したものでしょう。
彼の作品からは峻厳な父性は排除されているのも頷けます。

そして、最新作にはウメ吉の姿が見あたりません。
あどけない子どもも、少し大人びて「自立」した雰囲気を纏います。
還暦を過ぎて、母の加護から飛び立った作者。

過去の呪縛から解かれた彼の魂がどんな作品を残すのか、楽しみです。


・・・手元に3冊の画集・展覧会の目録があります。
風邪の画家「中島潔の世界」ー童画でつづる30年史ー(2001年記念図録)
パリ帰国記念展「中島潔が描く金子みすゞ」ーまなざしー(朝日新聞社、2002年)
中島潔が描く「パリそして日本」(朝日新聞社、2005年)

その中で気になったコメントを書き留めておきます;

■ 初めて売れた絵は「雨やどり」という作品。
 銀座のあるお店のオーナーが好意で置いてくれたところ、ある歌手の目にとまって購入してくれました。そしてその歌手はその絵を元に「雨やどり」という歌を作り大ヒットしました。そう、その歌手とは”さだまさし”さんです。

■ 絵の勉強がしたくてお金も当てもないのにパリへ留学。
 午前中はルーブル美術館に入り浸り、午後は美術学校のデッサン授業に生徒でもないのに潜り込みました。あるとき、先生にスケッチブックを取り上げられ、「しまった、ばれた!」と思いきや、先生は彼の描いた線の美しさを褒めて他の学生に提示したのでした。この経験が画家になる決心をさせてくれました。

■ 39歳で苦労の末開いた初めての個展。
 お客さんが絵の前で涙したり、歌い始めるのを見て感動しました。私の絵に、暗い部分と優しさに満ちた部分が混在しているのは、暗さは39歳以前の、優しさはそれ以後の心模様が現れているのでしょう。

■ 彼の作品の中の樹木は、子どもが木登りして遊べるような巨木が多いのも私のお気に入りの理由の一つ。TV番組の中で樹木のスケッチをする場面がありましたが、彼は「枝振りが好きなんですよ。生きるために光を求めて枝を曲げながら伸ばしていく姿にたくましさを感じます。」とコメントしていました。

彼は現在肺ガンを患い、自らのいのちを見つめながら創作する日々を送っています。
その作品はどんな世界を見せてくれるのでしょうか。

消えゆく海女さん

2010年12月18日 06時50分53秒 | 民俗学
2010年12月18日の毎日新聞記事より;

「海女:高齢化進み激減 10年後消滅の懸念も」

 漁に出ている現役の海女は32年前に比べて全国で約7000人減り、18道県で2160人になっていることが17日、三重県鳥羽市の「海の博物館」の調査で分かった。8都県では海女がゼロになった。同博物館の石原義剛館長は「海女の高齢化が進行し、10年後には海女が消滅する可能性が高い」と懸念している。
 水産庁が1978年に実施した調査では、26都道県で9134人の海女が確認されていたが、4分の1以下に激減した。
 今年4月から、水産庁が前回調査した30都道府県と山形県を対象に、漁連などへのアンケートや現地調査を実施した。海女の人数が最も多かったのは三重で973人。次いで石川197人▽千葉158人▽静岡139人▽山口127人--の各県の順。静岡は前回1059人だったが、大きく減少した。
 前回調査で現役海女がいたが、今回0人になったのは、新潟=前回140人▽高知=同122人▽東京=同114人▽愛知=同64人▽宮崎=同35人▽富山=同30人▽神奈川=同17人▽茨城=同3人=の8都県に上った。
 激減の要因について石原館長は「藻場が荒れ、海女漁の対象となるアワビやサザエなどの資源の減少が大きな影響を与えている」などと分析している。

「小島一郎写真集成」

2010年12月05日 20時49分56秒 | 日本人論


39歳で夭折した津軽の写真家、小島一郎氏の写真集です。
発行はなんと「青森県立美術館」。

津軽の風景をモノクロ写真中心に収めています。
なんといっても暗雲垂れ込めるような空の表現が特徴的で、暗室での現像の際「覆い焼き」という技法を使っているそうです。
自然の厳しさを演出するその表現は、絵画的ですらあります。

もう一つの特徴は、写真の中の人物がほとんど背中を向けていること。
当然、喜怒哀楽の表情は読めません。
しかし、影となった人物は、特定の個人ではなく「その時代にその場所で生きた人々」という普遍性を帯びる効果を醸し出しています。

厳しい雪国で黙々と農作業を続ける人々。
生きることの辛さを物語る背中。

日本の歴史を底辺で支えてきたのは、間違いなくこのような名も無き人たちです。
祖先であり、私であり、あなたであり、未来の子ども達でもあります。

私自身、その昔学生時代を津軽で過ごし、自分のルーツを探すべくもがいていました。
小島氏はその答えを写真で示してくれたような気がします。

私にとっての「原風景」。

「遠野物語」by 森山大道

2010年12月05日 20時29分00秒 | 日本の美

カメラマンの森山大道が柳田国男の「遠野物語」に触発されて撮り下ろした写真集です。
森山氏は幼少期、父親の仕事の都合で転居・転校を繰り返し、お盆に帰るような田舎がありません。
自分の「原風景」とは何ぞや?
その問いへの答えとして、半分シンボリックな感覚で漠然と「遠野」に憧れていることを彼自身が書いています。

訪れた遠野は観光崩れしておらず、人々が黙々と生活を続ける日本の田舎町でした。

ひたすらシャッターを切り続けた写真は、その生活を切り取った断片です。

・・・残念ながら、写真にあまり魅力は感じませんでした。
文庫本を出張中の電車の中で斜め読みしたので、写真が小さくて迫力が十分に伝わらないのかなあ。

この本は「フォト・エッセイ」の形をとっています。
写真で勝負するプロが文章で自分の作品を解説するのはタブーじゃないんだろうか、と思ってしまう私です。

大好きな村上春樹氏でさえ、彼が自分の作品を語るインタビューは見たくも聞きたくもない人間なので(苦笑)。

実は私もシンボリックな「遠野」に憧れる一人で、その点では森山氏と同じ穴のムジナです。
学生時代は「民俗研究部」というサークルに属し、日本の辺境に生活する名も無き人々に自分のルーツを探そうともがいていました。

だから、それ以上のモノ、その先にあるモノを求めてしまうのかもしれません。